『薄れゆく記憶の中で②(領主の日誌)』
『ルオディック』の一日は、イルイダが付けていたらしい領主の日誌とミラの行動から分かった。もちろん、キラは書いた覚えがない。しかし、イルイダの筆跡に続き、初めは父のサイン、そして、ここ最近は、確かにキラの筆跡で『ルオディック』のサインがあった。
過去を変化させると言っても、いろいろと甘く雑なところは、なんとなく思い立ったが吉日っぽい行動を取っていた『ワカバ』から普通に想像出来る。
ただ、思い立ったが吉日を他人のキラが予測することは難しい。
そして、その日誌が毎日少しずつ変化していることを、キラは確認している。次は何が変化するのか。どうすれば、対応策として成り得るのか。
だから、毎夕の日課としてそれを読んでいる。そして、今日の日付を書き足す。サインは『キラ』と記す。しかし、これもいつ変化するか分からない。
単なる記録を取るしか出来ない。
父母は今、リディアスへ訪問中らしい。
これも、ランドの言と異なっている。ランドは、彼らの存在を見たわけではない。ランドの立場上、父母に会うことは可能だっただろう。しかし、そんなことは一切言っていなかった。
要するに、彼らは記憶の中に存在し始めているが、まだ不確定にしか存在していないのだ。
そして、まだ跡目として立ったばかりのルオディックは、万屋のダルウェンに支えられながら、彼らの留守を預かっているようだった。
しかし、このダルウェンも、実在することは知っているが、領主館内で姿を見たことがない。
万屋ダルウェンの息子、チャックとは話をしており、その父がダルウェンであることも知っているのだ。実際にその姿も見たこともある。
そのチャックは、いつも怖がる民をここへ連れてくる同年代の『ルオディックの親友』らしいことも分かる。
「ディックも大変だよな」
そんな風に声を掛けてくるくらいの。確かに、ディアトーラの学校へ通っていた頃の学友のひとりではあったが……。
『ディック』とは、ルオディックの愛称だ。この名でルオディックを呼んでいたのは、イルイダとマイラくらいだ。
ふたたび日誌を一枚、過去へと戻す。
一昨日の出来事である。そして、さらに過去を探っていく。キラがときわの森を彷徨い、吐き出されていた頃。
そう、吐き出されていた頃だ。
ここも、イルイダの筆跡からルオディックの筆跡へと変わっている。
しかし、その変化にキラは思わず立ち上がってしまった。そして、鞄をひっくり返していた。
ワカバの手紙がやはり、消えていた。あの、ルリの祖母宛の手紙。キラが出せなかった方の、薬が入った手紙だ。
キラの記憶にない出来事だった。
ルオディックのもの……なのだろうか。
しかし、サインは『キラ』。そして、人称が違う。
ルオディックはこの日誌の中で『俺』とは書いていない。いつも『私』と記していた。
これは、キラに与えられる『キラ』としての記憶なのだろうか。キラはもう一度日誌を読み返す。
※
元リディアス兵であるパルシラとその連れであるマルゴという男がやってきた。
彼らはもう一人の連れであったルリを探しているようだ。
「お前のようなものが、元首か。……」
パルシラの言葉には頷けるものがあった。そして、マルゴは我慢の限界のように俺を罵倒した。血の気の多い男らしい。
彼らがここへやってきた理由は、要約すれば『ルリを知らないか』というものだった。
ルリは、あのワカバを最初に助けた老婆の孫娘である。
そのルリが、消えた。
それは、ワカバが消えたということと同意なのか、それとも……。
心当たりは、なかった。しかし、気がかりになることはある。
ルリは病を患ったことがあっただろうか。
『マゴが、病気だって』
ワカバはこの手紙を出そうとしていた。そして、手紙を出さないと判断してしまったのは、キラなのだ。
もし、あのままワカバがあの手紙を風に乗せて飛ばしていれば、過去にルリを助ける薬となったのではないか。
しかし、そのルリについて今、彼らに聞ける状態ではないだろう。信頼が深まるわけではないだろうが、明日まで待つべきだ。
いくら、ふたりとも腕に覚えありなのだとしても、夜のときわの森は危険だ。明日までここで留まらせた方が良いだろう。
※
夜明けも近い頃、マルゴの声が廊下に響いていた。どうも、ミラに詰め寄っている様子だ。
もちろん、ミラは何も言わない。
とにかく関係のないミラに詰め寄られるのは、困る。
ミラは、何も知らないし、何もしゃべらないのだから。
「パルシラは、どこだっ」
彼はパルシラがいなくなったことに動転しているのだ。仕方なく、ミラを庇い、マルゴの敵意をこちらに向けた後、彼女に与えていた客間へと向かった。
窓が開いている。窓は、内鍵である。侵入された形跡はない。
ときわの森へ彼を案内することになった。
※
ときわの森へマルゴとともに入った。パルシラは見当たらない。途中雨に遭った。まだ雪にはならない季節だ。しかし、雨は体力を奪う冷たさを孕んでいる。
だから、雨宿りをしている時に、暇つぶしのようにして手紙の話をし、マルゴに手紙を託した。
「そのルリが過去に死に至るような病に罹っていたのだとすれば、もしかしたら、この手紙が関係しているのかもしれない」
俺を睨み付けながらも、不思議そうな表情をする彼を見て、愚直という言葉しか思い浮かばなかった。
「関係あるのかどうかは分からないが、魔女に会ったらそれを魔女に渡せば過去へ飛ばしてくれるかもしれない」
俺は、そんな風に思い、彼に伝えたのだ。
雨が上がる。
赤い血を好むレッドキャップに遭遇し、ときわの森を彷徨う間、また俺だけが吐き出された。
マルゴは、魔女に出会ったのだろうか。ルリはその存在を現わすことになるのだろうか。
※
記憶にない記憶が、キラの目に文字として映ってきていた。
ワカバにとって、手紙を手に入れることは意味のあることなのだろうか。ただ、『ワカバ』という魔女を覚えていることしか出来ないキラには手をこまねいているしかないのだろうか。
ワカバは確実にトーラとして過去を変え、今の在り方を着実に変化させているのだろう。
そして、ワカバの形跡がまた一つなくなってしまった。それは、漠然とした不安につながっていく。
この『キラ』は日誌だから『魔女』と記したのだろうか。それとも、名前など知り得る立場になかったのだろうか。
そもそも、どうしてワカバはイルイダを消したのだろう。
キラはやはり闇の中を闇雲に歩いているような気がしてならなかった。けれども、この変化に慣れてきてしまっている自分を、恐ろしくも感じていた。
そんなこともあったのかもしれない……。
どこかで、キラはそんな風に思ってしまうのだ。ただ、忘れていただけで。
頭が朦朧とする。少し夜風にでも当たろう。
これ以上記憶が零れていかないように、キラは無意識に掌を額にあて、立ち上がった。
廊下にはやはり冷気が立ちこめていた。ディアトーラらしい気温だ。外はもっと冷え込んでいるのだろう。もし、マルゴやパルシラが本当に今もときわの森にいるのだとすれば、リディアス出身のあいつらは、魔獣よりもこの冷気にやられているかもしれない。
そんなことを思ってしまう。
自身の記憶を肯定出来ないのだ。あの日誌が真実かもしれないと思ってしまうのだ。
窓は凍てつき、霜が下りている。
今は冬に至るまでの過渡期。キラの記憶が凍結されて、ルオディックの記憶に変わるまでの時間はいったいどれほど残っているのだろう。
それまでに、……何を変化させれば、ワカバに出会えるのだろう。
ワカバを覚えておきたい、そんな思いは何をもってそう思わせるのだろう。
あの『ルオディック』は何を願ったのだろう。どの時間を生きていたルオディックだったのだろう。
ただ、ルオディックがワカバと出会うことが、どの時間でも必然であるのであれば、『キラ』はルオディックとしてワカバには会っていない。
『そうよ。人間は今を変えるもの。魔女が変えられるのは、過去なのだから』
ミスティの言葉が甦った。
朝、いつも通り冷たさを抜けてきた光が、窓から射し込んでくる。
キラはルオディックとしての服を選び、食卓へと向かう。
食堂の扉を開けると、ミラがすでに座っていた。
「ミスティは?」
ミラは頭を振るだけ。
「お前の母親は、いないのか?」
キラが問い直すと、不思議そうにして、頷いた。
そして、その日の朝にミスティが、その夜にミラが存在を消した。
イルイダと違い、彼女たちが人々の記憶から消え去るにかかった時間は、瞬きのごとく早かった。














