『スキュラの魔女①』
『ほぅ。あれが君の守りたいものなのか』
紫煙と共に空に消し去りたい過去。シガラスは灰色の雲を眺めながら、キングことランネルに弱みを握られた瞬間を思い出していた。そして、悪態をつく。
そうじゃよ。儂は、未だに亡霊に囚われているんじゃ。
あの傭兵部隊でいなくなった奴らが遺した家族を援助することで、その亡霊から逃れたいと思っていたんじゃ……。
あの日シガラスが見つめていた先には、孤児院があった。最後の孤児が卒院するまで後二年だったのに。
それなのに、キラの元にあの魔女がいる。
『守りたければ……』
独占欲の強いランネルの考えそうな依頼だった。ラルーが言った言葉を信じておけばキラを巻き込むこともなかったのだろう。
君の腕前なら簡単ことだよ。もし私以外の者があの魔女を手に入れたのならば、その者共々殺してくれれば良いのだから。
魔女の力を手に入れられなかった、こんな世界必要ないのだから。
そのランネルの依頼は、シガラスの中で別の意味を持ち始めていることは確かだ。
シガラスは、生真面目で決してジャックには向いていない、初めて育てた弟子のようなジャックを、使いモノにならなくなった優秀なジャックを殺したくないのだ。
そう、殺したくないのだ。
☆
空は灰色。リディアスでは珍しく、曇っている。
曇っていると言っても、雨の多いディアトーラに比べれば薄曇りではある。豪雨になってしまうと船は出ないかもしれない。
キラは空を見上げてそんな感想を抱いた。
スキュラに着いたキラとワカバは、関所手前にあるマナ河の畔でお互いの時間を潰していた。乗船までに少し時間があるのだ。
十分も歩けば、スキュラの町に入る河岸。河の水が石に当たる音まで聞こえてくるくらいに、静かだった。
それが、キラが河岸に戻ってきた時の状態だった。
ワインスレーへと渡る船に乗るための切符と、ここからは必要なくなる駱駝を売りに行くためには、町の中心部まで入らなければならない。今、便利屋は使いたくない。
となると、渦中のワカバは目立ってしまうかもしれない。便利屋なら金を掴ませておけば、ときわの森のあるディアトーラまでの日数くらい黙っておいてくれるだろうが、シガラスの動きがあると分かった以上、出来れば使いたくない、がキラの心情だ。
だから、キラは悩んだ挙げ句、スキュラの町にワカバを入れなかった。ゴルザムからスキュラへの列車も走っているここには、キャンプと違い簡易ながら関所もあり、ワカバの顔を知る衛兵もいるかもしれないという心配が先に立ったからだ。
案の定、会議が終わった賑わいと各国重鎮を安全に保つための警戒と、祭りのように屋台を出して儲けようとしている行商や貿易商が行き交い、町はとても騒がしかった。その喧噪はワカバひとりくらい難なく隠してくれそうな賑わいにも思えた。
もしかしたら、その賑わいのおかげで、好奇心だけは一人前のワカバがまた喋り出すかもしれないとも思えるくらいでもあった。
しかし、入れなくて良かったと、今は感じている。
ルリと行動を共にしているはずのあのパルシラがいたのだ。遠目にでも分かった。
リディアスに多い特徴ではあるが、金髪に空色の瞳。そして、長身の彼女。キラが知るパルシラと違っていた箇所は、身を包むその皮の鎧が国のものではなかったくらいだ。
その容姿は、確実に兄をワカバに殺されたパルシラだった。
彼女はワカバがいた研究所内での門番をしていたはずだ。どの程度ワカバに近かったか、キラには知り得ないのだが、彼女はおそらくワカバの顔を民衆よりも知っていて、ワカバを必ず捕らえる。
そこにワカバの死があるのかどうかは、キラには分からない。
さらに、もう一人、確実にワカバを知る存在もあった。
ランドだ。もしかすると会議の後も、魔女の伝説が残るスキュラに残っているかとは思っていたが、こちらは、本当に何を考えているのかまったく掴めない。ワカバを見逃すとも考えられるし、捕らえるとも考えられる。
しかし、ランドの場合、キラが本気で近寄りたくない相手なだけで。探られているようで、何を探っているのか全く見当もつかないような、ワカバとは違った意味で、拒絶反応を起こしてしまう相手であることは分かっている。ただ、ワカバは、知り合いに会えて喜ぶかもしれない相手なだけで。
いや、奴に預けてしまえばキラ自身は楽になるのではないだろうか。
そんな思いに駆られ『仕事』を思い出す。
キラが仕事としてなら請けてやる、と言った理由のひとつだ。
おそらくキラの根本は魔女に関わりたくないのだ。しかし、ワカバを逃がしてしまった手前、放り出してしまえば、夢見が悪いというだけで。だけど、別れるきっかけは必要だ、というだけで。そんな制約としての『仕事』だったのだ。
今ではそれを後悔している。果たして、キラはこの支払い能力のない依頼主から、その報酬のために彼女を売ることが出来るのだろうか。
人の言うことを聞かずに、自分の置かれている立場も分からず、泣き虫で、急に口答えするようになったと思ったら、急に喋らなくなる。
ただ飯食いで、金だけかかる迷惑な依頼人。クイーンを通さずに請けた個人的な依頼だ。いつ放り出しても本当はかまわない。
しかも、どこか距離を置きたいと感じてしまうような、厄介なばかりの魔女。
どこに、悩む必要などあるのだろう。
そう、ジャックなら、そうすべきなのだ。別れて然るべきなのだ。
だから、初めは苛立った。そして、今も何かのせいにして逃げ出したい衝動に襲われる。
その悩みの種の魔女は、ただ静かにマナ河の畔でその流れを見つめていた。
それは、まるでキラがまだ『ルオディック』いう名を名乗っていた、あの時と同じような気がして堪らない。
封印したい過去を、彼女はどうしてこうも思い出させてくるのだろう。
あの時にルオディックは死んだはずなのに、お前は『ルオディック』であると、キラに自覚させてくるように。
それなのに、ここでワカバを放り出して、あのパルシラがワカバを見つけたとして、国の衛兵が見つけたとして、シガラスが、賞金稼ぎが……。
どうしても放り出すことが出来ないのだ。
それではあまりにもワカバが可哀想である、ではないような気がしてならない。近づきたくない存在ではある。しかし、彼女の存在が消えるということは、もっと恐ろしいと感じる自分がいるのだ。
あの緑の光に呑み込まれることの拒絶よりもずっと恐ろしいと、今は感じている。
ただ、今も記憶の靄の中に入る勇気が持てない。きっと、幼かったというだけではないのだ。
思い出そうとすれば、それを拒否する自分がいるのだ。
町中から戻ってきたキラは、そんなことを思いながら、じっと河面を見つめているワカバに声をかけられず、また曇り空を眺めた。














