『そこにあるのは何者なのか③』
リディアスとは不思議な国だ。
魔女を忌み嫌い、その力に対抗すべく研究所内では様々な不思議な力を開発させている国。
キラの頭上を照らしていた外灯もそのひとつ。見回りの時に使っていた小さな灯りもそのひとつ。アイルゴットの父王である、アナケラスが整備した列車もそのひとつ。
あの研究所内ではもっとよく分からない物が開発されている。そう、今回キラが手に入れた『チップ』と呼ばれる個別認証の鍵も。ランドがくれたあの襷もよく分からない。
あの中はきっと異界なのだ。
それなのに、おとぎ話のような『魔女』の存在をいつまでも恐れ、狩り続ける国。
しかし、魔女は実際に存在する。
魔女は緑の瞳を持ち時と共に永遠を生きる者。魔獣の頂点に立つ者とされる者。
その特徴は今回の逃走劇の立役者、そして、前回の魔女狩りでの功績者であるラルーにも当てはまる。だから、彼女は軍も率いることの出来る『長官』を名乗るのだ。
あの魔女は、確かに『魔女』だった。でっち上げの魔女ではなく、人間とほぼ変わらない魔獣に襲われにくいだけの『時の遺児』とされる魔女でもなく。
『トーラ』を持つとされる魔女の特徴そのものだった。
それなのに、彼女はまったく魔女らしくなかった。
幼気な少女。そんな言葉が似合うほどに。
キラは青い頬に手を宛がいながら、リディアスの掃きだめと言われている中央北通りにある、薄暗い路地の中、男を待っていた。
日が射し込まない路地にも洗濯物が広げられ、泥臭い生活臭があり、その風の合間に肉や野菜を茹でる匂いがする。そこにある音は、親が子どもを叱咤する声、機嫌良く鼻歌を歌う声。それらがじめったい風に混じってキラの耳に届いてきた。しかし、ここが、どれだけ掃きだめだとしても、その全てが不釣り合いなものとして、その特徴的な彼の深く蒼い瞳に映し出されていた。
しかし、あの衛兵たちはキラのことを羨ましいと思ったのだろう。
多少のやっかみもあったのだろう。そして、魔女が完全に逃げた日に、傭兵だというだけで手引きを疑われ殴られた。しかも、見回り途中で、魔女を逃がした城内衛兵の奴らに。
ただ、好都合でもあった。なんだかんだと世話になっていた詰め所の水を濁さずにすんだのだ。そう思えば、頬と腹部の青痣くらい安い物だ。時間が経てば勝手に治る。
ただ、目立つ場所に傷を付けた奴らは馬鹿だなと思うだけ。
あの表彰状の恩恵があったのだ。詰め所の奴らは、キラに同情したまま、キラを見送った。
「腕が鈍ったのか?」
「まさか」
物音立てずキラの傍に立った男は、キラの顔を見てニヤニヤした。薄汚いベージュのトレンチコートに山高帽。ヘビースモーカー特有の臭いまでさせているその男シガラスは、キラの雇い主であり、一応、ジャックとして育ててくれたという恩があるだけの男だ。
「言われてたヤツ」
「さすがじゃなぁ」
からかうようにそう言われると向かっ腹が立ってしまう。
「それだけじゃ入れないけどな」
リディアス国立研究所内にある不思議な技術を知りたい奴らは多くいる。国王一家でも知り得ない物もあるらしいのだ。だから、この内部侵入の依頼は尽きることがなかった。そして、いつ何時もその内部に侵入し、誰もが戻ってこなかった。
その役目は事実上使えないとされたジャックの最後の砦であり、死刑場なのだ。おそらくまた使えなくなった誰かが流刑され、秘密裏に処刑されるのだろう。シガラスのようなジャックに仕事を下ろす、クイーンと呼ばれる便利屋は手を汚さずに。
しかし、あの魔女はそんな場所から逃亡した。いくら長官であるラルーが手引きしたからといっても、その逃亡成功の確率は、ほぼ皆無だったに違いない。幸運が重なったのだとしても、あの魔女は二度の逃亡に成功しているのだ。
そう、あれは、魔女だ。
そんな考えにつきまとわれる。どうでも良いことじゃないか。それなのに、キラは何かが変わっていくような、そんな嫌な気配に背中を強ばらせていると、キラを現実に戻す声が聞こえた。
「分かっとる。ワシを誰じゃと思っとるんじゃ?」
あぁ、お前は、油断も隙もない、異様に鼻の効くクイーンと呼ばれる便利屋だ。胡麻粒のような小さな瞳のくせに、目を付けられると逃げられない。特にシガラスはジョーカーと呼ばれるくらいだ。
シガラスの仕事はババ抜きのババ。
割に合わないことが多いのだ。本人は良心的だと思っているらしいが、命がけで働いているジャックからすれば、これほど嫌な雇い主はいない。
シガラスは依頼主を良い意味で選ばないし、悪い意味でジャックを人だと思っていない。
ジャックは便利屋、特にクイーンにとっての駒なのだ。しかも首にリードまで付けられている。
そんな奴が、昔はジャックをしていたのだから、堪ったものじゃない。シガラスの得物は銃だ。鼻が利く犬に射撃の名手というおまけまでついている。
「次は何をしてくれるんかのぅ、あの国王」
煙草に火を付けたシガラスが、話し込みそうな雰囲気になった。
キラはそれを遮る。こんな時は厄介事だ。
「用がないんならもういいだろ?」
「いや、頼みがある」
キラはシガラスの小さな黒い瞳をまともに睨んだ。『否』は唱えられない。
「アレを殺って欲しい」
アレ、と言われた物。
それは、ジャックの成れの果てとも、王者とも言われる現在のキングだ。
キングともなればクイーンよりも力を持つようになる。ただ、クイーンはその手に負えなくなったジャックを嫌うのだ。
☆
ラルーが目を覚ました場所はどこかの部屋だった。魔女が送還される監獄でもなく、死体が転がっていても気にもされないような路地裏でもなく。
そして、思い起こす。部下のランドに助けられたのだ。雨の中、血を流し続けていたラルーには、ランドの救いを拒むだけの力がなかったのだ。ただ、放って置いてくれれば良かっただけなのに、ランドは魔女であるラルーを心配し、保護しようとした。魔女を助けようとする、とても愚かで馬鹿な人間である。そんなラルーの状況確認が終わり、今度はワカバを思う。
あの子は、上手く連れて行かれたのかしら……。辛い思いをさせるとは思いますけれど、……。
そう思い風を嗅ぐ。ラルーの施している『トーラ』は破られていないようだ。
ほっとすると胸の辺りがチクチクすることに気が付いた。
そして、苦笑いを浮かべる。
よくもまぁ、このレベルで人の皮を縫い合わせようとしたものだわ。
ラルーは乱雑にも思える胸の糸をピンと引き抜いた。僅かな血液が数個、膨らみを見せ、すぐに消えていく。もちろん、本体の怪我も既に治っている。こんなことしなくても、あのまま朝まで放っておけば治ったものだ。
毒さえ抜ければ、勝手に目が覚めた。人間に助けられる必要はなかった。
早く出ていかなければ。そう思うが、思うように血の回復が出来ていないらしい。やはり、心臓を一突きされたこととそのナイフに毒が塗られていたことで、体の回復がいつもより遅いのかもしれない。血液に混じった毒と、まだ足りていない血液。ここまでを見越していたのなら、さすがランネルと言ったところだろう。
彼は『トーラ』を欲しがる愚かな人間のひとりだ。
そして、ラルーは自分を分析しはじめた。少し気怠さがある。貧血の度合いと体の反射。わずかに鈍い。このままだと、完全に逃げ回るためには、厄介な者への牽制を始めるには、後、小一時間は必要かもしれない。長居はランドを危険に晒す。そして、その気配を感じたすぐ後に、彼が思わずという声を上げていた。
「長官、もう、起きて大丈夫なのですか?」
「えぇ、ランド所長。もうすっかり良くなりました……ただ……」
驚くランドの瞳はあの黒眼鏡に覆われていなかった。
『金魚ちゃん』と『食用の魚』を同じだと言ってしまった。やっと、何かに興味を持ち始め、心を動かし始めた小さな子に。
ワカバに酷いことを言ってしまったと、それ以降、自分がどんな表情で彼女に向き合っているのかが怖いと、表情を隠すようになった弱い人間の瞳は、空の色。
「ただ、何か食べるものをいただけるとありがたいですわね。まだ血が足りないようですので」
まだ驚きで動けないランドに、ラルーは微笑みを向け、上司としてひとつ忠告をした。
「ひとつ忠告です。このレベルで、人間を縫おうとするものではありませんよ」
ラルーは魔女だ。それもトーラに仕えるとされる魔女。
トーラの御世をただ見守るために存在する、そんな魔女。だから、死なない。
しかし、あの子は……違う。
「承知しているつもりです」
動き出したランドが、「私は副所長のはずですよ」と頭を掻いた後、食事を持ってきてくれた。
ハムにチーズとライ麦パン。
ランドの日常にある食事が白い皿に載せられて、ラルーに手渡された。
十日後は新月。
闇に潜むものが動くのにちょうど良い日となる。それまでに、気付かれなければ良いのだけれど……。気付かれればそこで終わる。
「あなたの名前は『ワカバ』よ」
他の何にもならなくて良い。すべてわたくしが、悪いのですから。
そう呟いたラルーは、ランドの部屋に皿だけを残し、そのまま姿を消した。