『三月山を越えて行く⑦』
キラの背後からは、シャナの声が雨音の隙間からでもはっきりと聞こえてきていた。
初めは無視を決め込むキラにさえも機嫌よく喋ってきていた。
「あなたってやっぱりお母さんみたいよね」
ほら、お母さんの鞄からはなんでも出てきたわ。悲しいときは飴玉で、痛いときはお薬。
キラの母は基本荷物など持っていなかったから、よく分からない。それに加えシャナの『お母さん』になったつもりはない。
ただ、ワカバの鞄の中にはそのお薬と飴玉がきっと入ったままだ。
休憩の度にワカバがその辺りに生えている草をちぎってすり鉢ですりおろしているし、あれ以来、飴玉を口に入れている様子も見たことがない。
だから、きっと。
「ねぇ、あいつとワカバの関係ってほら、刷り込み?っての」
「さすが、お嬢様」
キラが喋らないものだから、アブデュルと会話をし始めたようだ。
ただ、やっぱりそれは母親の後を必死に追いかけてくる鳥の雛である。
確かに、ワカバは刷り込み的にキラに付いてきているのかもしれないが、キラはワカバの親鳥になったつもりもない。
ワカバはただの依頼人なのだから。
そして、雨脚が強くなるにつれ、彼女の機嫌はキラの予想通り、悪くなった。既に視界は雨に煙って、遠目が利かない。
「ねぇ、この雨本当にどうにかならないのっ」
「ですので、……」
彼は彼で頑張っているのだろうが、その言葉の最後は雨の音に虚しくも消えていく。そして、続くシャナの叫び声。
「何ともならないっていうのは、分かってるわよっ」
じゃあ、叫ぶな。
雨が降れば魔獣の出現率は減る。しかし、絶対ではない。
「ねぇっ」
それなのに、きっと、出現率はゼロなのだ。
「見てよ、この泥だらけ」
そこでやっとキラはシャナを振り返った。
確かにポンチョの先から足元にかけての泥撥ねは、令嬢にあるまじき姿なのだろう。しかし、キラなど腰の辺りまでの泥を被っているのだ。
手入れもされていない草を最初に踏み倒しながら、出来るだけ歩きやすくしてやっているんだぞっ。黙って歩けないのかよっ。
しかし、その言葉は案の定、ワカバを見て呑み込んでしまう。
背の低いワカバは頬にまで泥が跳ねている。もしかしたら、最後尾を歩くワカバに泥を引っかけているのは、シャナかもしれない。それなのに、文句一つ言わない。ただ、また心配そうに怒っているシャナを見上げているだけ。
ワカバには、文句の一つも言ってみろ、と反対のことを感じてしまうのだ。
ただ、シャナはやはり人の上に立とうとした人物でもあるのだろう。キラの姿を見た後にまた叫んだ。
「いいわよっ。あたしが先に歩いてやるわよ……」
真っ直ぐに……
続いた言葉は雷鳴に消し飛ばされた。近くに落ちたかもしれない。小屋へ急いだ方がいい。
だから、耳を塞いでしゃがみ込んだシャナに、キラはその申し出を冷たく断った。
「いいよ。魔獣に喰われないようにだけ気をつけて、付いて来ていれば……いい」
本当にそれだけが最低条件なのだから。
キラの態度を非難するように、シャナの朱い瞳がキラを睨み上げた。キラはその瞳を静かに見下ろし、そのまま雨に煙る白い靄の向こうへと視線を動かす。
何か……
「ワカバちゃんっ」
アブデュルの声とキラが足を踏み出したのは同時だった。
☆
キラとシャナが喧嘩をしている。
さっきまでは、アブデュルとシャナ。
人間は喧嘩が好きなのだろうか。
だけど、怒っているシャナも、怒っているキラも楽しそうではない。
怒られているアブデュルは悲しそう。
わたしは大きな声が怖かった。今もそれは同じで。でも、怯えは少しずつ消えている。シャナもキラもわたしが好きな人間だから、怯える必要はないのだ。
だけど、最近はそれがアブデュルと同じように悲しいと思うようになった。
激しい雨が白い煙に見えるのは、なにかにぶつかり飛沫を上げるから。わずかな光を受けるから。
光を求めて飛び散るから。
雷の音は光を伴う大きな音だ。きっと、怖いから出てきてしまったのだろう。光を求めてしまったのだろう。
ワカバはどこかそんな風に落ち着いて、自分の背後の黒く大きな影を見つめていた。
そして、その瞳はシャナのように赤い。だけど、シャナの瞳のように明るくない。もっと暗明色な赤。
ワカバはその瞳をじっと見つめた。
怖いとは思わなかった。その瞳は助けを求めていたから。声が聞こえたから、振り返って立ち止まった。
光が欲しいのならば、元の世界へお帰り。ここにあなたの時間は存在しない。
「ワカバちゃんっ」
視界が一瞬途切れて、アブデュルの声が聞こえた。気が付くとキラがワカバの前方にいた。どうして、わざわざ後ろに戻ってきたのかが、ワカバには分からなかった。
キラはあの黒鉄の棒を持って、大きな影、倒れたバグベアにその棒を向けていた。シャナがワカバの背後に立っていた。
バグベアの持つ三角の耳は、雨にだらしなくその頭上に貼り付き、針金のようなその毛皮は雨に濡れて萎んで小さく見えた。
ワカバが見つめていたルビーの瞳は、既に目蓋の下だ。
ワカバはよく分からないまま彼らの状態を眺めていた。何かが、……。頭の中に自然と流れた言葉は、誰の言葉だったのだろう。
ラルーのものではなかった。
「死んでるの?」
シャナの声。
「あぁ」
キラの声。
ちゃんとワカバの知っている声だった。だけど、あれは……。
ワカバは何かを恐れて、彼らを見ることが出来ない。
「さっきの雷よ」
沈黙が刹那あり、シャナが耐えかねたようにして未来を続けた。
「小屋があるのよね」
「あぁ……あぁ、死んでいるんだ。そうだ、生活費を稼いでおこうか。こいつの心臓は高額で売れるから」
そう言ったキラがバグベアの傍に跪いた。
そして、その胸を切り裂く。
赤い血は靄に消えていく。魔獣の血は、ここからどこへも流れないのだ。
魔獣の時間はここにはない。彼らはどこか別の時間を生きた亡骸同然で生きているだけのもの。変化する世界の変化に耐えきれなかった獣が魔獣化したとも言われている。
一般的に『時の遺児』とされる者もその仲間であるとさえ言われているのだ。
だから、リディアスは何の力もない時の遺児まで魔女として狩り続けているのだ。
そして、今に時を持たないと言われる時の遺児たちも、魔獣に襲われにくい。
時の遺児は、だが、人となんら変わらない。
ワカバは……。
人となんら変わらない時の遺児は、魔獣に見つかれば殺されてしまう。
その時、キラはポンチョのフード下に隠れているワカバの表情が気になって時を止めていたのだ。
あの時ワカバは、バグベアを前に佇んでいた。
瞬間までは動いていた魔獣だった。そして、その目が定めた狙いはワカバに見えた。
そのバグベアの視界にまさかワカバが入っていなかったなど、考えられるのだろうか。
ワカバは死を恐怖したのだろうか。ワカバは微動だにしなかった。
そして、バグベアはその重みに任せて、地面に崩れ落ちていった。
ワカバが、故意にその時間を奪ったのだろうか。
ラルーの言葉がキラの脳裏に甦る。
『あなたにも権利がありそうですから』
人の願いを受け、今存在する世界を崩壊させるほどの力を持つ魔女、トーラ。
そして、その魔女を討つために存在する者が銀の剣の勇者。
キラはその変化を拒むほどこの世に未練はないはずだ。
どうして……。
キラがバグベアの心臓を取り出して皮袋に収めるまでを、怖がることもなく眺めていたワカバの考えていることが、キラにはまったく分からなかった。
ただ、どうして……と思うだけで。
『三月山を越えていく』了














