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Ephemeral note「過去を変える魔女と『銀の剣』を持つ者」  作者: 瑞月風花
第三章『望まれた世界』

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『ときわの森に棲む魔女④』


 どっちが魔女だか分からない。

 それがルオディックの素直な感想だった。

 水を張った洗面器を抱えたターシャは、まず叫んだ。

『坊ちゃま、それを捕まえておいてくださいっ』と。


 そもそも、ターシャが鬼の形相で現れなければ、魔女は飛び上がって逃げなかったと、ルオディックは、今現在でも思っている。

 ルオディックの動きが遅いと思ったターシャが次に取った行動は、洗面器を置いて、その魔女を追いかけるだった。

 その時も、同じ言葉を発して、その後を続けていた。

『それを、捕まえておいてくださいっ。足の手当ては早い方が良いかと』

 言葉自体には、ルオディックも賛成だった。

 ただ『それ』呼ばわりと、その緊張からなのか、表情のない鬼の形相と、追いかけることには抗議を申し立てたいだけで。


 だが、考えてみればルオディック自身も、彼女の名は知らないのだ。ターシャのことをどうこう言える立場ではないのかもしれない。


「動くなっ、余計に。あぁ、もう、ターシャも、追いかけるなっ」


 もちろん、ルオディックの声は魔女には届かず、ターシャにも響かない。ふたりが、部屋の中を走り回るこの状態をどうにかしなければ……。そんな思いでルオディックは、魔女の前に立ちふさがったのだ。

 あの足で走り回られると、余計に状態が悪くなる。

 相手を傷つけないように、逃げる魔女を受け止めるようにして、行動を制限したのはしたのだが……。

 二度と信頼してもらえない自信には繋がった。


 ルオディックに抱き留められた魔女は、ルオディックを見上げた途端に、あの新緑色の綺麗な瞳を大きく見開き、その後大きく息を吸ったはずの息が止まり、そのまま気を失ってしまったのだ。

 だから今、ルオディックの腕の中には、ぐったりと体を預けている魔女がいる。

 さらに、目の前には鬼のターシャがいて、硬い口調で、今現在の主であるルオディックに命令を下していた。

「良いですか。動きませんね。このまま動かないように、そうですね、そのまま椅子に座っていただけると」

 もうどうでも良かった。


 ルオディックはそのまま大きな溜息を付いて、魔女を抱えたまま、魔女を椅子に座らせるようにして、自身もともにソファに腰をかけた。

「坊ちゃま、動かないでくださいね」

ルオディックの気も知らず、ターシャが慎重に『魔女』に近づくと、その足元に跪いた。そして、魔女の足をやはり慎重に手に取り、そっとその洗面器の中に入れる。

 手当をしようとする気持ちは、本物のようだ。


 そう、恐怖はあるが、ディアトーラの人間は、基本お人好しである。

 ルオディックはそんな彼らを守る立場にある。

 魔女から魔獣から。リディアスから。


 ぐったりと眠っている魔女の顔は、今のルオディックからは見えない。ただ、そのぬくもりだけが、ルオディックの体温に重なっているだけで。その寝息のような呼吸が穏やかに伝わってくるだけで。

 領主として、彼女を守りきることは叶わないだけで。

 ただ、平穏無事なかたちで森へ帰ってもらうだけで。


 ルオディックの眼下にあったお仕着せの帽子の動きが止まった。

「坊ちゃま」

 ぼんやりと思い耽っていたルオディックの耳にターシャの落ち着いた声が届いた。

「魔女の足は、こんなにもか弱いのですね……」

「そうだな」

 彼らは、魔女が人間と変わらないことすら、信じていない。


 扉が叩かれた。医者が来たのだ。ダルウェンの声がルオディックに伝える。

「エドワードを連れて参りました」

 ダルウェンは、親父の方を連れてきたようだ。

 ターシャが扉を開き、現れたエドワードは初老の男だ。確かに、魔女に関わるのであれば、基本的に年老いた方を選ぶ。だからと言って、腕が落ちているわけでもない。


「夜遅くに申し訳ない」

 ルオディックが眺めた先の初老の男は、ただ眉を顰めルオディックに静かに答える。

「いえ、その患者はいったいどうなっているのですか? 捻挫だろうと聞いておりましたが」

 そのエドワードの言葉に、ルオディックは少し肩の力が抜けるのを感じた。

 領主にとっての魔女は、エドワードにとっては『患者』なのだと、ただそれだけだったが、ルオディックは彼を信用できると思えたのだ。


「今は、……寝ている感じかな」


 その後エドワードは魔女をベッドに運ぶように指示し、その足首に添え木と湿布、包帯で固定を施し、頬の傷に塗り薬を塗った後、綿紗を油紙で覆った。

「若いので綺麗に治るかもしれませんが、多少痕が残るかもしれません」

 そんなことを言いながら。

「治ると良いな」

 ルオディックもつぶやく。


 魔女は静かに掛布団を被って眠っていた。

 エドワードに治療費を渡し、ダルウェンに彼を送るように伝える。そして、ターシャには、明日から暇を与えることを。

「明日の朝、ダルウェンに鍵を渡すから。それまでに荷物をまとめるように」

「あの、坊ちゃま」

寸暇の間、沈黙だったターシャが言った。


「母に事情を伝えたく思います。ですので、こちらに参るのは少し遅くなると思います。ですので、朝はご自分でご準備していただけますか?」


 まさか、この時の彼は、彼女がルオディックの指示を全く無視するとは思っていなかった。

 だから、「分かった」と素直に彼女へ告げたのだ。


 ☆


 朝。窓の外から明るい光が差し込んでくる。魔女はゆっくりと身体を起こし、流れ落ちる自分の長い髪を手で梳いてみた。とてもよく寝た。すると、髪を梳いていた手が引っかかった。

 先が少しもつれているのだ。

 指先でそのもつれを解く。

 そして、気づく。


 魔女の寝床は、こんなにふかふかのベッドだっただろうか。

 いつも、どこか硬い場所で眠っていたはずなのに。


 魔女はぼんやりする頭を人差し指で掻いてみた。

 そして、頬にその手を下ろす。

 あ、そうか……。


 魔女は、布団の中にある右足を眺めた。左足は動く。だけど、右足は、木に固定されて、その動きを嫌がる。あの足はいったいどうやって動かしていたのだろう……。木のせいだけではない気がした。

 動かないままなのだろうか。

 魔女はやはりぼんやりする頭で考え続けた。

 とても怖いことがあった。だけど、温かい場所に今いる。


 部屋を見回すと、柔らかな色のドレッサーとテーブル。そして、柔らかそうな長椅子があった。

 あ、そうだ。

 ここは、人間の家だ。


 そんな風に思い出した。

 ただ、人間は出窓から魔女を下ろし、ここで怪我の治療をして……。人間の手下のひとりは、怖い顔をして追いかけてきたけど。鉄砲を持つ人間はいなかったけど。


 ……ここは、安全?


 扉が開く音がした。顔をその音に向けた魔女は、慌てて布団の中に隠れ込んだ。


 あ、あの蒼い瞳の人間だ……。あの教会に満ちていた色と同じの。

 温かな体温を持つ、そんな……。だけど、人間。

 だけど、……彼を見ると安心するような、苦しくなるような、そんな人間。


 ☆


 羽毛布団がふわりと膨らみ、もう一度魔女が布団の中に隠れてしまった。

 ルオディックは、「あ、申し訳ない。眠っているかと思って……」と、自分の非を詫びて、彼女の枕元にある小さな机に朝食を載せた。

「ターシャがいなくて、牛乳粥しかないんだけど」

 そのルオディックの言葉に、布団がわずかに頷いた。会話にはならないだろうが、聞いていることは確かなようだ。そう思い、ルオディックは続けた。


「足の具合はどうだ? 歩けそうか?」


 魔女でなければ、きっとそんな声はかけなかっただろう。きっと、ルオディックの中でもどこか区別している部分があるのだ。

 布団が否定するように左右する。

「そうか……頬の方は? それは、おれでも取り換えられると思うけど」

 やはり、否定するように左右する。

「分かった。食べ終わった頃にまた来るから」

 その布団で何が守られるのか……。そんな風に思うと、思わず笑ってしまいそうになる。

 そんな笑みを堪えるルオディックは、言葉通り部屋を退出した。


 月明りと燭台の光の中ではよく見えなかった魔女の容姿は、陽の光に春めいて見えた。

 初夏にある若い葉を彷彿させる瞳と、長く艶のある茶色の髪。

 なぜか、どこか懐かしく。

 どこか、彼女は安全であると信じられる自分がいることが、とても不思議で。


 扉の外に出たルオディックは、胸の奥にある何かと記憶を辿るように、あり得ない懐かしさと、どこか安堵する自分に気がついていた。


 安堵するには、まだ早いはずなのに。

 あぁ、生きていてよかったという、そんな当たり前の安心感を胸に滲ませてしまうのだ。


『ときわの森に棲む魔女』了

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― 新着の感想 ―
足を負傷した「魔女」をいたわりながら介抱するルオディックと、「それ」と呼ぶターシャ、「患者」として分け隔てなく接するエドワード、それぞれの立場が魔女と人間の関係の難しさを物語っているようで、とても印象…
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