『スキュラの魔女⑤』
時間が輪のように同じ場所を巡り続ける。ここはどの時間にも属さずに時を止めた場所。そして、どの『時』にもつながっている場所。
そんなときわの森の深くにある青い屋根の二階建て。庭へ張り出すテラス部分で、碁盤に向かう魔女が一人いた。彼女はトーラの娘の一人である。そして、その右腕にはあの赤いインコ。
「未完成なあなたごときにひっくり返されることは、まだなさそうですわね」
そう言って、碁石を一つ弾き飛ばす。
ずっと機会をうかがっていたラルーが、頬の横に落ちてきていた長い髪を背中に戻し、ゆっくりとティーカップを、口に持って行った。やっと肩の力を抜いた瞬間だった。
彼女の記憶が戻り始めている、ということは、少しずつラルーの敷いたトーラの効果が消え始めていると言うことだ。だから、ワカバの魔力が漏れ出てしまう。思いの強い過去を無意識に描こうとする。
しかし、今のワカバが『ワカバ』であろうとしている限り、ラルーの紡ぐ『トーラ』でもトーラに押し勝つことは可能だった。同時に、ワカバが完全に『ワカバ』を手放してしまえば、トーラの娘でしかないラルーでは、到底力及ばずになってしまう。
だから、どうか……。
ワカバのままで。
あなたは、私とは違い、この世界で望まれた存在なのだから……。
捨てられない銀の剣がラルーの目端に映った。
銀色に輝く勇者の剣だ。ラルーが必要なものとして存在させてきた、本来は何の意味もないもの。
ラルーはカップを静かに置いて、過去に犯してしまった過ちへ思いを馳せた。
トーラがワカバを次の器に選んだあの日。
リディアの大樹から吐き出された、名もなき赤子を見つけた日。
それは、どうしようもない嫌悪感がラルーの中に生まれた日だった。
「泣かない魔女の子、望まずしてトーラを持った者」
そして、その望まずトーラを持った彼女が意味することは、ラルーにとって絶望を意味していたのだ。
彼女は、この世界のどこにも柵のない状態で生まれた存在だった。
ラルーが守ってきた世界の根幹を、平気で揺るがすだろう魔女になれるのだ。
そう、彼女の母の望み通り、彼女が生きるための世界だけを紡ぐことが出来る存在。
全てを否定された気がした。
そんな世界、いらない。そして、私を蔑ろにし続けたこの世界も、すべていらない。
だから、ラルーは彼女をときわの森の魔女たちに預けた。魔女狩りと共にすべてを消し去ってやろうとした。
いや、それ以上に大切なものを失う絶望を彼女にも与えてやろうと思った。少しでも同じ苦しみを与えたかった。
そんな過去と未来を描いた。
それなのに。あの日、彼女が泣いたから。この世界に生きた魔女達の死を、悲しんだから……。
そう、ラルーの読みを狂わせた者がいたのならば、それは彼なのだ。
ラルーが企んだ未来よりも以前に、謀らずも彼が彼女に『大切なものを失う悲しさ』を教えることとなったから。
焦土と化した魔女の村の真ん中に立ち、泣き続ける幼い少女を、ラルーは縋るようにして抱きしめていた。自分の過ちの深さに、赦してください、とは言えなかった。だから、……。
ラルーは立ち上がり、次手を考える。
この時間に生まれた『ワカバ』であって欲しい。どうか手放さないで欲しい。
そう、ラルーが作り上げた紛い物の過去ではなく、彼女だけが持つ時間を生きる、ワカバとして。
彼女の母が望んだように、この世界が彼女の生きる時間になればいい。
ラルーは、ときわの森を覆おう藍白の空を見上げ、握りしめた手を胸の上に置いていた。
☆
国の兵に連れられて、関所手前にある待合室、どこかあの窓のない壁の中に似た場所に座らされていたワカバは、後から来た赤い髪の女が関所番の兵に吠え掛かっている様子をじっと見つめてしまっていた。
「何よっ。約束だったでしょう。褒賞金くれるって言ったのはそっちじゃないのよ」
今にも掴みかかりそうな彼女をいなすのは、彼女に付いてきていた黒い髪の男。
「お、おお嬢様、そのくらいにしておかないと……」
「こいつらが悪いのよ。あんたは黙ってなさい」
そう言われると、男は黙る。
泣き続けていたワカバから、涙を奪ったのは確かに彼らだった。しかし、ワカバは未だに喋らない。関所番は、彼女に何度も名前を尋ね、どこから来たのか、どこへ行くつもりなのかを尋ねた。
しかし、彼女は答えず、首を横にするばかり。
通行証も持っていない。
落としたのか、元々持っていなかったのか。水竜が現れたという緊急事態だったため関所は開放。だが、通行証を持っていない彼女はここに連れてきたが、今はその彼女をどうすれば良いのか分からない状態だった。そして、様々考えを巡らせようとするが、関所番の背後はとても五月蠅い。
「本当にいい加減にしろよ。結局何もしてないんだから、支払う訳ないだろう?」
「はぁ? それでも正義を信じるリディアスの兵なのっ? 約束が聞いて呆れるわっ」
女のキィキィ声が、さらに関所番を苛立たせていることは、ワカバにでも分かった。キラも苛々すると、大きな声を出す。きっと、彼も……。それなのに、彼女が追い打ちを掛けるようにして、手に持っていた瓶を投げつけたのだ。大きな声が苦手だと思ったワカバは、その一瞬で覚悟を決めて、耳を塞ぐことにしたのだ。そして案の定だった。
「だいたい、約束ってなぁ。あの竜をお前らがなんとか出来たらって話だっただろ? いつまでも集ろうってんなら、反逆罪でぶち込むぞっ。早く出ていけっ」
その大きな声はとても怖い。キラなんか比じゃないくらい……。
ワカバが恐る恐る、その様子を眺めていると、今度は黒髪の痩せ男の方がへこへこ謝り始めた。そして、思う。どこかで見たことがあると。
そうだ、キャンプで。
「ごめんなさい、本当に。お嬢様に悪気はないんです。本当です。どうかお許しください」
ワカバは、彼の謝る声を聞きながら、キラを捜しながら、彼に声を掛けてしまったことを思い出していた。今ではどうしてキラと間違ってしまったのかまったく分からない。
同じくらいの大きさの影を見つけて、慌てて声を掛けてしまっただけなのだ。その時も彼はなぜかワカバに謝った。『ごめんね、がっかりさせて』
そんな彼を眺める。そして、赤い髪の彼女を見つめる。どうしてあんなに怖い顔をしたままなのだろう、と。どうして、彼に冷たい視線を投げるのだろうと。
「本当にごめんなさい」
しかし、頭は下げるが、出ていくつもりもないらしい。だから、関所番はもう彼らを構うことを止めたのだ。そのために関所番が泣き止んでいるワカバに気付いて、尋ねに来てしまったのだ。
もう何度も尋ねられたことだった。だけど、彼はワカバにはまだ優しい。そして、とてもゆっくりと話をする。
「君はどこへ行こうと思って、通行証も持たずにここに来たんだ? そんなに小さな子どもでもないんだから、名前くらい言えるだろう?」
ワカバはキラに言われたとおり、首を横にする、を繰り返す。そして、そんなワカバを眺めていた彼が、ふと何かに思い当たったようにして右の拳を左手に載せた。
「言葉が分からなかったりするのかい?」
彼にはリディアス側の河岸からやってきたように見えていたが、もしかしたら、ワインスレー側からやってきて降船し、関所を出た後すぐに戻ってきたという可能性に気付いたのだ。
「もし、そうだとすれば、ここの領主様だったらあっちの言葉が分かると思う。少し待っててくれないか」
そう言った関所番は、ワカバにはやっぱりまだ優しい。しかし、すぐに大きな声が響いて、ワカバはまた耳を塞いでしまった。どうやら、人間は人間に対しても怖いことがあるらしい。ワカバは、そんなことをぼんやり考えていた。そして、耳を塞いだまま、キラを思う。もし、ここにキラがいたら、キラはどんな風に動くのだろうと。
「お前らは早く出ていけ」
関所番はやはり彼らに叫んだ後、走って出て行ってしまった。もうきっと大きな声はないだろうと、ワカバはやっと耳から手を下ろした。
そして、彼の消えた方向を眺めた。
例えば、あの竜をキラが消し去ることが出来るのだとすれば、キラはきっと一緒に船に乗るために、あの約束をしたのだろう。となると、ワカバはこんな場所にいつまでもいるわけにはいかない。
キラと一緒に行くことは決定だけど、水竜に近づいてはいけない。
あの関所番が出ていった先に外への出口はあるのだろうか。
せめて鐘の音が聞こえる場所まで行かないと、……。
外の様子がまったく分からないここがそうさせたのかもしれない。ワカバはこのよく分からない状況で、ある意味で冷静になり、ある意味での現実逃避と思考停止をしていたのだ。
水竜がキラを殺すわけがない。
だって、キラがなんとかなると言ったから。ラルーが望まないことは起きないと言ったから。
魔法なんて、蜃気楼のようなもの、と教えられたから。
ワカバは今、夢の中にあるような状態だった。人間が人間に酷い言葉を言うようなここは、ワカバが見たことのない世界。ワカバにとって異世界だったのだ。
もしかしたら……。
そう、わたしは単に迷子になって、変な夢を見て、キラとはぐれてしまっただけなのかもしれない。もしかしたら、ここは、まだキャンプなのかもしれない。
だって、あの黒髪の男の人がいるのだもの。あの時、間違って彼に付いてきてしまったのかもしれない。大きな声が多いのはワカバを起こすための目覚ましなのかもしれない。
しかし、立ち上がったワカバを、女の声が引き留めた。
「逃げようったって無理だと思うわよ」
女はじっとワカバを見つめていた。そして、トーンの下げられた声。さっきとは大違いだった。
「出ようたって、関所の奴らに止められるわよ。あんた、通行証持ってないんでしょう?」
ワカバは立ち止まり考えた。尋ねられれば首を横にする。これはキラとの約束。
「あたしはシャナ。あなた、あの魔女でしょう?」
やはり首を横にするワカバを見たシャナは、面白そうに笑い、こう尋ねた。
「ねぇ、あたしがあなたと一緒にいるって言ったら、迷惑?」
一瞬小首を傾げたワカバは、キラとの約束通り、首を横に振っていた。














