『ターシャはお世話係』
まったく坊ちゃまは……。
ターシャは深いため息をついて、洗面器と手拭い、そして熱めの湯を入れた大きめのポットを台車に乗せた。
なにが人一人くらいの世話ですか。相手は魔女ですよ。
ゆっくりと台車を押しながら、聞こえるか聞こえないかくらいの独り言をこぼす。
ターシャが立つのは魔女を入れた客間の前。
ここは、呪われた客室。魔女がいるばかりではない。
ここは、奥さまが二年前まできちんと衣替えをなさっていた場所。だから、すぐに準備を整えられたのだ。
ここは、……。
ターシャは、初めてここ、領主館に呼ばれた時のことを思い出す。
奥さまはリディアスの貴族の出。政略結婚の意味合いも多かったのだろうが、彼女はリディアスで行われた剣舞会に出場されていた旦那様に恋をして、ここに輿入れした方だった。
奥さまはよく仰っていた。
「他の候補なんて、跳ね除けてやったわ」
それほどディアトーラのことをよくご存じだったのだ。
そう、子を奪われるかもしれないことも。
それを聞いた他のご令嬢は、乗り気でない上に、その噂の恐ろしさに尻すぼんだのだ。
当たり前だろう。
そんな強い意志を持って来られた奥さまだった。
快活で美しくまっすぐな青い瞳を持つ。そんな女性だった。
しかし、ディアトーラの人間は、リディアスの人間を嫌う。
いや、当時はまだ女が物申すなど……。そんな意志を持つ奥さまは、それこそ、ターシャのように村八分扱いだった。
そんな中、ご懐妊されて……。
ターシャは扉を見つめた。
ルオディック様まで奪われては……。
と。
この扉の向こうには幻想の長女がいたのだ。奥さまの中では、十六の頃にリディアスの実家の遠縁に輿入れしたことになっている。今回のリディアスへの招待も、彼女の中では娘に会うためのものになっているのだ。
もし、彼女が生きていたのなら、二十歳。
旦那さまに嫁がれた奥さま、ルフィーユさまは、すぐにご懐妊された。しかし、ディアトーラ領民たちは、彼女に冷たく当たったのだ。ディアトーラの領主と領民の距離は、他国と違いとても近い。それが、凶と出たのだ。
奥さまは、慣れない土地での慣れない体の状態で、それでも領民とのかかわりを積極的にもたれようとされた。
だから、半年たたずに流産されてしまわれたのだ。
それ以降、どこか不安定な奥さまは、どこかふわりとした雰囲気を持つようになった。夢と現を行き来するような。
だけど、奥さまは、本当はちゃんと現実を見てらっしゃって。
それなのに、ターシャは今は客間であるその部屋に、導かれるようにして魔女を入れてしまっていた。
使われていない客間は、他にもたくさんあったのに。
魔女が望むものは、与えられなければならない。
どんな者にでも優しく接せられるルオディック様が、魔女に奪われてしまうのではないか。
この部屋に入れれば、あの幻の御子のように魔女はいなくなるのではないか。
そんな思いがあったのかもしれない。だから、ターシャは扉を見つめ、意を決してそのノブを回した。
扉を開く。
慌ててベッドに戻り、頭に布団をかぶったくせに、ベッドから落ちているお尻が完全に外にある魔女の姿が、ターシャの目に映った。どこか、奥さまの気持ちを乱暴に扱ってしまった気がした。
あの足で逃げ出そうとでもしていたのだろうか。
ふと、力が抜けてしまう感覚を覚えたターシャは、ルオディックとのやりとりを思い出し、思わず苦笑いをしてしまった。
「むかし坊ちゃまがかわいそうだからといって、拾ってきた犬や猫じゃないのです。どんな手を使って誘惑してくるか分かりません」
「どんな手だよ……あの魔女にそんな手、どう考えてもあるわけないだろう?」
確かに、それ以前の問題かもしれません。
いや、本当に犬や猫と同じような……そんな気さえしてくる。
そんな風に自分の勘違いをターシャは思わざるを得なかったのだ。それに加え、大切な坊ちゃまの目が確かだったことにも安堵したのだが、また別の憂慮が現れた。
坊ちゃまはそんなものを放っておけない性格をしてなさる。
それに、むかし魔女に取られたルフィーユさまのお子さまが、時を経て戻ってこられたのだとすれば、無意識にこの部屋を準備してしまったことも、……。
ターシャは慌てて考えを否定した。
あれは、流産であり、魔女に取られたわけではない。呪縛などではないのだ。
悪魔は、人の心の中にあったのだ。だから、防げる。
『ターシャ、もし、森から魔女が助けを求めてやってきたのなら、ここに入れてあげて。……もしかしたら、あの子の生まれ変わりかもしれないでしょう?』
奥さまの微笑む姿がターシャの瞼に映った。半分現実、半分夢の中の奥さまが。
本来魔女は怖がるものではない。ターシャはちゃんと頭では分かっているのだ。本当の魔女が目の前に現れてきたことで、動転してしまっただけで。
「いつまで寝ているつもりです。朝は起きるもの。いつまでも汚れたままではいけませんし、布団は頭ではなく、体にかけるものです」
毅然とした態度を取り戻したターシャが、魔女から布団を一度奪い、その体にかけ直した時の言葉だ。
☆
ルオディックは、ターシャが苦手だ。
何が苦手かと言えば、ダルウェンと違い、唐突に今朝のようなことが起きるからだ。
だいたい、怖いんなら来なくていいのに。
職務を免除すると言っているのだから。
そう思い、万屋の扉を叩いた。
ダルウェンに鍵のこと、そして父への手紙を届けることを伝えねばならないのだ。そして、あの魔女が歩けるように、松葉杖か車椅子がないかを尋ねようと、ルオディックは思っている。
元気は元気なのだ。寝たきりには出来ない。かといって、あの足を無理させる歩かせ方も出来ない。付きっきりの看病なんて、出来ない。
……というところは、確かにターシャに軍配が上がる。
ターシャがいてくれる、という気遣いは、ルオディックにとってありがたいものではある。
あの変な理屈さえなければ。
あの理屈のおかげで、変に意識してしまって、魔女の部屋に朝食の食器を取りに戻ることすら躊躇われてしまったのだから。
ターシャの言う通り、魔女は人のかたちをしている。同じ言葉も喋るし、確かに犬猫ではない。魔獣に狙われにくいというだけで、実際のところは人間と変わらない存在である。そう思えば、婚姻関係にもない婦女子の部屋に、ルオディックほどの年齢の男子が出入りするということは、変な誤解しかないだろう。ターシャのせいで考えれば考えるほど頭を抱えたくなった。
いや、でも、雰囲気的にも大きさ的にも、あの魔女はまだ子どもだろうし……。
しかし、心情的に、今のルオディックは詰んでいるのだ。
ルオディックが扉の前で待っていると、チャックが現れた。
「おはようございます、ルオディック様」
いつもは、先輩風を吹かせるチャックだが、家の者がいる場所では、敬語を怠らない。きちんと頭を下げて、礼を欠かすこともない。
「ダルウェンに話がある」
「父なら中にいます。どうぞお入りください」
チャックがルオディックを招き入れようと、その体を内へ避けた時に、ルオディックが彼に声をかけた。
「松葉杖か車椅子、準備しておいてくれないか? 詳細はこの後、伝えるから」
その言葉に対して、なんだかよく分からない表情を浮かべたチャックに「ちょっと、足を痛めた者がいてな。チャックの知り合いじゃない」と伝える。
「承知しました」
彼が安心した様子を見せた。
きっと、ダルウェンは、まだチャックに魔女の存在を知らせていないのだろう。
ルオディックは、チャックの様子にそう思った。














