『薄れゆく記憶の中で③』
ルオディックがしなければならないことは、昼に領内を見回ること。それまでは、書類整理らしい。
しかし、キラにはその書類が何を意味するのかまったく分からなかった。
内容はもちろん分かるが、その内容がどこから発しているものかが、分からないのだ。
暗喩のように意味が隠れているものかもしれないし、そのままの意味かもしれない。だから、ほぼすべては保留の箱の中へ積み上げていくだけだった。
本来ルオディックが、ここで住み、父とともに過ごしていればこのようなことはなかっただろう。
だから、キラはまだ『キラ』なのだ。
そして、太陽の加減を確かめて、民の活動が温まり始めた頃を見計らい、領内に異変がないかを確認して回り始める。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
チャックに声を掛けられて、返事を返す。
「最近元気ないな。見回りなら一緒に行くよ」
ルオディックは溌剌とした性格でもしていたのだろうか……。自分自身のことでもあるのに、まったく分からない。
だから、キラは首を傾げながら、感謝の言葉だけ述べて、苦笑いでやり過ごす。
「親父、迷惑掛けてないか?」
「あ、あぁ、助かってる」
そう答えると、「ふぅん」と鼻をならして「なら良かった」と彼は続けた。
彼の父、ダルウェンにはまだ館内で出会ったことがない。しかし、そういう役目で館内へ出入りしていることは知っている。
「じゃあ、やっぱりまだ疲れが残ってるんだな。留学先から帰った矢先の両親不在。しかもリディアスへの訪問だもんな」
こういう場合、彼の知る『ルオディック』はその言葉を反抗的に取ったのだろうか? そんなことを考えながらも、今のキラで答えてみる。
「そうかもしれない。心配ありがとう」
彼との会話の中で分かったことは、ルオディック自身が変えられた状態は変わることはないということ。領主館にいた魔女の言葉を信じるならば、キラが『今』を変えることが出来ていないから変わらない、になるのだろう。
そう、魔女はこう言っていた。
『魔女は過去を変えるもの。人間は今を変えるもの。そして、望みを忘れないこと』
今のキラは、いくら足掻いても流されてしまうだけ。どうすれば変えられるのかも分からない。
そうだ、どうしても無理な場合は、相手の策に流されてみるのもありだ。そうすれば、相手が何を考えているのかの想像がつくかもしれない。そんな風に教えられたことがある。
ただ、これも、誰の言葉だったのかも分からない。
誰か、とても大切に思うひとりだった気がするのだけど。
そして、今、自分自身が何を望んでいたのかを思い出そうと、考える。
『キラ』は、変わらないことを望んでいたはずだ。
何を変えたくなかったのか。
消えて欲しくないと、思っていた。それは確か……。
「あ、ターシャっていう女いるだろ? 上手くやってるか?」
「は?」
「ほら、ちょっと変わった、魔女って呼ばれてる黒髪の……」
チャックが不思議なものでも見るような表情でキラを眺めている。
当たり前だ。今までターシャの『タ』の字もなかった誰かが急に顔を出したのだ。
「ほら、小間使いの。今回の領主様達の突然の不在だからって、お前のために用意されただろ?」
チャックが言葉を繋いでくれたおかげでキラはようやく返事が出来た。
「あ、あぁ、あの、大丈夫。上手くやってるから」
思ったが吉日……。
ふと、誰かを思い浮かべていた。
「悪い、用事を思い出してしまって。見回り頼む」
ぽかんとするチャックを置いて、『キラ』いや『ルオディック』は館へ向かい走り始めた。黒髪黒目の女が魔女であるという記憶はある。しかし、同時に違和感がはしる。確かめなくてはと、苛立ちとともに駆け出した。
―――言っておくがな、お前じゃないんだから自分のことは自分で出来るんだよっ
なにかに腹を立て、そんなことを思い浮かべた理由は、自分でもまったく分からなかった。
領主館を取り囲むようにして巡らされている黒い柵は、まるで檻のようにして存在している。そして、その中にあるのが領主館である。後方にはときわの森、そして前方にはその柵。ときわの森から現れる魔女が町へまで下りていかないように。
魔女の対応は、領主たちで留められるように。
しかし、ディアトーラが恐れる魔女にそんな檻が役に立つわけがない。なにかを欲しがる魔女など、何も恐ろしくないのだ。本当に恐ろしいのは、『トーラ』を持つ魔女のみなのだから。
しかし、それは、そういう意味が込められて存在している。
いや、魔女を守るために。ここが最後の砦として。
チャックが言っていた黒髪のターシャという女は、ルオディックの母よりも少し年長で、身の回りの世話をさせるための小間使いだった。そんな彼女は、母がここに輿入れしたころにも同じように小間使いとして勤めたことがあるのだ。だから、クロノプス家としては、信頼のおける人物である。
しかし、彼女のその風変わりなところから、『魔女』と謗られる者でもあった。
ただ、リディアスでは、そのようなことで『魔女』呼ばわりされることはもうない。彼女はただ女手ひとつで身を立てようとしただけなのだから。
そんな者、リディアスにはたくさん存在しているのだから。
領主館に戻ったルオディックは、そんな風にかつてから知る『魔女』を思った。
お仕着せの黒髪の女が振り返る。
「あら、坊ちゃま。お帰りなさい」
そう、ルオディックの中で確実性のある『魔女』は、現在唯一ターシャのみとなったのだ。
『薄れゆく記憶の中で』了














