『三月山を越えていく②』
マナ河に沿ってずっと歩いてきた。キラとシャナ、アブデュルの四人で。
ランドは付いてこなかった。
月は少しずつ膨らんできていて、半分だったものがほぼ円を描くようになっていた。
たくさん歩くことには、慣れてきたから、大丈夫。
とげとげの果物の食べ方も教えてもらったから、大丈夫。
だけど、シャナがワカバを喋らせようとするから、大丈夫じゃない。
ワカバは、そんなことを考えながら教会の女神像を眺めていた。
女神像は、どこかラルーに似ていた。真っ白だけれど、色々な文字を教えてくれた時のラルーにも、星を一緒に眺めに中庭に出た時のラルーにも。
ワカバを置いていった時のラルーにも。
髪の色も、肌の色も、服装も全く違うのに。
静かになにかを見つめ続けるその様子が、ラルーを彷彿させるのだ。
女神さまは、自身の掌の中をじっと見つめている。
夕焼けの色が青いガラスを通ってその掌に集められ、輝き始める時間。彼女は、青に通した朱の輝きをその手に受け止め、何を考えているのだろう。
あの時、ラルーは何を考えていたのだろう。
『いいこと。何が起きても声を出しては駄目。風の子に言葉を取られて、魔女の元へ届けられては大変でしょう?』
ラルーは嘘をついている。ラルーが風の子を怖がってそんなことを言うわけがない。そもそも、ワカバを魔女だと知っていたラルーがそんな嘘をつく必要はないのだ。
考えれば考えるほど、声を出すと恐ろしいことが起きるように思えてくるのだ。
そして、その恐ろしいことは、魔女のワカバから発する。ラルーの言葉はやはりそこへと繋がっていく。
恐ろしいことは、誰かを痛くする。
わたしは、その恐ろしいことも誰かを痛くすることも、嫌いだ。
「ワカバ」
キラの声がした。キラが戻ってきたのだ。隣にはシャナがいて、アブデュルがいなかった。
「泊まるところが決まった。行くぞ」
そう言われて、もう一度女神像を振り返った。
呼ばれた気がしたのだ。しかし、女神像は当たり前のように動いてもいない。
しかし、ラルーの声が聞こえた気がしたのだ。
心配しなくても……と。
「どうした?」
キラの再度の声に、頭を振ったワカバは急ぎ足でふたりの元へと走って行く。そして、首を傾げると、キラがアブデュルの居場所をワカバに教えてくれた。
「あいつは、先に行っているだけだから」
きっとキラは、ラルーと同じでワカバの考えていることを読むのだ。だから、喋らなくても不便はない。細かいことは伝わらないが、恐ろしいことが起きるよりもずっと良い。それなのに、肯いたワカバに、シャナが怖い顔をするのだ。
これは、歩いていた時からずっと。
ワカバがキラに連れてこられた場所は、教会よりも山に近い場所にある平屋だった。茶色い屋根と卵色の壁。卵色の壁が夕焼けに反射して朱に染まっていた。
その色は、女神像の掌の中にあった色にもよく似ていた。
シャナが言っていた。
日中の白い光なら、あの掌の中は青色になるんでしょうね、と。
青いガラスを通して入ってくるから。
だけど、あの女神像の手の中に入る色は、今の太陽の動きからすれば、あの色だけのように、ワカバは感じてしまう。
朱に染まる掌。
そう思えば、どうしてラルーを思い出してしまうのか、まったく分からない。
ラルーはいつも優しかった。
朱に染まる掌とは、縁遠い。
朱に染まるとすれば、わたしの掌だ……。
わたしは、いつ何を起こすか分からない魔女なのだから……。
そんな風に思って自分の片手をもう片方の手で握りしめてしまう。
町長という人間とアブデュルに合流したあと、ワカバはシャナと同じ部屋に入った。
廊下の一番突き当たり。その手前には、キラとアブデュルがいる。
何を話しているのだろう……と苦手なシャナと一緒にいるワカバが不安に思いながら考える。
しかし、不思議なことにシャナと一緒にいても、あのぞわぞわはないのだ。
そんなシャナを眺めていたら、シャナが「何?」とワカバを睨み付けた。だから、ワカバは再び頭を振っていた。
ワカバが繋がれていたあの場所で、キラに会った時、静かな鬼が近づいてくると思ったものだが、そのシャナの様子は、小人を摘まんで口の中に放り込む、赤鬼に見えた。
そんなお話が載っていたのは、ランドがくれた黄色い表紙の本だった。
それを、ラルーが読んでくれた。この国の文字は……と言いながら。
ずっと一緒だったキラと今は別の場所にいる……。
そうか……不安はここから。
ワカバはそう思い、キラの言葉を思い起こした。
「お前はシャナと同じ部屋で休め。一番奥の部屋だから」
目を丸くしたワカバに気付いたキラは、一瞬言葉に詰まり、その後ワカバに補足した。
「……心配するな、隣の部屋におれもアブデュルもいる」
ワカバは静かにこくりと肯いた。
キラもいるのなら、大丈夫。ワカバはそう思おうとして、肯いたのだ。
しかし、ラルーだったら……と、ワカバは先の教会での空耳に、やはりラルーを求めてしまう。
別にキラが嫌いだということでも、シャナやアブデュルが嫌いだということでもないのに。ラルーだったら……何なのだろう。
だから無意識にラルーと彼らを比べている自分を不思議に思いながら、シャナを眺める。
シャナがなにかをワカバに要求したとか、そういうのでもない。ただ、シャナのことが気になって、彼女の動きに注視してしまったというだけで。
シャナはワカバといて、怖くないのだろうかというようなものから。
それなのに、シャナの赤い瞳が、ワカバを絵本の中にいた鬼のように睨みつけた。
「何?」
ワカバは慌てて頭を振る。
怒らないで。ただ、見ていただけだから。
「お腹が減ってるの?」
お腹は減っていない。だけど、……。
ワカバの返答を待ちきれないシャナは、ひとりで話を続けていく。
「一応、あいつから、あなたの取扱説明は受けてるから……あれでしょう? キャンプでのあの騒ぎの後から、声が出なくなってるって」
シャナは勝手に話しながら、布製の鞄に手を突っ込んで、硬いパンを一欠片出してくれた。
「あんまり食べないとも聞いてるし。このくらいでいいんでしょう?」
あまりワカバに興味がないように喋るくせに、シャナはじっとワカバの瞳の奥を覗いてくるようで、思わずワカバは目を逸らしてしまう。そして、瞳が揺らぐと、シャナは不機嫌になる。だから、ワカバは慌ててシャナを見つめて肯いた。
お腹は減らない。だけど、たくさん食べたいわけじゃないから、頭を振ってはいけない。
「まぁ、いいわ。肯けるようにはなったみたいだし」
そう言ってワカバと同じくらいのパンの欠片を口に放り込んだシャナは、「ちょっとあいつに訊きたいことあるから」と出て行ってしまった。
ワカバはもらったパンを手に持ったまま、そのシャナの背中を見つめて、自身の時間を止めていた。
不安だったのだ。ひとりになってしまった。きっと、わたしがシャナを怖がったからだ……。
怖がられるのは、嫌なこと。
だって、ただ一緒にいるだけで怖がられるのは、嫌だもの。
『お前が恐れているのは……』
そんな風にワカバが考えていると、あの夜の男の声が自然と甦ってくる。あの声は怖かった。そして、彼もワカバを怖がっていた。だから、彼は、ワカバが嫌いで、あんなことを言ったのだ。
人間は魔女を恐れる者で、信用してはならない者だから……。
ひとりになって、良いことなんて一度もなかった。
ラルーがいなくなったあの夜もキラがいなくなったあの夜も。
大丈夫。
だって、キラはいつも戻ってきてくれたから。ゴルザムにいた時も、キャンプにいた時も。だから、ここでも。
ワカバは気持ちを逸らしたくて窓の外にある月を見つめる。もうすぐまん丸になる月だ。
キラが三月山に登ると、三つ見えると言っていた、月。月の光は、ラルーに似ている。闇の道を照らすには優しすぎて、だけど、闇にあっても、標としてあり続けてくれるような。ただ、無条件に見守ってくれているような。
キラに初めて出会った時は空に船を浮かべたような三日月だった。そして、再会した時は、月のない日。
あの日は、いったいどんな月があったのだろう……。半分くらいだったのだろうか……。
あの日、ワカバはラルーの気配を感じたのだ。そして、今も、わずかに……。
ラルーと別れた日の月は、どんな形だったのだろう。あの日は、雨が降る前。月は隠れて見えなかった。
「……」
ワカバは月を見上げたまま、無言でラルーに呼びかける。
ねぇ、ラルー……そこにいるの?
わたし、みんなといても良いの?
キラと一緒に、いても良いの?
怖いと思われると、嫌われるよね……。ラルーは、どこへ行ったの?
嫌いになったから、いなくなったの?……。
と、その時、扉が破られる音が建物の中に響き、ワカバの心臓が飛び跳ねた。
大勢の怒鳴り声と、玄関の扉が壁にぶつかる大きな音。ワカバの部屋の前に雑踏が集まっていく。
ワカバの耳に、全ての音が劈くように、届いてくる。
この音は、嫌い。なにかが壊れるような音。
嫌だ。
耳を塞ぐワカバはそのまま真っ暗な部屋で蹲ってしまった。
この音は、嫌い。鼓動が早まるにつれて、ワカバの意識が過去へと戻ろうとする。嫌だ、そう思って、ワカバは目も閉じた。
見たくない、聞きたくない。それなのに、……。
あの時もそうだ。あの夜。あの男が来た夜。だけど、違う……。もっと。もっとたくさん。もっとずっと、過去へと。
ラルーの声が甦る。そう、ワカバはラルーに抱きしめられて。
「あなたは悪くない。だから、己の道を描きなさい」
ワカバの瞳から、涙が止めどなく流れ始めていた。
ラルーが言ったのだ。
「全てはわたくしの過ちですから」と。
今のワカバは、その言葉が間違っていることを知っていた。
それなのに、過去は青い光に包まれて、何も見えない。
がなり声の後に、キラとシャナの声が混じる。声はワカバの耳にまだ言葉として入ってこない。だけど、廊下にはワカバが安心出来る人間がいて、大きな音はしなくなっている。
だけど、絶望が聞こえた。
「誰が好んで魔女と一緒にいられるって言うのよっ」
シャナの声。
「……そいつの言うとおりだ。……」
キラの声が続いた。
ワカバは慌てて耳を硬く塞いだ。
聞きたくない。
ワカバはただ、月明かりに浮かび上がる金色のドアノブを見つめていた。














