『三月山を越えていく④』
空にまだ月が残っている明け方。
キラは監視役の村人から解放された。何も起きなかった。それが解放の理由である。
だから、キラはまず教会に向かい、ワカバとシャナの無事を確かめたのだ。教会の扉を開けると、シャナの朱い頭が見えて、そのままその頭が振り返った。
「おはよう」
何事もなかったかのように声を掛けられ「あぁ」と続けたキラは、ワカバの様子を尋ねていた。
「ワカバは?」
「まだ眠ってるけど、……あ、アブは?」
「あいつもまだ眠っているんじゃないか?」
そして、その時、昨夜シャナが部屋割りに文句を付けに来た理由を知った気がした。
互いに人質を取っているようなものだったんだな……。
「太陽が昇る前に出発する」
そう言い残して、キラはアブデュルを起こしに行った。
三月山を比較的安全に越えるには、太陽が昇ってくるまでに中腹の手前までにいることだ。そうでないと、リディアス側にある頂上付近で夜を越えねばならなくなる。それが第一関門なのだ。
頂上付近はとにかく寒い。
植物すら芽を出すことが許されず、乾燥した風が吹き荒れる場所だ。そんな場所で一夜を過ごし、体力を回復させるだけの睡眠が取れなければ、後の下山に支障を来す。
出来れば、その頂上を越えた次のワインスレー側の頂上と言われている瘤の部分で、夜を明かしたいというのが、キラの考えだった。
瘤の部分辺りは、比較的魔獣もおらず、気温も安定している。ここで、体力を回復させて、なだらかに長い下山の道に向かう方がいいのだ。
ワインスレー側にある下山の道には大型魔獣が存在し、少しの隙で一喰らいされてしまうのだから。
だから、例え逆のルートであったとしても、一夜を過ごすなら、瘤の辺りであり、日が暮れる前にリディアス側の中腹辺りは越えておかなければならない。
言ってみれば、それだけを注意すればいい。
後は『運』をどれだけ味方に付けられるか、己自身に賭けるしかないのだ。
そう思って、キラが後部を振り返ると、今にも死にそうなアブデュルの姿と、おそらく気力だけで登っていそうなシャナの姿が嫌でも目に入ってきた。
予定通りには進んでいるが、まだ中腹を少し過ぎた辺りだ。
「今だったら日が暮れる前に下山出来るぞ」
人命第一に考えれば、それが一番的確な判断だった。しかも、アブデュルとシャナは、魔女でもなんでもなく、キラのようにいつ手配されてもおかしくない人間でもないのだから。わざわざ、危険な道を通って国境を越える必要などないだろう。
「他人を心配する余裕なんてあるのっ」
「あるわけないだろっ」
しかし、シャナが憎まれ口を叩くので、キラも思いとは裏腹につい叫んでしまう。
実際、キラにも余裕と言えるほどの余裕はないのだ。わずかなバランスを崩すだけで、窮地に立たされるかもしれないのだから。
それなのに、ワカバだけがひとり余裕に見えてくるのだ。
シャナが鼻息荒くキラを追い抜いていく。そんなシャナを心配そうに視線で追いかけ、置いて行かれたアブデュルを見上げるワカバ。そして、シャナがふと立ち止まった。
「ねぇ、道なりずっとでいいのよね」
道という道がどこにあるのかが分からないが、シャナには道が見えているのだろう。とにかく上へ。この辺りからは岩肌が多く滑りやすいというだけで、遮るものはほとんどない。太陽も昇ってきている。大きく逸れなければ、自ずと頂上へと着くだろう。迷うのならばワインスレー側のくだりかもしれない。
「あぁ、そのまま真っ直ぐだ。ワカバ、お前は大丈夫か?」
そんなシャナを放って置いて、キラはアブデュルに歩調を合わせようとしているワカバに尋ねる。やはりワカバは、こくりと肯いた。おそらく、大丈夫なのだろう。ワカバの様子は、キラにもそんな風に思える。しかし、出来れば自分のペースを保って歩いて欲しかった。何が起きるか分からない山なのだから。昨夜ワカバと共に教会で眠ってくれていたシャナには申し訳ないが、キラが守るべきは、依頼人であるワカバだけなのだ。勝手に付いてきている勝手な行動を取る奴らまで面倒見切れない。
しかし、ワカバはきっとシャナとアブデュルのことも気にかけて、気にするのだろう。
「先に行ってもいいぞ」
その言葉にも、肯くのだろうとは思った。きっと、先に行かせても、今度はシャナに歩調を合わせようとするのだろうとも思った。
だから、キラはアブデュルの迷子保障だけはしようと思ったのだ。こいつの場合、道を踏み外して奈落の底もありそうだ。
「道が分からなくなったらそこで休んでろ。ちゃんと拾うから」
やはり、ワカバはただ肯いた。
ワカバの背を見送ったキラは、アブデュルを先導するようにして、彼の前をゆっくり歩く。アブデュルもその歩調に遅れないように必死に付いて行くが、息が上がってしまうのだ。
「ゆっくりで良いから、深く息を吸って吐いてのリズムを忘れるなよ」
まだ大したことはないのだが、確かに下界に比べれば、空気は薄いのかもしれない。無理をさせずに慣れさせれば、このくらいの歩調でならアブデュルも歩いて行けるだろう、とも思っていた。
慣れることもないのなら、本当に下山を勧めるべきだろう。おそらく、シャナも渋々ながらも受け入れるはず。
そんなことを考えながらキラが歩いていると、背後のアブデュルの歩調の乱れもだいぶ整ってきたようだった。キラから遅れることもなく、歩くことに対して多少の余裕も出てきたのかもしれない。
そんな彼がキラに話しかけた。
「ねぇ、どうして魔女と一緒にいて平気なんだろう?」
いや、話しかけたとも言えない。彼が迷いながら発してしまったただの呟きをキラが拾ってしまったのだ、きっと。そして、キラも答えてしまった。
「お前は、ワカバが怖いのか?」
すると、焦り声がキラの背中に聞こえる。
「違うんだよ、ワカバちゃんが怖いって言うわけじゃなくてね、あの子が魔女だって思うと……本当に、違うんだ。ワカバちゃんが怖いっていうのでも、ワカバちゃんが恐ろしい魔女に見えるっていうのでもないんだ。だけど……あの子、本当にあの恐ろしい魔女なのかい?」
キラはそれを静かに肯定した。
恐ろしい魔女として指名手配されている、褒賞金一千万ニードの魔女。
事実なのだ。そして、アブデュルの言葉はそっくりそのままキラの中に渦巻き続ける何かを代弁しているように聞こえたのも事実だった。
もし、ワカバが魔女らしい魔女であったのならば、キラはもっと『キラ』として彼女に接することが出来た。今ここにいるキラは、おそらくジャックの『キラ』ではない。
望んで進んだ道から外れてしまいそうな、ルオディックに近い存在。
今のキラは、あの河面を眺めていた不安定な『ルオディック』と同じなのだ。そして、そんな風になってしまったことに、キラは恐怖を感じている。
ワカバが怖いわけではない。ワカバによってもたらされた影響に、キラは恐れを感じているのだ。
「逃げたければ逃げればいい。誰も責めない」
おそらくアブデュルに宛てたその言葉は、それを叶えることの出来ない自分へ向けられた言葉だ。
そう、キラはワカバを依頼料目当てで国に売り飛ばすことすら出来ない、そんな存在になっているのだ。
アブデュルの返事は聞こえてこない。だから、キラは彼に続けた。
「もう少し登った場所でいったん休憩しよう。だから、頑張れよ」
おそらく、ワカバたちもそこで休憩を取っているだろう、唯一、方向が分かりにくい場所。立ちはだかる岩山を越えた先に進む道があったはずだ。














