『スキュラの魔女⑥』
水竜騒ぎと聞いて、ランドの足は浮き足立っていた。どこかに魔女がいるのかもしれない、そんな期待と、その魔女がどういう魔女なのかという疑問。様々にある魔女の存在は、どれも違い、一括りにすることなど出来ず、未だに謎に包まれている。
だから、『魔女』などいない、とランドは主張する。共通点がないことは自明の理なのだ。だから、そのサンプルをより多く揃えておきたい。
今回現れたその水竜はここにある魔女伝説の通り、マナ河から突如現れたそうだ。
となると、水竜がいたその付近には、引きずり込もうとした魔女がいたと解釈されるだろう。
しかし、水竜は何もせず、何もなかったかのように、立ち向かおうとした人々を残して霧散した。まるで、蜃気楼のように。
蜃気楼と魔法を結びつけていたのは、ランドの元上司ラルーだった。だからなのか、ランドは一度もラルーが魔法を使った場面を見ていない。本当に魔女だったのかすら、あの時まで本当は分からなかった。
いや、ラルーの過去を紐解けば、魔女である可能性はとても高い。リディアスの歴史にラルーは何度も現れているのだ。同じ容姿、同じ年齢。同じような性格。おそらく彼女自身。
時にリディアスの敵であることも味方であることもあった。もちろん、それも同一人物かどうか、定かではないがそのひとつにはリディアスが聖剣としている銀の剣をもたらす者として記されていたこともある。
そして、今回の水竜に立ち向かった人々が、また魔女に関連する者たちだった。
シャナとアブデュル。
魔力を特殊な装置と瓶を使って溜め込むことが出来るという道具を開発させて、リディアスに目を付けられた一家の生き残り……所内では残党とも呼ばれている者たちだった。
もちろん、彼らの場合、リディアス国民であることは確かで、父親がすぐに首を吊ったことで、過去のような魔女狩りがなされたわけではない。ただ、リディアス国王に目を付けられた会社は、永遠に息を吹き返すことがないというだけの話だ。
その社長令嬢がシャナ・クロード。第一工場を任されていた工場長の息子が、確かアブデュルと呼ばれていた。どこか不思議な縁をランドが感じているところに、この関所番が現れたのだ。
彼は船着き場を仕切っているだろうここの領主に、これからの処置をうかがうために会いに来たはずだと思えた。そして、そこで研究所所長であるランドを見つけた。そんなところだろう。もしかしたら、ランドを見た結果、慌てて思い出したのかもしれない。
『フィールド所長っ』と胸ぐらを掴む勢いで話しかけてきた関所番が、今まさにランドの胸ぐらを掴んで『魔女』の言葉を発したところだった。
「魔女が! あの魔女が関所に……っ。どうして気付けなかったのか、……。逃がしていたら……本当に申し訳ありません」
しかし、ランドは落ち着いて答える。
「大丈夫でしょう。あの魔女でしょう? もしあの魔女だとしてもひとりで何か出来るような者ではありませんから」
本当にワカバのことを言っているのか、それは会ってみないとランドにも分からなかった。しかし、もし本当にそれがワカバなのであれば、あの子がひとりで危険に気付いて逃げ出すことはないだろう、と断言出来た。しかも場所は関所内。
逃亡してまだ二ヶ月足らずの彼女が急になんでも出来るようになるわけがない。
そして、そのランドの言葉で関所番は、ランドの背広の胸襟を掴んでいることに気付き、慌てて詫びていた。いくら変人だと聞き及んでいたとしても、直属とは言えなくとも、ランドは彼にとって、雲の上とも言える場所にいる存在なのだ。
「もっ申し訳ありません! 触れられている特徴にあまりにも似ていたことに気が付いて。だけど、あまりにも聞いていた雰囲気と違いすぎて」
「そうだったんですか。では、別人の可能性もありますね」
ランドはそんな真っ直ぐな関所番が落ち着けるように、続けた。そして、背後にある別の存在を確認する。あの少年傭兵だ。おそらく偽名のマイアード君。
ただ関所番の言葉の内容から、その関所の中にいる人物がワカバである可能性が高まったことは、彼にも伝わっただろう。
「私が行きましょう。私は彼女の傍でずっと彼女を見ていた者です。何、心配いりませんよ。これでも腕っ節には自信がありますから。そんな年端もいかない少女には負けないくらいの自信はあります」
と、細い腕を折り曲げて彼に見せて笑った後に、口調を変えて彼に命令を下した。
「まずは、ここの混乱を治めることが、今のあなたの職務です。そちらの方に専念してください」
そう言って、動こうとする彼を再び呼び止めた。
「ただし、ここの面通しは厳重にすること。よろしくお願いします」
今から半時も経たない前。そもそも、どうして船着き場にランドがいたのかという話だ。
さすがに国に務め、様々な権限を有する者として、物見遊山ばかりもしていられないと思ったランドが、船着き場の船くらい動かさなければと動いた頃だった。
竜は消えた。天候も荒れていない。魔女がいたのだとしても、あの竜を出しておきながら、船で逃げる算段はない。ここに残っている各国元首をスキュラに留めおいておくわけにもいかない。
そんなことをここの領主に伝えた船着き場で、まずマイアードを見つけたランドは、思わず彼に声を掛けていたのだ。懐かしさというよりも、どこかその様子に違和感と勘のようなものを感じて。
ラルーと共にいると思っていたワカバが、もしかしたら、彼とともに逃げていたりはしないだろうか、というそんな根拠もない勘と、いつも冷静に自分を隠し通そうとしていたマイアードが焦っているように見えた、という違和感と。
「お久しぶりですね。マイアード君」
案の定というべきか、マイアードは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、そのまま苦いものを飲みこむようにランドに助けを求めに来たのだ。
おそらく、ランドを信じ、助けを求めた。
「ワカバを探しているんだ」
だから、彼は『ワカバ』と言ったのだ。おそらく、ほとんどの者が知り得ない魔女の名前を承知の上で。そして、自身の身の危険を承知の上で。
どうすれば魔女に許してもらえるか、と尋ねれば、魔女に謝れと当たり前のように言ってくる少年。
ガントがワカバを逃がした日。
彼がワカバを捕まえたという報告があった日。
それに何より、ランドの用意した御守りの石を見て、『あの人間と同じ色』とワカバが興味を示した人間だ。
その後、謀っていたかのようにしてラルーがワカバを逃がした。
この世界に縁を持たないあの状態のラルーが、どうしてあんなにも落ち着いていられたのかという理由を見つけた気がした。もし、ランド自身がラルーの立場にいたならば、確かに彼を利用するだろうなとも思えたのだ。
彼なら魔女だからと言って怖がったりはしないだろう。それだけで信用に値するような世界を、魔女と呼ばれる者達は生きている。
「分かりました。彼女の場合、あなたが探して見つからないのだとすれば、既に確保されていると考えるべきでしょうから」
それは、キラも同じ考えだった。
関所の塀の中。ワカバは関所の門を通り抜けることが出来なかった。そう考えて然るべきなのだ。
☆
戻ってきたのは関所番ではなく、ランドだった。その顔を見て、ワカバは気持ちが軽くなった気がした。知っている人間。そして、ワカバにご飯を食べろと言った、初めの人間。
キラのことは心配だったが、その姿にワカバはどこか安心を覚えてしまう。ランドはワカバを魔女だと知りながら、『ワカバ』として接してくれていた初めての人間なのだ。
そのランドはまず同じ関所内にいたシャナとアブデュルに挨拶をしていた。知り合いなのかもしれない、そう思いながらワカバはランドの様子を見守り続けた。
シャナは相変わらずキンキンとした声を出し、驚いたことに大人しかったアブデュルまでもが大きな声をあげた。ランドは、痛いのだろうな、そんな思いに駆られるが、ワカバはやはり彼を眺めることしか出来なかった。
ランドを助けるためにどうすれば良いのか分からないという以前に、不用意な言葉が何を生み出すのかが怖かったのだ。風の子が言葉を奪わなくても、ワカバ自身が魔女なのだから。
そして、突然、シャナの声が大きく響いた。
「あんた達のせいでっ」
ランドが深々と頭を下げている。だけど、謝っている様子でもない。
「あなた方の研究結果は、リディアス国立研究所所長としても敬意に値するものでした。私にはそれだけしか言えません」
アブデュルがそんなランドを睨み付けた。
「どれだけお嬢様が苦労したか分かっていますか?」
「もう良いわ、話にならない」
シャナの声色は、憎しみに満ちている、ワカバはそう感じてしまう。そして、続いたランドの声はとても冷たかった。ワカバの知らない声だった。
「私個人として謝れと仰るのならいくらでも謝りましょう。だけど、リディアスを背負った身としては、それは出来ないのです」
「謝って済む問題じゃ、ないんだ……あなた個人に謝ってもらっても意味がないんだ」
アブデュルの絞り出された言葉を背にしたそんなランドが、ワカバの元へとやってくる。
一瞬、あの黒い眼鏡を掛け始めた頃のランドと同じ表情をして、それから、繕うように表情を柔らかくして。ワカバの目線に合わせてそっと屈み、ワカバの冷たい手の上にその掌を重ねた。ランドの温かさがワカバに伝わってくる。ワカバの知っているランドだった。
「驚きました。あなたの表情がこんなに柔らかで豊かになっているとは」
ランドの声はワカバの耳に優しく響いた。そのランドの声の調子に、お話、しても大丈夫なのかな、とも思ってしまいそうなくらい。だけど、すぐに不安に襲われワカバは口を固く閉ざした。ランドはそんなワカバに、柔らかな微笑みを与える。
ラルーと同じ、優しい別れの微笑みだ、とワカバは思った。「行っちゃうの?」と、もう少しで、そんな言葉がワカバの口から発せられそうになってしまう。だから、また慌てて口を両手で塞いだ。
そんなワカバの様子を見たランドの微笑みは、ほんの少しおかしさを堪えたものに変わっていた。もちろん、それはキラからワカバの現状を軽く聞いていたランドだから、笑えたのだ。
あぁ、この子は、本当に人間らしくなったものだ。
そんな思いを過去に馳せて。
そう、あの時のランドの判断も、そして、友人で依願退職に追い込まれたガントの判断も間違っていなかったのだと、そんな思いに駆られたのだ。
だから、ランドは掛けていた黒い眼鏡を外し、偽りのない空色の瞳をワカバに向けて、彼女と向き合った。
「人間は信じるにはとても弱いものかもしれません。だけど、同時に『信じる』ということはあなたを強くするという意味も持っています。現に今あなたはここで、誰も傷つけなかった。水竜は消えました。負傷者は誰ひとり聞いていません。だから、安心して彼について行きなさい。きっと、今のワカバさんなら大丈夫です。あなたは『ワカバ』という名のどんな魔女でもない『たったひとり存在』なのだから」
ランドの言う意味は、ワカバには難しくてよく分からなかった。
信じることが強くなること。自分自身が大丈夫だと言われたこと。
ワカバというたったひとりの存在だと言われたこと。
だけど、ランドの言葉で自然に肯く自分に、ワカバは気付いた。ランドはやはり微笑む。
さようならの時間なのだ。それなのに、不安はなかった。
キラやラルーがいなくなった時とは違う。
ワカバは出ていくランドの背中をじっと見つめて、見送った。そして、大きく二呼吸。彼に代わり、キラが姿を現した。
「ひとりで大丈夫なわけ、ないよな。一緒に行くって約束だったもんな」
ワカバはやはり自然と肯いていた。
『スキュラの魔女』了














