『風の中にあるふたり③(トーラの記憶)』
ときわの森にある蒼い屋根の二階建て。中庭に張り出しているデッキには、勝敗のついた碁盤があり、その半地下になる場所には、書架がある。
吊り下げられている虫除けの薬草に守られ並べられてあるのは、失われた過去たちだ。
その中には、もちろんラルーの生きた時間も記録されており、その過去のほとんどをラルーは知っていた。だから、それらはラルーがいる限り完全には失われない過去でもあるのだ。
ラルーが覚えている限り、蘇らせることの出来る過去。そして、ラルーの範疇にない過去を守っているものが、銀の剣である。
だから、銀の剣は今流れる時間を守っているわけではないのだ。
そして、トーラが過去を変える度に書き留められる記録をずっと見守ってきた者が看視者であるラルーだった。
しかし、自身の時を止めた魔女、ラルーは自分自身を化け物だと思っていた。
それは、魔獣と何ら変わらない生き物だからだ。何時たりとも、死は遠い。ラルーの時間は『時』からはみ出してしまったあの時に戻ろうとするのだ。どうすればこの体が死ぬのかすら分からない。
だが、ワカバは違う。ワカバは本来どの時間にも存在しない。言ってみれば、時の遺児は過去のどこかに自分の時間を持っているが、ワカバ自身はどの過去にさえ、自分を存在させる時間を持っていないのだ。
ワカバの存在をワカバたらしめている者は『トーラ』自身。いわば、トーラを失えば、どの世界からも消えてしまう存在である。
恐ろしいと言われる理由もここからだった。考え方を変えれば彼女はどの時間にも縛られることなく、過去を変化させられるのだから。
ただ、トーラを持つだけの今のワカバは、時を重ね未来を変えていく今を生きている人間と変わらないのだ。傷つけばそのまま死に至ることもある。
だからこそ、わがままに生きれば良いものを。どうして、その未来を選ぼうとするのかしら……。
わたくしが、紡ぎなおした時間の中なら、生きられたはずでしょう?
名前までつけて存在させてあげましたでしょう?
どうしてそれを望もうとしないの?
ラルーはその書架に存在しない、今にも消えそうな記録書を胸に抱いたまま、ただ連なるだけの書架に並ぶ過去の記録を見つめた。
そう、ラルーではこの書架に並べられるだけの力はないのだ。
トーラであるワカバが望まなければ。
この世界に存在を望まれたあなたなら、出来るはずでしょう?
☆
息が切れる。そして、立ち止まる。すべての人間の視線が、悪意に見えた。
朝、シャナがワカバを抱きしめて、謝った。
「ごめん。きっともうすぐここはあなたを狙う人達でいっぱいになる。だから、逃げて」
言葉通りの意味ではあるのだろう。しかし、どうしてそんな風に言うのかは、伝えてくれない。部屋の外に出ると、キラに出会った。
「おはよう」
キラはいつも通りだった。いや、少し違う。昨夜と同じく穏やか。だけど、早起きをしているワカバを見て、少し驚き、少し眠そうだった。
「朝食の後、出発するから準備しておけって、シャナにも伝えておいてくれないか?」
ワカバはこくりと肯いた。
キラが通り過ぎていく。何か用事があったのだろう。ワカバはその背中を見送った後、キラの通った廊下を、そのまま外へと歩み出したのだ。
シャナが、逃げてと言ったから。だけど、朝食の後には戻ってこなくちゃならないなと思いながら。
だけど、今は違っていた。
たくさんの人間が、ワカバに注目するのだ。そして、その眼光がワカバを不安にさせ、記憶を明白にさせていく。
きらきらと零れてきていたあの記憶と違い、彼らの眼光は突き刺さるようにして、ワカバが『ワカバ』たる理由を思い出させていく。
そして、慌てて建物の陰に隠れた。人々の視線から外れると、誰もワカバのことなど見ていないことが分かった。光の少ない路地に入り、膝を抱えるワカバを追いかけてくる者も、そんなワカバに気を止める者もいない。
だけど、怖かった。
ワカバがときわの森へ行きたい理由も。ラルーがワカバのそばにいる理由も。
ラルーはトーラを持つ魔女のそばで、その魔女がトーラを暴走させないために見守る魔女であるのだ。そんな魔女がワカバを迎えに来るということ自体、なにかがおかしいのだ。
何がおかしいのだろう。
木漏れ日のようなトーラの記憶を辿りながら、ワカバは考える。
これらは、ワカバの記憶ではない。ただ、単に流れ込む過去の『トーラ』たちの記憶である。そして、この感覚は、ずっと昔、ワカバがまだ小さな子どもだった頃にあったものなのだ。
あの頃のワカバは体が小さくても、今よりずっとトーラの近くにあり、今よりもずっと恐ろしい存在だったのかもしれない。
だけど、今よりも恐ろしいと感じるこの感覚も、ワカバだからこそ感じるものだった。
ワカバは『ワカバ』のままでいたい。それなのに、そのこと自身も恐ろしいことに感じるのは、どうしてだろう。
ワカバはときわの森に住んでいた。そして、魔女狩りがあった。
ラルーに出会い、ランドに出会い、キラに出会った。
そこで躓く。
キラに、……
……お姉ちゃんを守って
それは、なにかが開くようにして脳裏に浮かんだ、小さな男の子の言葉だった。
ワカバがいつもいるリディアの大樹に向かうと、そこには、人間の男の子が立っていたのだ。
そこは、わたしの場所なのに。
そんなことを思いながら、彼に近づいていくと、彼の瞳がきらきらと輝いていることに気がついた。そして、そのきらきらは、水。
涙が木漏れ日を反射させて輝いているのだ。
ワカバは、そんなものを見たことがなかった。
魔女たちが泣いている姿も見たこともない上に、ワカバは生まれてから、涙を流したことがなかったのだから、仕方ないことだったのかも知れない。
だから、ワカバは言ったのだ。その不思議なものを生み出す、その少年に。
「それなに?」
と。
ワカバを睨めつけた男の子は、その水のことは教えてくれず「なんだよっ」と強がって、目の周りや頬が赤くなるまで擦り、涙の跡を消そうとしていた。
そうだ。
わたしは、あの時あの涙を欲しがったんだ。
そう。
「それきれい、わたしにちょうだい。なんでもねがいをかなえてあげるから」
と、少年に持ちかけたのだ。
少年の瞳の色はキラの瞳の色。蒼い色をしていた。
キラだったのだろうか。キラも体が小さい頃があったと言っていたから。
だけど、彼の名前はルオディッックだったはず。
そして、別の光の中に。
これは、ルオディックの記憶だ。
彼が涙すら流さずに、あの大きなマナ河に向かい膝を抱えていた。
涙が出ないのは、ワカバが涙をもらったからかも知れない。しかし、彼が恐ろしいほどの哀しみの中にあることは分かった。
彼の衣服は血に汚れていた。
彼の父親の血だった。
姉を守るために取った結末。
―――そうだ、わたしは、ルオディックの願いを叶えていない。
―――そうだ、魔女狩りがあって、ラルーがやってきて……。
『ワカバ』の時が歪められたのだ。
そんなことが出来るのは、ラルーしかいない。
だけど……。
ルオディックの姉は、トーラの血族だ。ワカバが守らなければならない存在ではないはず。どうして、キラはあんな願いを持たなくてはならなかったのだろう。
どうして、未来はルオディックの姉イルイダの存在を否定するようなことになったのだろう。
そして、さらなる過去へと意識が誘われる。
「望まずしてトーラを持つ小さき者。どうして、あなたなんかが……」
ラルーの声だ。しかし、その瞳には憎悪の色がある。ワカバの知るラルーではない。
「ラシン、あなたに預けるわ。わたくしには、この子を抱き上げることは出来ません」
こんなに感情のないラルーの声は聞いたことがない。そして、大地に寝そべったまま泣きもしない赤ん坊のワカバは、ラシン婆に託された。
まるで水の中に沈んだような記憶の海からやっと浮かび上がったワカバは、やはり路地裏にいた。薄暗い光の中、ラルーの言葉がこだまする。それと共に、トーラとしての記憶が激流のようにして、ワカバの中に送り込まれてくる。
望まずしてトーラを持つ者。
あぁ、……。
この世界はワカバがトーラを持った時点で、盤石だったトーラの血族の存在を揺るがしてしまったのだ。
そうだ。
だから、歪んだ。
そして、ワカバはもう一つ、重大なことに気がついた。
そうだ。この世界は、おかしい。
この世界で、イルイダとルオディックである『キラ』は同時に存在しないはずなのだ。だから、イルイダが存在しなければ、ルオディックはルオディックのまま存在出来たはず。
ルオディックが存在する世界には、そもそもイルイダは存在しない。
だから、ワカバは、ルオディックの願いを叶えていないのだ。イルイダは存在しないのだから。それなのに、彼は願った。
「お姉ちゃんを守って」と。
だから、ラルーが時を歪ませたのだろうか。この世界の余分な駒として吐き出された『ワカバ』の存在と引き換えとするために。だったら、どうして、ラルーはワカバを助けてくれたのだろうか。
トーラの血族を守るためなのならば、揺らいだ世界で魔女狩りを起こす必然性はあったとしても、ワカバをラルーの元で保護する必要などまったくなかったはずなのに。
―――どうして?
―――何が起きているの?
ただ、分かることは、ワカバは、無意識であるとはいえ、ルオディックの願いを叶えるために『キラ』をときわの森へ連れて行こうとしていたということだけだった。
この歪んだ世界でイルイダを確立させれば、ルオディックの存在は消えてしまう。
ワカバが彼を消すのだ。














