『世界は徐々に壊れていく②』
二ヶ月が過ぎた。
灰色の囚人服を着ているキラは、夕餉を片付け、そのまま聖書を写す日々である。同室の奴らもそれほどの悪人ではないようで、今は大人しく聖書を写す日々を過ごしているような一室。
隣の奴が大欠伸をしている。
互いに通し番号のみしか知らない仲ではあるが、彼は元々、そろばんを弾いていたらしい。だから、体力がないんだと、言っていたことを思い出し、鉄格子の窓が付いている扉に視線を遣った。
収監当初は目を光らせていた看守も、今は見逃してくれたようだ。
この部屋の奴らは、大人しいのだ。一般人がほんの少し足を踏み外しただけの、更生の余地ありとされる真面目な者が多い。
その中でキラだけが異質だった。
早朝に起床し、城内の草むしりと研究所外玄関の掃き掃除。そして、朝餉。その後は体力作りのための走り込みに続き、兵士が使う武具の手入れ。
簡素なパンが配られ、防具の洗浄をした後には、それぞれが選んだ講義を受ける。
夕餉は調理の講義を受けた者によるものだ。
キラはと言えば、今まであまり関わってこなかった『そろばん』を選んでいた。
何も考えたくない。ただ、それだけで選んだ講義だった。
今、キラの手元にある聖書は、夕焼けを受けて朱く染まっている。日が沈めば消灯になる。
鉄格子の扉と反対の壁には、やはり鉄格子付きの小さな窓があり、そこから夕焼けは射し込んで来ている。
なにかを惜しむようにして、沈んでいく太陽。なにも惜しまなくてもいい。早く沈んでしまえば希望など見なくて済むのだから。
それが自分自身に重なってしまうのだ。あの頃と変わらない。河を眺めてガーシュに拾われたあの頃と。
光などないのに、光を探してしまう。空に見つけた朱い光は、必ず沈んで闇に染まるのに。明日など来ても、何も変わらないのに、未練がましく光を与えようとする。
だからキラはこの時間が嫌いだった。どうしても、あの日のことが脳裏に浮かんできてしまう。
あの日、キラはリディアスの兵の手からやっと逃れたくせに、ワカバの手を掴めなかったのだ。どうせなら、共に落ちてしまえば良かった。
それなのに、吹き荒ぶ風がキラを邪魔するようにして、それすらも許さなかったのだ。
だから、キラは今ここで生き恥を曝しているし、こんなところで聖書を写さなければならないのだ。大人しくして娑婆に出たところで、顔のばれたジャックなど、すぐに始末されるだろうに。
ただ、それも不思議なことだったのだ。
顔のばれたジャックがどうして一般囚として収監されているのかが、分からないのだ。今のキラなど喜んで国に売られることが定石のはずだ。
シガラスなら、そうする。
いや、クイーンなら誰しも。マンジュのクイーンなら尚更、キラを売ろうとするだろう。彼はキラに良いイメージなど持っていないだろうから。
たとえ売られなくとも、ジャックとして捕まっているのなら、軽く見ても死刑、重ければ魔女と同じだ。
磔、引き回し、さらし首。思い浮かべるだけでもそのくらいは覚悟すべきだ。いや、死後ですら人権を無視されるそれよりも魔女罪の方が酷い場合もある。
噂によれば、研究所に送られた後、精神崩壊をもたらすほどの人体実験と。
クイーンに売られれば、ここに堕ちることすらあっただろう。
それなのに……。
「おい」
ぼうっとしていたキラにそろばんの男がキラをつついた。
「あぁ。ありがとう」
看守に目を付けられるぞと、彼はそっと伝えてくれているのだ。ただ、実際は、ほんとうにどうでもよかった。いや、キラの過去が綺麗に調べられる前に、死んでしまう方が良いのだ。
どうして、生きているのだろう。どうして、一般囚なのだろう。
生きている時間が長ければ長いほど、キラの過去が明るみに出てしまう危険が高くなるというのに。
「就寝準備! しゅうしーんっ」
看守の号令が廊下に響く。
聖書を片付け、部屋に箒をかける。ただ静かに事が進み、薄っぺらい布団を敷くと日は沈み、薄い色の月が空に姿を現し始めていた。
朝になれば同じ日々。
城内の草をむしり続けることも、キラの中では無心でいられる楽な状態だった。息を吐いて眺めたリディアスの空は青く、千切れたような雲が静かに空に流れていく。ただ時が流れていくだけ。時に同意を求める別部屋の奴がいるくらい。なんとなく、年が近いせいかよく話しかけられるのだ。
「めんどくせーよなぁ。早く刑期を終えねーかな」
汗を拭うキラを見て、こそこそ伝えてくるので、キラは苦笑いでやり過ごすことが多々だ。それは共通の認識を分かち合いたかった彼には面白くないのだろうし、仲良くなることを推奨しないここなら、この状態を放っておくわけがないのだ。きっと、組み分けされる日も近い。
しかし、キラがそんな状態だから、会話はすぐに途切れてしまう。それでもキラに話そうとするこの男は、シャナのようだった。
そして、キラ自身はまるでワカバのようだなと思った。
ワカバも明日が見えず、明日を恐れる日々だったのかもしれない。
魔女だったのだから。きっとジャックとしてのキラよりも、今の囚人としてのキラよりもずっと、未来などなかったのだろう。
キラはそんな魔女を助けたいと思った。
そうだ。そちらから考えてもキラがリディアスの一般囚であることはおかしいのだ。
キラは魔女を助けようとして、リディアス兵に取り押さえられている。
リディアスにおいてそれは魔女罪が適用されて然るべきなのだから。
「やべっ」
話しかけてきた男が発した言葉で、キラは時を取り戻し、彼がキラから離れていく様子を見ていた。その理由は看守がキラを睨んでいたからのようだった。
そうだ、看守にすべてを伝えれば……。
キラはジャックで、魔女を連れて逃げていて、その魔女を庇って……。
そう思い腰を上げ始めると、その看守が硬い口調のままキラを呼んだ。
「1013番」
手を止めていたことを咎められるのかと思っていたら、看守は別の言葉を続けた。
「付いてくるように」
その看守の落ち着いた物言いは気になったが、そもそも、リディアスの正規兵は身内以外に対して感情を面に出さないよう教育されている。そして、リディアス王に仕える者として、常時は紳士的に振る舞うように規定されているほどだ。
良い意味でも悪い意味でも、『相手』は『対象』なのだ。だから、読みにくいし、付け入りにくい。素が出てこない分、勘ぐることも多かった。そして、ジャックだったキラは、そんな奴らの裏を掻いて、ここで過ごしていたのだ。そんなこともこの看守は知らない。
「はい」
素直に立ち上がり、返事をしたキラは彼に連れられ、研究所方面へと歩いて行った。
あぁ、魔女罪が適用されたのかもしれないな。
と、思いながら。














