『薄れゆく記憶の中で①』
トーラには娘が三人いた。一人はアナ。トーラがまだ人間だった頃の娘である。そして、トーラが魔女となった後に生まれた双子のルタとルカ。
その一人、ルカが、ルタに言った言葉がある。
「ルタは優しいから魔女を選んだのよ」
ルタは未だにルカの言ったその言葉の意味がよく分かっていない。ルカの方が穏やかで人当たりがよく、人間によく馴染んでいた。だから、ルカは人間として生きたのだ。優しいのはルカの方だ。
だから、魔女を守るような国を建てたのだ。
優しいのは、ルカの方。
ラルーはときわの森のリディアの大樹の樹皮にそっと手を添える。
「新たなトーラが生まれましたわ」
ラルーが話しかけている相手は、リディアの化身であるリリアだ。
「お願いに上がりました。あなたの『世界』にも関係あることですわ」
本来ならば、ラルーなど眼中にないくらいに大きな存在である。
ふわりと風が光を集める。
金の粒子が、人を象る。
深い緑の瞳は、ラルーと同じ。しかし、形を取ればほんの幼い少女の彼女。おそらく、トーラがリディアの心臓を掴んだことで、リディア自身が生み出せる者も小さくなったのだろう。そして、その思考はやはり見た目どおり幼い。だから、ラルーにも人懐こく姿を見せるのだ。
「そうなの?」
「えぇ、だから、一つお願いを頼まれてくださいませんか?」
そんなリリアだから、ラルーは素直に言葉を発し、期待せず、彼女に希望の一つを託した。
「分かったのっ」
リリアが満面の笑みを見せ、楽しそうに了承した。
幼いリリアは、楽しいことにしか興味を示さない。あてにしてはならない。しかし、ワカバに対抗出来る力を有する者は、彼女しかいない。
閑かになった森の中、ラルーは再び人間の領域へと、足を向けた。
☆
大型魔獣が口を開けて待っている。ときわの森はそんな場所だった。しかし、キラはそこで何度も迷い、何度もその森から吐き出されていた。
もし、ワカバが生きているのだとすれば、ときわの森にいるのではないだろうか。
そんな風に思うまでに、時間はかからなかった。
ワカバは元いた場所に戻りたがるのだ。
本来、ワカバがいた場所は、ときわの森の魔女の村。
ちょうど森の中心辺りにある大樹を越えて、幾重にも曲がる獣道を通り抜けた場所に、魔女の村は存在するはずだった。
しかし、魔女の村どころか、大樹にも辿り着かない。彷徨えば、吐き出される。
そんな繰り返しをしている間にも、人々の記憶は変化していった。
キラがここに辿り着いた時、イルイダはまだいたのだ。
姿は見ていない。そもそも、領主だ。町の中を易々と歩くはずはない。
しかし、ディアトーラの人々の中には、彼女が確かに存在していた。
それから、リディアス城にラルーと思しきものが現れた。そんな噂を風に聞くようになった。銀の剣を持つ容姿端麗な女。勇者が現れたのではないかというものだ。
どこにいるかも分からないワカバを討つ勇者の、その姿は、しかし、ラルーのものとは違っていた。
黒髪に黒目の女性。
銀の剣はラルーが持っていたはずだ。
その辺りにディアトーラ領主の後妻という女も現れている。こちらも姿はない。
後妻には娘がひとりおり、イルイダとも腹違いの妹となっていた。
まさか、もう一つの世界が紡ぎ出されて……。
その異母妹の容姿は黒髪黒目。
そして、とうとう、姉イルイダが人々の記憶から消えてしまったのだ。代わりに現れたものが、留学先から帰ってきたその嫡男だった。
名前は、そう……ルオディックだ。
領主館の扉を叩く。キラは満身創痍だった。何をしても変わらない。どうすれば、いいのか分からなくなっていた。
扉の向こうに現れたのは、黒髪黒目の女。
イルイダとその母マイラの特徴ももつ、ミスティという女だった。
「いらっしゃい」
しかし、彼女から受ける印象は、どこかラルーに似ていた。何を考えているのか分からない。何を見ているのかも分からない。そんな『魔女』の印象だ。
「ご名答、と言っておきましょう」
ミスティはそう言った後、白い顔をそのままキラに向け、微笑んだ。
「そうね、あなたの望みを忘れないこと。それだけを覚えておくといいわ」
望み……。
言葉としてそれを発したかどうかは覚えていない。
「そうよ。人間は今を変えるもの。魔女が変えられるのは、過去なのだから」
ただ、そこでキラの記憶は一度途切れてしまったのだ。
夢の中、キラは再びときわの森を彷徨っていた。
いや、これは、以前から見ている夢。
幼いルオディックが泣きながら歩いている。
違ったことがあるとすれば、魔女の顔が見えなかったこと。
そして、彼が喋ったこと。
「お母さんは?」と。
魔女が静かに指を指し示した。
「この道を進みなさい。きっと会えるわ」
太陽の光で目が覚めた。
柔らかなベッドに羽毛布団。分厚いカーテンの掛かった窓。それなのに、差し込んでくる冷気。
忘れていた感覚が、妙にしっくりくる。
ぼんやりとする頭が、はっきりと目覚めを覚え、キラは慌てて頭を振っていた。
なかった記憶が……ある気がした。それは、『キラ』が確実に『ルオディック』に近づいていることを意味している。
扉が叩かれた。あれは、玄関の扉が叩かれた音だ。玄関にはディアトーラの紋章である百足を模したノッカーがあるのだ。それが叩かれた。
この領主館では、町に住む者があぁやって扉を叩くことがあるのだ。
人見知りの強いディアトーラ。
旅の者が現れた。
病の者がある。
収穫が良すぎて恐ろしい。
そう、彼らの行動のすべては魔女の恐れにつながっている。
旅の者は魔女ではない。だから、領主館に連れてくるように。
その病は呪いではない。だから、医者を頼るように。
いつもよりも収穫があるのであれば、領主館内にある教会で懺悔をしてもらう。
ディアトーラの者たちは、日々の変化を異常に恐れているのだ。
それは、領主の心得にも書かれてあることで……。
そうだ、キラはそれを知っているはずがない。
どうしてそんなことを知っているのか。
もちろん、ここで十五年生きていた経験則とも言えるが、領主の心得に書いてあることを知っているはずがない。あれは、領主と立った者、もしくは、その跡目と決定された者しか読めない書だ。
ディアトーラに着いてから、キラの記憶はこんな風に塗り替えられている。ディアトーラの人々が魔女を恐れることを、キラは正せない事実として、今、現在進行形で被っているのだ。
どうせなら、……。
すべてを忘れてしまえば楽になるのに。
しかし、それは、ワカバを忘れるということと同意であることでもあった。
もう一度扉が叩かれる。
誰も対応していないのかもしれない。あの女は、対応しないのだろうか。
堅苦しい上着を羽織り、客人を迎えるために扉の外に出た。
まるで、それが当たり前のようにして。
領主館にはミスティと、ミラが住んでいる。
いつから住んでいたのかは、よく分からないが、キラが民に尋ねたら、こう答えられた。
「あぁ、あの女は奥さまがいらっしゃらなくなった後、ここに。娘の方は五歳になるはず」
キラの中にはない事実だ。その口調からはあまりよく思われていないらしいことが、察せられた。
ミラが生まれたのは、要するに父の死ぬ前となる。キラだって、ここにいた。ランドから聞いていた話とも合わない。やはり、記憶の強さが関係しているのかもしれない。しかし、そんな民達がイルイダのことを思い出すことは、もうなかった。
ここに来た頃は、こう言われていたのに。
「父を殺したのは魔女の娘であるイルイダだ」と。
それだって。
……。
いや、閉じられた国、ディアトーラ内でなら言われていたのかもしれない。ディアトーラを出ていたキラの耳に届かなかっただけで。
だが、今はそんな噂すらない。
存在を消した姉に、存在を現わした妹のミラことミランダ。
キラの記憶には、その両方が存在しており、両方が同じ記憶の中に存在しない。
そう、イルイダのいる食卓にはミラはいないし、ミラのいる食卓には、イルイダがいないのだ。
同じことは、違う黒髪黒目の腹違いの女兄弟がいたということのみ。
ノッカーがもう一度鳴る。大きな玄関扉の内側で、その扉を見上げるミランダがいた。キラに気づくと、その道を譲り、無言のまま開けろとでも言っているかのように、キラを見上げていた。
「……」
キラも無言でその扉を開く。
民はキラを見るなり、当たり前のようにしてルオディックに懇願する。
「あぁ、ルオディック様。領主様にお伝えください……」と。
民の言う現領主は姉のイルイダではなく、父であり、死んでいるはずの『ビスコッティ』だった。














