『ときわの森に棲む魔女④』
どっちが魔女だか分からない。
それがルオディックの素直な感想だった。
水を張った洗面器を抱えたターシャは、まず叫んだ。
『坊ちゃま、それを捕まえておいてくださいっ』と。
そもそも、ターシャが鬼の形相で現れなければ、魔女は飛び上がって逃げなかったと、ルオディックは、今現在でも思っている。
ルオディックの動きが遅いと思ったターシャが次に取った行動は、洗面器を置いて、その魔女を追いかけるだった。
その時も、同じ言葉を発して、その後を続けていた。
『それを、捕まえておいてくださいっ。足の手当ては早い方が良いかと』
言葉自体には、ルオディックも賛成だった。
ただ『それ』呼ばわりと、その緊張からなのか、表情のない鬼の形相と、追いかけることには抗議を申し立てたいだけで。
だが、考えてみればルオディック自身も、彼女の名は知らないのだ。ターシャのことをどうこう言える立場ではないのかもしれない。
「動くなっ、余計に。あぁ、もう、ターシャも、追いかけるなっ」
もちろん、ルオディックの声は魔女には届かず、ターシャにも響かない。ふたりが、部屋の中を走り回るこの状態をどうにかしなければ……。そんな思いでルオディックは、魔女の前に立ちふさがったのだ。
あの足で走り回られると、余計に状態が悪くなる。
相手を傷つけないように、逃げる魔女を受け止めるようにして、行動を制限したのはしたのだが……。
二度と信頼してもらえない自信には繋がった。
ルオディックに抱き留められた魔女は、ルオディックを見上げた途端に、あの新緑色の綺麗な瞳を大きく見開き、その後大きく息を吸ったはずの息が止まり、そのまま気を失ってしまったのだ。
だから今、ルオディックの腕の中には、ぐったりと体を預けている魔女がいる。
さらに、目の前には鬼のターシャがいて、硬い口調で、今現在の主であるルオディックに命令を下していた。
「良いですか。動きませんね。このまま動かないように、そうですね、そのまま椅子に座っていただけると」
もうどうでも良かった。
ルオディックはそのまま大きな溜息を付いて、魔女を抱えたまま、魔女を椅子に座らせるようにして、自身もともにソファに腰をかけた。
「坊ちゃま、動かないでくださいね」
ルオディックの気も知らず、ターシャが慎重に『魔女』に近づくと、その足元に跪いた。そして、魔女の足をやはり慎重に手に取り、そっとその洗面器の中に入れる。
手当をしようとする気持ちは、本物のようだ。
そう、恐怖はあるが、ディアトーラの人間は、基本お人好しである。
ルオディックはそんな彼らを守る立場にある。
魔女から魔獣から。リディアスから。
ぐったりと眠っている魔女の顔は、今のルオディックからは見えない。ただ、そのぬくもりだけが、ルオディックの体温に重なっているだけで。その寝息のような呼吸が穏やかに伝わってくるだけで。
領主として、彼女を守りきることは叶わないだけで。
ただ、平穏無事なかたちで森へ帰ってもらうだけで。
ルオディックの眼下にあったお仕着せの帽子の動きが止まった。
「坊ちゃま」
ぼんやりと思い耽っていたルオディックの耳にターシャの落ち着いた声が届いた。
「魔女の足は、こんなにもか弱いのですね……」
「そうだな」
彼らは、魔女が人間と変わらないことすら、信じていない。
扉が叩かれた。医者が来たのだ。ダルウェンの声がルオディックに伝える。
「エドワードを連れて参りました」
ダルウェンは、親父の方を連れてきたようだ。
ターシャが扉を開き、現れたエドワードは初老の男だ。確かに、魔女に関わるのであれば、基本的に年老いた方を選ぶ。だからと言って、腕が落ちているわけでもない。
「夜遅くに申し訳ない」
ルオディックが眺めた先の初老の男は、ただ眉を顰めルオディックに静かに答える。
「いえ、その患者はいったいどうなっているのですか? 捻挫だろうと聞いておりましたが」
そのエドワードの言葉に、ルオディックは少し肩の力が抜けるのを感じた。
領主にとっての魔女は、エドワードにとっては『患者』なのだと、ただそれだけだったが、ルオディックは彼を信用できると思えたのだ。
「今は、……寝ている感じかな」
その後エドワードは魔女をベッドに運ぶように指示し、その足首に添え木と湿布、包帯で固定を施し、頬の傷に塗り薬を塗った後、綿紗を油紙で覆った。
「若いので綺麗に治るかもしれませんが、多少痕が残るかもしれません」
そんなことを言いながら。
「治ると良いな」
ルオディックもつぶやく。
魔女は静かに掛布団を被って眠っていた。
エドワードに治療費を渡し、ダルウェンに彼を送るように伝える。そして、ターシャには、明日から暇を与えることを。
「明日の朝、ダルウェンに鍵を渡すから。それまでに荷物をまとめるように」
「あの、坊ちゃま」
寸暇の間、沈黙だったターシャが言った。
「母に事情を伝えたく思います。ですので、こちらに参るのは少し遅くなると思います。ですので、朝はご自分でご準備していただけますか?」
まさか、この時の彼は、彼女がルオディックの指示を全く無視するとは思っていなかった。
だから、「分かった」と素直に彼女へ告げたのだ。
☆
朝。窓の外から明るい光が差し込んでくる。魔女はゆっくりと身体を起こし、流れ落ちる自分の長い髪を手で梳いてみた。とてもよく寝た。すると、髪を梳いていた手が引っかかった。
先が少しもつれているのだ。
指先でそのもつれを解く。
そして、気づく。
魔女の寝床は、こんなにふかふかのベッドだっただろうか。
いつも、どこか硬い場所で眠っていたはずなのに。
魔女はぼんやりする頭を人差し指で掻いてみた。
そして、頬にその手を下ろす。
あ、そうか……。
魔女は、布団の中にある右足を眺めた。左足は動く。だけど、右足は、木に固定されて、その動きを嫌がる。あの足はいったいどうやって動かしていたのだろう……。木のせいだけではない気がした。
動かないままなのだろうか。
魔女はやはりぼんやりする頭で考え続けた。
とても怖いことがあった。だけど、温かい場所に今いる。
部屋を見回すと、柔らかな色のドレッサーとテーブル。そして、柔らかそうな長椅子があった。
あ、そうだ。
ここは、人間の家だ。
そんな風に思い出した。
ただ、人間は出窓から魔女を下ろし、ここで怪我の治療をして……。人間の手下のひとりは、怖い顔をして追いかけてきたけど。鉄砲を持つ人間はいなかったけど。
……ここは、安全?
扉が開く音がした。顔をその音に向けた魔女は、慌てて布団の中に隠れ込んだ。
あ、あの蒼い瞳の人間だ……。あの教会に満ちていた色と同じの。
温かな体温を持つ、そんな……。だけど、人間。
だけど、……彼を見ると安心するような、苦しくなるような、そんな人間。
☆
羽毛布団がふわりと膨らみ、もう一度魔女が布団の中に隠れてしまった。
ルオディックは、「あ、申し訳ない。眠っているかと思って……」と、自分の非を詫びて、彼女の枕元にある小さな机に朝食を載せた。
「ターシャがいなくて、牛乳粥しかないんだけど」
そのルオディックの言葉に、布団がわずかに頷いた。会話にはならないだろうが、聞いていることは確かなようだ。そう思い、ルオディックは続けた。
「足の具合はどうだ? 歩けそうか?」
魔女でなければ、きっとそんな声はかけなかっただろう。きっと、ルオディックの中でもどこか区別している部分があるのだ。
布団が否定するように左右する。
「そうか……頬の方は? それは、おれでも取り換えられると思うけど」
やはり、否定するように左右する。
「分かった。食べ終わった頃にまた来るから」
その布団で何が守られるのか……。そんな風に思うと、思わず笑ってしまいそうになる。
そんな笑みを堪えるルオディックは、言葉通り部屋を退出した。
月明りと燭台の光の中ではよく見えなかった魔女の容姿は、陽の光に春めいて見えた。
初夏にある若い葉を彷彿させる瞳と、長く艶のある茶色の髪。
なぜか、どこか懐かしく。
どこか、彼女は安全であると信じられる自分がいることが、とても不思議で。
扉の外に出たルオディックは、胸の奥にある何かと記憶を辿るように、あり得ない懐かしさと、どこか安堵する自分に気がついていた。
安堵するには、まだ早いはずなのに。
あぁ、生きていてよかったという、そんな当たり前の安心感を胸に滲ませてしまうのだ。
『ときわの森に棲む魔女』了














