『銃声』
大丈夫。きっと。だって、彼の中から『ワカバ』は消えたんだもの。彼は確実にルオディックとして生きているのだもの。まだ違和感はあるかもしれないけれど。
そう思いつつ、自分の胸に手を当てる。
『わたし』は、『ワカバ』を捨てられない……のだろうか。
ときわの森の大樹の上空で手紙を一通、過去へと飛ばしたその魔女は、胸に手をあて息をはき出した。これできっと、ルリは消えない。あのおばあちゃんは、ワカバを見て、こう言った。
『待っていたよ』
孫の話を聞いて欲しいと言って、話し出した。そして、金魚ちゃんのお墓を作ってくれた。
『恩人だからね』
この時間に生きる魔女は、リディアスの兵に捕らえられるために存在する。それは、すでに存在する過去だったのだ。
ワカバは、あの老婆に会うことが必然だった。そして、きっと、キラにも。ただ、あの場所じゃない。
記憶が曖昧でなければ、きっと、ひとりでもここまで戻ってきただろう。だから、ワカバはときわの森へ戻ろうとしていたのだろう。
いや、たとえ、キラがあの場所にいたとしても、ルオディックなら二度目はなかった。そして、ここでラルーに刺されていたのだろう。
ラルーはこの世界を守る看視者なのだから、ラルーの守る世界を崩す魔女は、いくらトーラの器だとしても、彼女の敵でしかない。
きっと。殺せない相手ではなく、ただ実力の差で。
だけど、あんな場所で出会ったから、この手紙は届かなかった。
ラルーが『ワカバ』を消そうと紡いだ過去だったのだとしても、ワカバの母がこの世界をワカバのために作った時点で、ラルーがワカバを消すことだって、必然だったのだ。
トーラが実の娘たちを自ら消すわけがないのだから。
道筋に狂いがあったのだとすれば、きっとラルーが『ワカバ』を望んだことだ。だから、わたしはイルイダを望めなくなった。ラルーが狂わせたから。ラルーが、『ワカバ』にしたから。
ラルーが……。
だから、イレギュラーにルオディックが『キラ』になったのだ。彼は『キラ』なんかになったから、あんなにも魘される。
ワカバが消えれば良かった。
だったら、こんなに悲しい気持ちになどならなかった。
そう、ぜんぶラルーのせい。
でも、だからって、ラルーが消える必要なんてない。
ラルーは今までずっとこの世界を見守って壊れないようにしてきたんだもの。ラルーの守ってきた世界を奪った『わたし』に腹を立てても、仕方がない。
だから、魔女は胸にあった掌を、拳に変えた。そして、穴がないように考える。
通報するのはこの国、ディアトーラだ。戻す過去の流れはあまり変えたくない。
父母を彼の元へ戻した瞬間に、彼が父親を殺した記憶は、きっと復活してしまう。
完全に塗り替えるためには、別のよく似たものへの差し替えが、安全な記憶改竄となる。
だから、慎重に考えているのだ。完全に消すためにも、その方が良い。
まずは、必要のない記憶へと。必要のない記憶は消えやすい。
しかし、良くも悪くも、ディアトーラが魔女と共にあることが、とても都合が悪い。リディアス関係者だったら、都合よく『正義』にしてあげられたのに。
さらに、いくらルタだからと言っても、ラルーが銀の剣を持っているのだ。
そう、彼女が魔女を殺してしまうのならば、『ワカバ』は再びワカバとして甦るかもしれない。
どうして、彼女がそこまで『ワカバ』にこだわるのかも分からないけれど、それだと、もしかしたらルオディックの中からワカバの存在が消えてしまうかもしれない。
そう思い、魔女は頭を振った。
そんなことになったら、イルイダの存在をこの世界に戻せなくなってしまう。そして、再び息を吐いた。
何よりもワカバの望みは、どんな形であれ……だ。
そして、空を見上げて考えた。
イルイダを元に戻すための願いは、あの時間のワカバが会ったルオディックのもの。
ただ、本来流れるはずだった『今』にイルイダを付け足せばいいだけ。
黒髪黒目の女性が、あの屋敷にいた事実は残っている。
とにかく、ディアトーラに向かって……。
目を瞑った魔女は、『ワカバ』が付随する今ある自分の記憶を封じ、ただ人間を怖がる魔女として自身を存在させることにした。弱き獣は、すぐに牙を剥くだろう。その牙は必ず人間を抉るだろう。
今の立場のルオディックなら、領民を守ることを優先するはず。
出来るだけ反抗的に、出来るだけ彼に罪悪感を持たせないように。だけど、誰も消さずに。
ときわの森に銃声が響いたのは、その一刻後だった。
☆
白磁の女神が飾られてあるその教会は、祖父の代に閉鎖され、父の代でリディアスの『女神』を置くことで、解放された。
ただ、リディアスの女神と違い、その両の手は何かを掬い上げるようにして、揃えられている。
ディアトーラとしての最低限の抵抗ともいえる。
しかし、ときわの森には魔女と女神が住んでいるのだ。
ディアトーラでもリディアスでも同じようにそう言われている。
魔女はディアトーラが信仰している『トーラ』であり、女神の方はリディアスが信仰する女神『リディア』である。神話の時代にこのときわの森の中心部で、彼女たちの世界攻防戦があったのだそうだ。
そして、トーラはリディア神に取り込まれ、リディア神はトーラに心臓を掴まれたまま動けなくなった。
だから、このディアトーラには両方の神が存在するのだ。それを一つにした者が父。
ルオディックは祈りを捧げながら、不思議な気持ちになるのだ。
トーラは人の願いを叶える魔女である。
だったら、どうして『悪』になるのだろう。
悪があるとすれば、それを願った人間なのではないだろうか、と。
ルオディックの中で、それは強い真実として刻まれている。
そんな白磁の女神は、今日も穏やかに青いガラス窓から差し込む蒼い光をその手に掬い上げている。
朝の祈りを終えたルオディックは、そのまま剣術の稽古に励み、その後、軽く朝食を摂る。
食事を運んでくるのは、あのターシャである。
ターシャはルオディックのことを『坊ちゃま』と呼び、ルオディックを子ども扱いしている。ルオディックはそれを、苦手としていた。
「坊ちゃま、行ってらっしゃいませ」
領内の見回りの度にそう言って送り出されるのだ。そして、帰宅すると「坊ちゃま、お帰りなさい」と言われる。
どうも慣れない。
だから、見回りが終わり、大きくため息をついてしまったルオディックは、今、朝に残してしまっていた書類整理やそろばん作業に勤しんだ。
籠っていれば、ターシャに何かを言われることもないし、父母が帰ってくるまでここにいる領主補佐のダルウェンに、小言を言われることもない。
ルオディックに任せられている作業など、領主の仕事としては大したことではないのだ。それに、まだ正式に跡目と決まったわけでもないルオディックが、何かの権限があるかと言えば、ない。
それなのに、ダルウェンはすぐに自覚を持てと、ディアトーラの歴史を語り出す。
ダルウェンの語る内容くらい、……。
知っている。幼いころからずっと、……。
母に聞かされてきて……。
そう、ターシャが『坊ちゃま』と呼ぶことに違和感があるのと同じように、ルオディックは少年期から青年に差し掛かろうとする今を考えると、違和を覚えるのだ。
ディアトーラが必要以上に何かを求めてはならないこと。
魔女の支配下にある国王であるから、領主と名乗ること。
石高を毎年きっちりつけ、収益を儲けとして蓄えないことは、魔女を恐れるが故。
必要以上を求めれば、その必要以上を魔女に奪われてしまうから。
魔女が欲しがるものは、常に与えられなければならない。
そう、例え、それが我が子であっても……。
全部母から……いや、父からだろう。
母は、リディアス国王の一族リディア家遠縁リンディの娘なのだから。
そして、ルオディックは針を刺すような頭痛に頭を抑える。
そのまま蹲りそうになる。
その痛みからルオディックを解放したのは、一発の銃声だった。
「……今日は……あぁ、ゴーギャンに狩猟許可を出したんだった……」
屋敷の後方にあるときわの森へ入るには、領主の許可が必要だ。それは、ときわの森には魔女がいること、そして、大型魔獣がいることに端を発する決まり事だった。
ときわの森には、魔獣よりもずっと多くの獣が住んでいる。
ディアトーラの狩人たちは、森の恵みをディアトーラにもたらすため、教会へ赴き、狩猟の許可をその女神に乞うのだ。
狩猟目的で森へ入ること、どのくらいの数を戴きたいのか。その上で、ご加護を戴きたいと、願う。ゴーギャンもそのひとりだ。
その収穫したい数と内容を控え、承諾するのは領主の仕事でもある。
今の銃声で大型の獣を仕留めていたのなら、そろそろ帰ってくるのだろう。帰ってこなければ、……。
捜索に向かわなければならない。
立ち上がったルオディックは窓辺に立ち寄りときわの森を眺めた。
深い色に包まれた木々が、白い光にぼやけて見える。いつもと同じ匂いと、何か……。
しかし、どこかそんなことを自分が分かるはずがない、と思っていた。
そう、銃声の鎮まった森は静かだった。魔獣が暴れている時の森は、もっと騒めいている。
そんなことを思っていると、ルオディックを襲っていた頭痛は、いつの間にか治まっていた。














