『始まりの場所』
まるで海の底に沈むようにゆっくりと、ワカバの体は落ちていく。いや、本当に海の中なのかもしれない。落ち行く先に光はなく、落ちてきた先には、光を通す色が見える。
地上に吹く風が流れていく時間だとすれば、深海に溜まる海の水は淀む時間に似ている。
ワカバはそんなゆっくりとした時の中を揺蕩っていた。
人々の記憶が蓄積される場所。
不完全なトーラたちでは、ここまで辿り着くことはない。たったひとつの願いを叶え、ただ壊れるまでトーラとあるだけ。だから、世界はほとんど変わらない。
今現在存在するここに立つことの出来るトーラを持つ魔女は、始まりのトーラと『ワカバ』だけになる。いや、すでに『ワカバ』であった『時』すら、ワカバの中にはないのかもしれない。
ただ、覚えているだけで。
ただ、『ワカバの願い』を叶えようと思っているだけで。
だから、ここにいるワカバは『トーラ』とも言えるのだろう。
ワカバは沈みながらぼんやりと考え続けた。
海底に近づいてくると、ワカバの体は重力通りに爪先が海底を踏んでいた。
始まりの場所である。ワカバの目の前には女の人がいる。
「トーラ……」
「いらっしゃい」
黒い髪に生気のない白い肌。感情の読めない口調。
「奪いに来たのね」
肯くワカバ。だけど、否定の言葉を続けた。
「ここは変えない」
「そう」
始まりのトーラは、やはり感情なく答えた。
ワカバの願いは叶えるけれど、根幹はトーラに預けておくの。ラルーだってワカバの大切な者のひとりだから、消すわけにはいかない。
『わたし』は、この世界にあぶれた必要のない駒でかまわない。
きっとうまくいく。
誰も消えない世界を。
トーラは再び『時の中』へ戻っていく新たなトーラの背をおかしそうに見つめ、どこか穏やかな視線を彼女に向けていた。
望まずしてトーラを持つもの。
そして、この世界に望まれて生まれた彼女。
あなたのいるこんな世界、いらない。そんな風に言われたことのあるトーラにとっては、彼女がその人間の世界を叶えるために生まれたとしか思えなかった。
「あなたの望む世界をなんどでも自由に紡げばいいわ。望まれるあなたが私に邪魔されることはないのだろうから」
望まれなかった『私』が消える世界が、やっとやってきたのだから。
海底から光が消える。そして、そこで生まれた時の息吹が再び、水上へと戻っていく。
生まれ出でた泡は、光を求めて海上へ吐き出され、再び風になる。
そして、あの大樹の下でもう一度、尋ねるのだ。
「あなたの願いを教えて、わたしが叶えてあげるから」と。














