『三月山を越えていく③』
しばらくすると、怒気を孕んだ足音が廊下から遠ざかっていった。ワカバは力なく床の上に座り込んでいて、やはりドアノブを見つめたままだ。
ランドの言葉が、脳裏に響く。
――信じることが強くする。
あの扉の先にある者は、魔女のワカバから逃げ出したい者なのだろうか。
シャナもキラも、そうなのだろうか。
すると、そのドアノブがゆるりと弧を描いた。扉が開かれるのだ。そう思ったワカバは、慌てて耳を塞いでしまった。
理由はなかった。だけど、何も聞きたくないという思いが、無意識に表われたのだ。
扉が開かれる。もしかしたら、お別れの言葉があるかもしれない。
ランドのように。
だけど、現れたのはシャナだけだった。
「何してるの?」
シャナは不思議そうにワカバを見下ろした後、相変わらず怖い声色で続けた。
「ねぇ、聞いているの? 耳なんか覆って、失礼よ、それ」
シャナが半ば強制的にワカバの手首を掴み、そのワカバの手を耳から離した。
「いい? 人の言葉はちゃんと聞き逃さないように聞いておくことよ」
シャナの朱い瞳が、ワカバの緑の瞳を真っ直ぐに見据える。シャナの瞳の色は、あの女神像の中にあった光と同じ色なのだ。
戦っている色……。
なぜかそんな風に感じた。濁った朱だと思っていたあの時は絶望の色だったのに。
ワカバは、その朱色の瞳にこくりと頷く。
シャナは満足したように、唇を横に引き延ばすようにして口角を上げた。
「教会で眠ることになったから、準備して」
☆
ワカバがシャナに言われたとおりに準備をしはじめる。準備と言っても、眠るだけなので、防寒のための毛布や布団を持って行くくらい。朝になればここに戻ってくれば良いのだ。幸い、シャナもワカバも盗まれるような貴重品も持っていない。
約十分後には、ここの村人が防寒を整え戻ってくるのだ。キラは、その村人とワカバを出会わせたくないと言っていた。
その理由は分かるようで分からない。
武器になるものを持ってくるかも知れない、とキラは言っていた。鍬や鋤などの農機具やらを。それを、ワカバに見せたくないのだろうか。
アブデュルは、相変わらず。部屋の中で眠るだけ。キラはそんな村人の監視下で一晩過ごす。要するに、彼が言った三月山に登るという無謀の成功率を下げたいだけなのかもしれない。
自分が武器を突きつけられているという、そんな姿を見せたくないのだろうか。
しかし、それでもやはり、ワカバとそんな村人を出会わせたくないという、キラの気持ちはシャナには分からなかった。
だから、のろまなワカバを眺めつつ、シャナは先ほどの出来事を振り返り、考えていたのだ。
あの時、ワカバがシャナの顔を見つめたまま、パンの一欠片も口にしようとしないことに対して、無性に腹が立ってしまったのだ。
それをワカバにぶつけても仕方がなかった。
それに、なんだかこのふたりの様子を見ていると、やはり無性に苛立ってしまうのだ。だから、シャナは隣室の扉を叩いたのだ。
「ねぇ!」
そう叫んで、既に就寝しているアブデュルを横目にした。明日を考えれば、寝かしておいてやった方が良い。そう思い、声を潜める。
「どうして、あたしがあの子と一緒なの? あの子はあんたに懐いてるんでしょう?」
おかしなことを言った覚えはなかったが、なぜかキラが豆鉄砲を喰らったような表情をしたのは確かだった。
「可哀想じゃない。なにか言いなさいよ」
瞬きの後に、キラはやっとぽつんと答えた。
「お前が魔女を怖がっていないんなら、このままでいいと思うけど……」
それは、年齢相応の。どこか自信のないような。逃げるような、そんな答え方だった。そして、シャナは苛立ちの原因が分かったような気がしたのだ。
どこか、自分を見ているような。それでいて、全く違うような。
それでも、同じにしたくなくて、心の中で反論し、叫ぼうとした。
なに言ってるのよ。怖いわけないじゃない、あんな子。あたしのことを怖がってるのよ。この部屋割りじゃ、可哀想じゃない。
しかし、シャナの中に生まれた言葉は、年齢相応から一転し、険しい色を帯びた彼の視線によって遮られた。
気付いたのは、その時だ。
ここの連中が押し入ってきた時。
キラは、まだシャナが人の気配すら感じられない時に彼らに気付き、真っ先に彼女のいる扉の前で、「なんの用だ」と彼らに向かい合ったのだ。ただ、静かに彼らを睨めつけて。
だけど、滾る怒りをその瞳に映しながら。
彼らがワカバを魔女だと言えば否定する。
やっぱり、違う。安心のような、羨ましさのような気持ちがシャナの中に生まれ、すぐに埋もれていく。そして、年長者として考える。
そんなんじゃ、あの子が魔女だって言っているようなものよ。そんな思いでシャナは口を挟んだ。
「あのね、誰が好んで魔女と一緒にいられるって言うのよっ」
「……そいつの言うとおりだ。だから、あいつは、魔女じゃない」
「そうよ。あんた達頭悪いの?」
変な商売しているみたいだし、方や魔女だし色々あるんだろうけど、あんた達はなんだかよく似ていて、互いに必要としていて。
「あたしの方がよっぽど、魔女らしいわ」
手配書の外見とまったく異なるから言えた言葉。そして、あの研究所長官代理のランド・マーク・フィールドが、確実に魔女の姿を知っているから、大きく言えたこと。
「あたしの方が妖艶だし、美人だし、頭も良さそうでしょう? どうしてあの子なのよ。あんた達、頭以上に目も悪いのね」
そう、あたしとアブにもよく似ていて。素直じゃないところがよく似ているくせに、全く違っていて。
なんだか気になるふたり。
褒賞金が欲しくないわけではないけれど、……。
準備が出来たワカバを連れて教会の中へ。シャナは黙って付いてくるワカバに聞こえるように大きな声を出す。
「寒っ。ほんと、迷惑極まりないわ」
ワカバがビクッと肩を震わせるが、シャナは気にせずワカバから毛布を引ったくった。
シャナの大喜利だけでは、納得させられなかったが、そのおかげでキラの言葉に信用が置かれた。落ち着いたキラの言葉には、確かに重みがあるのだ。
だったら、リディアスの唯一神である女神さまに、審判戴こうじゃないか。おれたちは明日あの山へ登る。それで、どうだ?
信仰心と自信の高い彼らに対する、おそらく彼の賭けだったのだろう。
それに加え、リディアス城のある首都ゴルザムの遙か遠く、この辺境にあっては自治が優遇されているのもあるのだろう。彼らは自分たちの信じる裁きを、キラ達に与えることにしたのだ。
キラの賭けは勝ちだった。ただし、魔女と思しきワカバは女神さまの御許にて、一番手強いだろうと思われたキラは村人の監視の下で、と条件は加えられた。
しかし、ほんのわずかに居心地の悪さを感じるシャナは、不機嫌を表わすことで、自分を納得させていた。
「来なさい。こうやってくっついていたら、きっと暖かいから。一緒にいるから、寂しくないでしょう?」
教会の最前列にある長椅子。青い光をその手に掬う女神の御許にて。
月の光を掬い上げるその純粋無垢な神聖さは、どこかワカバにも似ている。
おそらく、キラは今頃廊下で見張られながら一夜を過ごす。もしかしたら、刃物の切っ先が彼に向いているかもしれない。確かに、そんな様子をワカバに見せたいとは思わない。
そして、アブデュルを考える。あの時、驚いたことはたくさんあった。
まったく、あいつはひとつも役に立たない男よね。あいつにまで同情されるほどなんだもの。
「大丈夫よ。朝になればあの山を四人で越えられるから。越えさせるから」
だから、アブデュルは部屋の中でぐっすり眠ったままなのだ。
ずっと俯いたままだったワカバの視線がやっと上がり、女神像を見上げるシャナを見つめた。














