『三月山を越えて行く⑤』
再び四人が合流した後も大きな遅れもなく、大きな騒動もなく行程は進んでいった。ただ騒がしいことと言えば、シャナが喚くことだけだった。
「まだ着かないの?」から始まって、「お腹が空いたわ」を経由して「いい加減あんたも何か喋ったらどう? 文句の一つでも言ってごらんなさいよ」に帰着する。その繰り返し。
いつしかワカバが首を傾げながら、わずかに笑っているように見えるようになっていた。
そして、そのワカバを見つける度に、キラは少し安堵する。
なんと言うのか、ワカバの中にある感情が増えたような気がしてしまうのだ。
喋らなくなる前にあったワカバから発せられる表情による感情は、負の感情だけだった。悲しいや小さな怒り、極度の緊張のような。初めはシャナのその物言いに困っていたようにも感じられていたが、道のりを進めた後のワカバは、同じことばかり言うシャナを少し面白がっているように感じられるようになったのだ。
確かに鬱陶しい繰り返しではあるが、冷静に考えれば、いい大人が同じことばかり文句を言っている姿は、少し滑稽なものがあるかもしれない。
そして、いつかシャナに、この『曖昧な笑顔を見せる』という態度も叱られるようになるのだろうと、そんなことも考えてしまうようになっている自分に、キラは気づいてしまった。
その時キラは、ワカバを庇うのだろうか。いや、シャナと共に「いい加減に喋れ」と思うのだろうか。
ただ、そんなものだと思えるようになるのなら、きっとキラは『キラ』として再び歩める気がした。
そんなふうに考えてしまう。
頂上から山道を下り、ワインスレー側の瘤の部分に辿り着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
瘤の部分にある泉よりも少し離れた場所で居留することにしたキラは、そこで簡単な風除けのためのテントと、簡単な夕食を準備することにしたのだ。
泉の傍を避けた理由の一つは、魔獣だ。
魔獣も生き物であり、水を求めることがある。それならば、利便は悪かろうが、泉からの距離は取るべきだった。もちろん、ここでもシャナが水を汲む距離に文句を言っていたが、キラは当たり前のようにしてすべてを無視した。
さっきまでは温めた夕食のスープに硬いパン浸し、それを頬張りながら、ワカバの食の細さに苛立ちを向けていたシャナも、そんなシャナを常に肯定するアブデュルも、風避けのために張ったテントの中で静かにしている。元々静かなワカバも、もちろんその中にいる。
漆黒の空にはぽっかりとした満月が浮かび、星の光すら呑み込み兼ねないその月は、夜の漆黒を滲ませていく。キラの目の前にある暖色の炎は、爆ぜ上がった橙をその空へと向かわせていた。
闇に呑み込まれてしまうことも知らずに。
いや、あの月の光に憧れて、月に呑み込まれにいくのだろうか。
キラはその火の粉を追いかけ、視線を夜空へ向けていた。
まだ光のある頃は、シャナとアブデュル、ワカバにも順を回して、キラ自身の休息も取ってはいたが、深夜である今から朝日を見るまでの間の火の番はキラがすることになっている。
魔獣の危険は昼夜問わずだと言っても、魔獣は夜の方が活発になることに加え、視界の悪い夜は魔獣有利に働くからだ。いくら叫び声が五月蠅いシャナでも、叫ぶ前に喰われる確率がぐんと上がる。
しかし、本当に気持ち悪いくらいに静かだった。
だから、キラの思考は尽きないのだ。
この場所は、これほどまでに生気のない場所だっただろうか。
ここは、これほど危険を感じない場所だっただろうか。
以前ここに来た時は、もう少しなにかの気配を感じ、もう少し緊張感のある夜を過ごしていた気がするのは、自分の気のせいだったのだろうか。
すべてがキラの過去の記憶と違って見えていた。
また火の粉が爆ぜた。
キラの視線は、空ではなくテントへと向かった。誰か出てくるようなのだ。眠れず外に出て、気晴らしでもするのかもしれない。テントの入り口を眺めていると、ワカバが周囲を気にしながらひょっこりと現れた。そして、空を眺め、そっと身を屈め、歩き出す。
どうも、誰にも知られたくないような、そんな雰囲気にも見えた。
ワカバに気晴らしはないだろう……。
そんな失礼なことを頭に過ぎらせたキラは、ワカバが進む方向だけを確かめて、同じく空を眺めた。
先ほどと変わらない月がある。
あぁ、そうか。今夜なら月が三つ見えたかもしれないんだな……。
空を彩る月、白濁の池にある月。そして、ここ。泉に揺れる月。三月山の由来の一つである。
ワカバの下ったその方向には揺れる月を臨める泉がある。
キラはもう一度夜空を眺め、徐ろに立ち上がる。
まったく、灯りも持たずによくあんな道を進もうと思うものだ。そんな風に思う。そして、ワカバならあり得ると自然と思えてしまう。
それは、魔女だからではなく、ワカバだからなのだ。 もしも、キラが『キラ』でなかったのならば、ワカバが自然に笑えるようになるそんな時を見届けたい。
こんな風に思うようになってしまったことに、諦めの溜息を付きつつ、手にランタンを持ったキラは、ワカバを追いかけることにした。
爆ぜることもなく、ただ燻るようにして生まれては消える、そんな希望を夜空に埋めたキラは、泉へ続く茂みへ分け入った。
獣道とも言えるそんな薮の中、足元に灯りを照らしながら、キラはワカバが歩いただろう痕跡を捜し進んだ。何の警戒もなく歩くから、手つかずの細枝が折れていたり、わずかに地面が踏み固められていたりするのだ。その痕跡はやはり泉の方へと向かっていた。
しかし、ここまで入ってきても、魔獣の気配はまったくない。
まるで、時が止まったような。
それは、キラが頂上にて感じたことのある感覚だった。
乾燥した冷たい風が、未だに火山の後の灰を巻き上げ、渦を巻く場所。風化もせず、ただ繰り返されるだけの時間である。
それは魔女狩りで失われた村の様子にもよく似ていて、過去の爪痕はまったく消えていない。
時間の中を生きる人間だけが、その爪痕に様々な思いを馳せるだけで。
泉に近づけば近づくほど、徐々に草丈が短くなるのは、雨のせいでこの辺りまで水が増えるからだ。そして、植物の生長が感じられなくなるにつれ、ここも岩が増えてくる。どことなく、死に近づく気がする。
岩に手をかけると、掌に感じる乾いた苔。それなのに、足元に感じる湿り気。水の音がわずかに聞こえる場所。
視界が開ける。
やはり、ワカバがいた。
泉の傍にあり、空を見上げ、泉を眺める。
そんなことを繰り返していた。
まったく、そんなことのために危険を冒すなよ、と言いたくなるが、砂漠を歩いた際を思い出してしまう。
魔獣はワカバには寄りつかないのだ。
ただそれだけが、彼女の魔女である証明であるかのように。
それなのに、とても閑かで。
とても静かにその月見を楽しんでいるワカバの邪魔をしてはいけないと思ったキラが、踵を返そうとしたその瞬間、静寂は消え去った。
何かを切り裂くような、凍てつかせるような、殺気によく似た空気がキラに襲いかかり、その後すぐ声が降ってきた。
「今夜は満月、ものの風情を語らうには少し賑やかな夜ですわね」
「誰だっ」
挑発するようなその声に、キラは静かに叫んだ。視線の先には岩がある。そして、その岩の上に足を組む女の姿。先程まではなかった影だ。そして、見覚えのある影。表情は月明かりの影になりまったく見えないが、その女はラルーで間違いない。
国立研究所長官を務め、ワカバを逃がした、凶悪な魔女。いや、あの魔女狩りを率いた死神とも言われる者。
そして、ラルーは「ふふ」と可笑しそうに笑い、キラの正面に音もなく降り立ち、ワカバよりも深い緑の瞳をキラに向けた。ワカバと同じでまったく別の緑の瞳が、妖しくキラを舐め回す。値踏みする。
そう、オリーブに住む魔女のように。
どこか含みを持つ歪んだ光をその瞳に映しながら、キラの周りを半周し、月を眺め、立ち止まった。
「今のあなたはなんとお呼びすれば良いのかしら?」
キラが言葉に詰まると、視線を下方に向けて「そうですわね。名を尋ねるのならば、名乗るべきですわね」とその唇に微笑みを称えた。
「もちろんご存知かと思いますが、わたくし、かつてあなたの上官として長官を務めましたラルーと申します。あなたがお思いになられるように、凶悪な魔女であり、死神とも呼ばれたこともありましたわ」
でも、オリーブの魔女たちのように妖艶だとは言われたことはありませんわね。
自分の言葉で可笑しそうに静かに笑う。そんなラルーが何を考えているのかが、キラにはまったく分からなかった。
ただ、相手であるラルーはキラの考えを確実に読んでいる。そして、キラが下手に動けないように蜘蛛の糸を張り巡らせているのだということは、分かった。それが敵意なのかどうかは分からない。
だから、彼女を睨んだままキラは時を止めていた。
いや、キラの中に怒りともつかないなにかが、渦巻くのだ。だから、言葉がまとまらない。
今さら何しに来たんだ。
ワカバを逃がして、放り出して、こんな奴に拾われて。こんな奴にしか付いて来られなくて。
喋れなくなって……。今も……。
キラが『キラ』であることすら、……。
「とても懐いていますものね」
「いったい誰のせいでっ」
懐くという言葉にも苛立ちを感じた。静かに叫んだキラの声は、闇を震わせるようにして響いたはずだ。しかし、ラルーの表情は恐れるどころか、真剣味を帯びた。緑の瞳が真っ直ぐキラに注がれる。
それは、ワカバと同じ。真っ直ぐな。嘘のない。
「あなたの望みなら、ワカバは喜んで叶えてくれるでしょう。そして、今、銀の剣を持つものは、わたくしです」
今度はキラがラルーを真っ直ぐ見つめた。ラルーは笑わない。
銀の剣は魔女を殺すために存在する。しかし、本来はそれに何の意味もない。
ただ、銀の剣の勇者は魔女の記憶を残すとされているだけで。それも、剣のせいなのか、彼らの関係性からなのかも分からない。
確かに、ワカバとラルーの関係性を考えれば、ワカバがラルーを殺せないとなるだろう。
銀の剣の勇者がラルーであってもおかしくない。であれば、今以て勇者が現れない理由にもなる。
遠くに見えるワカバがその場に横になっていた。
「まさか」
まさか、ラルーがワカバの時を奪ってしまっただなんてこと……。
焦るキラを尻目に、ラルーの声は落ち着いていた。
「今はなにも起きません。ご所望になるのなら、銀の剣も差し上げますわ。あなたにも権利はありそうですから」
「必要ない」
「ふふふ。すべては『その時』が来れば分かることです。だけど、ひとつ願うのならば」
そのラルーの言葉に息を潜めていた夜風が、キラの視界を奪った。と同時にラルーの気配が消えていく。手を伸ばすが、そのキラの手は空を掴んだ。
「あなたにワカバを守っていただきたいと思っております」
しかし、キラはその気配を留めておきたくて、風の中、叫んだ。
「ワカバは、お前を求めてときわの森へ行こうとしているんだぞっ。おいっ、待て。あいつは、お前を信頼してるんだぞっ。おれじゃ……」
――ないんだ。
姿はなかった。ただ、ラルーの声だけが残された。
「ほんとうに、そう思われますの?」と。














