『通達』
チャックはその日の午後に領主館の物置小屋にあったという車椅子を見つけてきて、次の日に医者宅から松葉杖を持ってきた。
車椅子の方は、車輪の軸を直せば、すぐにでも使えるもの。修理はそのままチャックに任せ、座面に敷く布団は、ターシャがやはり物置小屋から取り出してきて、勢いよく叩いていた。
外門は開いたままだ。それは外門を閉める騒ぎになれば、ここに魔女がいるということを口外していると同じだ、というダルウェンのもっともな意見からだった。
今の状態を考えれば、ルオディックが書いた父宛ての手紙の返事を待って、外門を閉めればいい。
第一、魔女はこの館から逃げようともしないし、ターシャがずっとついている状態を考えれば、逃げる隙などないだろう。
ターシャの申し出により、彼女は通いではなく、住み込みになったのだから。
ターシャの言う理由はやはり以前と変わらないのだけれど。
確かに、その辺りの認識はルオディックが甘かったのかもしれない。
魔女は一度も袖が通されたことのない真新しい姉の普段着に袖を通し、あの夜の二日後から車いすに座って、母が好んでいたハーブ園にいることが多くなった。薔薇園の方よりも、魔女が好むのだそうだ。そのことについても、ずっと部屋の中に閉じこもっているよりはいい、とルオディックも思っている。
しかし、その魔女の姿は、リディアスの下級貴族やワインスレー諸国の令嬢とまったく遜色ない様子をしていた。確かに、犬猫ではない。それなのに、ルオディックの中では、彼女が他の『時の遺児』とは違うと感じてしまう。
もちろん、『人間』とも違うと。
ただ、それは、彼女がどこか夢見心地な瞳で世界を見ているからなのかもしれないのだが、ルオディックは確かに彼女をあらゆるものから区別していた。
ルオディックにとって不思議なことはそれだけではない。ターシャが姉の衣装を魔女に身につけさせたことだ。
魔女に取られたとされる、この世に生を受けなかった存在。
母が妄信する幻想だ。
ふと、トーラを考えた。もし、彼女がトーラだったのならば。
もし『姉』の存在を求めたのなら……。
姉はこの世に誕生するのだろうか。母の望みは叶うのだろうか。
☆
「坊ちゃま」
ターシャがルオディックを見つけて声をかける。
魔女は、『坊ちゃま』である彼の名が『ルオディック』だと知っている。だから、彼を見つめ、お辞儀をした。
ターシャが魔女に言っていたのだ。
『坊ちゃまはとても偉いお方になるのです。だから、あなたも坊ちゃまにお会いになる時は、身なりもきちんと、礼儀もしっかりなさいませんとね』
ルオディックという人間が偉いお方になるのかどうかは、魔女には分からなかったが、このディアトーラを治める長として、いつか魔女の村に住む者たちを守る立場にあるのだろうことは、分かった。
ルオディックは、魔女に優しい。
出窓からおろしてくれた後からずっと。
ご飯もくれるし、温かい居場所もくれる。
なにより、追いかけてこないし、武器も向けない。
だから、きっと良い長になるはずだ。
彼が口を開く。蒼い瞳は、穏やかに魔女に向けられている。
「足の具合はどうだ?」
具合がどうか……。
魔女は首を傾げた。
具合は悪い。だって、まだあんまり動かないから。だけど、魔女は、その穏やかな瞳が濁るのが嫌だと思った。黙っていると、ターシャが魔女に代わり答えてくれた。
「腫れは治まってきています。だけど、まだ力がうまく入らないのでしょう。松葉杖で歩けはしますが、長距離は無理ですね……まだ」
「そうか」
だけど、蒼い瞳が曇ってしまう。魔女はターシャを見上げた。ターシャも同じように曇り顔。
「大丈夫、歩ける……」
きっと、歩けたらいいんだ。
立ち上がって見せたら……。
魔女は両足に力を入れて立ち上がった。
ほら…………痛っ
ぐらりと右へと傾いていく体が、彼によって支えられた。
「無理しなくてもいい」
どうしたらいいのだろう。
魔女の体がまた車椅子へと戻された。
「歩けるようになったら、森の村までちゃんと送るから」
彼の言葉に魔女はこくりと頷いた。そして、座位の魔女に目線を合わせた彼は、魔女の頭に手を乗せて、変なことを言った。
「ごめんな。お前にも心配している誰かはいるよな」
心配している誰か……。
わたしにそんなものは、いない。いや、わたしを心配しているとすれば、ルオディックの方だ。
「そうだ、名前……」
そう言った彼が、向こうにいる人間に呼ばれた。
あの人間だ。
出窓の教会から出てすぐにいた、あの人間。
「悪い、また来る」
彼が、遠くへ行ってしまった。
☆
ルオディックが魔女から離れ、ダルウェンに近寄ると、ダルウェンが頭を下げた。その手には手紙が。
「早かったな」
リディアスからの手紙が、ダルウェンの手にあったのだ。おそらく、ルオディックが出した父母への手紙の返事だろうが、少し早い気がした。
「えぇ、ビスコッティ様からではあるのですが……」
不測のことが合ったのかもしれない。内容は先にダルウェンも見ているはずだ。その顔が曇っているということは、あまりよくない知らせが書いてあったに違いない。だから、ルオディックも声を潜め内容を尋ねた。
「悪い知らせか?」
「えぇ、はるかに」
そして、手渡された手紙の内容は、ルオディックの想像をはるかに超えた内容だった。
「まさか、漏れたのか?」
「いいえ」
ダルウェンがルオディックに耳打ちした。
「嘘だろ……」
リディアスに銀の剣を持つ者が現れた。そして、その小部隊が今ディアトーラに向かう準備を整え始めた。
狙いは間違いなく魔女だ。
今魔女と言えば、あの魔女しかいない。
「七日ほどで来るのか……」
部隊となれば、……。おそらくリディアスは早馬も共に船に乗せるだろう。個人ならもう少し時間も稼げただろうに。
「えぇ、早ければ五日ほどかと」
父と母はどれだけ急いでも間に合わない。
そして、ふと、ルオディックは、手紙の内容に引っかかった。
「勇者とは書いていない」
「……」
ダルウェンが静かに頷いた。
「……ルタか」
銀の剣を持つ魔女がいる。
それは、トーラが現れた時にのみ現れるのだ。しかし、ルタは通常人間に剣を与え、姿を消す。しかし、例外があるのだ。
トーラがこの世界を消滅させる兆しが……。
「ダルウェン、四日後に鍵を閉める。あの魔女を村へ帰したい」
「ですが、それでは」
言い募るダルウェンの言をルオディックは遮った。
「あの魔女は、ただ逃げただけの魔女だ。あんなに怯えていたんだぞ」
裏切りたくなかった。
あんなに怯えて何も出来ない魔女を。
そう、凶悪な魔女であれば。例えばゴーギャンを傷つけていたのなら。あの時、ターシャに牙を剥いていたのなら。
ルオディックを攻撃してくるような魔女だったのならば……。
「リディアスが来ることは確定だ。民に警戒も必要だ。魔女がここにいることを、知らせてくれ」
それでもルオディックとこの国を案じるダルウェンが彼を見つめている。
両方を案じることは難しい。しかし、国を動乱に巻き込まないためになら。
「リディアスの奴らがやってきたら、すぐに鍵を開ければいい」
そう、領主の息子は役目を果たしていたのだ。
魔女を館に閉じ込め、魔女を捕えていた。その魔女が逃げた。それを追いかけただけの不在。
それでいいじゃないか。
「あの魔女がトーラである確証はないんだ」
今は―――ないのだから。
※『あの薔薇が咲き乱れる頃には』ではリディアス(首都のゴルザム)からディアトーラまでは約三日と書いていますが、百年後には隣の国であるエリツェリまで線路が引かれ、ワインスレー諸国にも列車が走っているので、かなり時間短縮になっています。














