『小休憩』
「大丈夫か?」
背中に黒鉄の棒を背負うようになったキラが手綱を引く駱駝に寄り添うようにして歩くのは、ワカバだ。振り返るキラの言葉にワカバが肯く。先程までは駱駝を走らせるために、二人乗りをしていたが、今は駱駝を休ませるためにキラがその手綱を引いている。
「次の中継地点で、朝まで休むから」
やはり、肯く。キラはそこで口を閉じ、前を向いて歩くことにした。砂漠の海がただ続いている景色は、太陽の光で白く輝くこともあれば、今の日暮れのように朱に染まることもある。
キャンプ最後の日、倒れている賞金稼ぎ達をキラの部屋へ引きずり込んで、置き手紙と修繕に掛かるだろう費用を番台に置いてきた。そして、キラが駱駝を連れてくると、端布屋の女将がキラを呼び止めた。
「騒がしかったけど、あの子、大丈夫?」
多少警戒の色も見えるが、それは我が子を守る母の本能なのだろう。キラが「大丈夫だ」と返事をすると、安堵の表情が伺えた。
「心配しないで。薬のお礼。あの子のおかげで元気になるのが早かったのよ。とても助かったわ」
通報する気はないそうだ。キラはそんな母親から、ワカバの新しい服も一着購入した。蒼い色が好きらしいとは、その母親から聞いたことだ。
確かに青いガラス玉と青い石を大事そうにしていた。
濃紺のワンピースに同じ色のマント。赤に染まることのない色を選んだ。マーサが与えたであろう緑の服は、赤く染まってしまった。
魔女は人間の本当に欲しいものを与える代わりに、絶望を与えかねない者。
しかし、ワカバは彼らに薬をやり、信頼をもらった。彼らに与えられたものは、無事。
だから、今のワカバは砂漠を歩くのにちょうど良いフード付きのマントを羽織っている。
濃紺のその姿は、誰が魔女と言っても遜色ない。
それだからか、砂漠に潜む魔獣の視線の向く先は必ずキラだった。魔獣が狙う相手は、本来弱きもの。魔獣はワカバには近寄ろうともせず、そのままキラに狙いを付けて、キラに屠られるのだ。ときわの森に棲む大型魔獣は、砂漠の魔獣などに比ではないのだから、キラひとりでも充分だった。
そして、解せぬことに魔獣退治においてあのランドがくれた『撓らせると黒鉄の棒になる襷』が役に立っていて、しかし、襷に戻ることなくやはり奴らしく日常的に厄介なものに成り下がっていた。
加えて、ワカバを守らなくても良いということは、かなりやりやすい。
キラが狙われるということは、魔獣にとってキラは、ワカバよりも殺しやすいと思われているのかもしれない。
魔獣は、ワカバを狙おうともしない。そして、ワカバもあれ以来一言も喋らない。
魔女は全ての魔獣の上に立つ者。
その現状は容姿どおり、ワカバは魔女の色を深めていた。
それなのに実際にキラが関わるワカバはどんどん魔女から遠ざかっていく。あれだけ拒絶していたキラの中に起こる変化を受け入れつつあるのも事実。
これも魔女のせいなのだろうか。何を拒絶していたのだろう。しかし、その変化に対する恐れは消えない。
キラは歩きながら魔女を考え続けた。
元々口数が少なかったせいで、それに不自由を感じないところが、キラの胸を重くさせていくのだ。そして、そうなってしまった原因は、確実にキラなのだ。
今、キラとワカバが向かっている場所は、大河マナを港に持つスキュラだ。
スキュラで、うまく船に乗ることが出来れば、ときわの森があるワインスレー地方には、すぐに入ることが出来る。そろそろ、魔女についてであろう各国会議も終わり、慌ただしさと緊張感、そして、解放感による抜けが発生しやすくなる頃でもある。
ただ、少し回り道をしている理由は、やはりリディアス兵がキャンプへ向かい、こちらへ戻ってくるかもしれないからだ。
それ故、最短ルートでは進めなかったのだ。
「あの緑の場所で、休もう」
マナ河が近い砂漠の地域にはオアシスが点在している。
ワカバはそんなキラを見つめて、肯く。
☆
夜になると肌寒い。だからキラはワカバに毛布を与えた。しかし、ワカバは水場で水を汲みに行っているキラの背中を見つめた後に、毛布をその場に、駱駝の傍に行く。ワカバが座っていた場所は、ランタンの橙が目印。駱駝の影は、暗闇にうっすらと見えている。月明かりの中、大きな瞳を縁取る長い睫毛がワカバに向けられると、ワカバは笑ってみようとした。
ラルーは『大丈夫』という時に、いつも笑ってくれていた。声は出せない。何が起きるか分からないから。だから、そうやって伝えたいと思った。しかし、笑えているのかどうかも、分からない。
人間の傍にいると頭の中がぞわぞわする。
キラは人間である。
そして、とても大切。
それなのに、ワカバは自身が彼を殺してしまうかもしれないのだ。
人間以外のものの傍にいると少し安心する。ぞわぞわしない。
キラの傍もマーサの傍も安心の場所だったのに。
大切であるからこそ、安心出来なくなった。
駱駝の首筋はごわごわしていた。唾には気を付けろと言われているが、この駱駝は大人しくワカバに撫でられたまま目を瞑っている。
ワカバもそのままその首筋に頭を預けてみる。
温かい。
そう……温かいものが流れているのだ。
そう思うと足が震えてくる。あの人間達は、どうなったのだろう。キラは心配ないと言っていたが、元気になった姿は見ていない。
そろそろキラが戻ってくるはずだ。
砂漠の水を濾過させて、水筒に入れて戻ってくる。喉が渇かないワカバの分まで入れて。ワカバは駱駝に預けていた頭を戻し、毛布の元へ戻り、毛布にくるまる。
これもキラとの約束。ここで待ってると、約束した……。
約束したのだ。
毛布を肩に掛けておくことを。
だけど、なんだか違うような気がしてくる。何が違うのか、分からない。
そう、仕事の約束もした。一千万ニードがどれくらいなのかは知らないが、ワカバがキラに支払う金額である。
それも、約束だった。まだある。
人間と喋らないこと。魔法は使わないこと。食べものは食べること。飲みものは飲むこと。夜盗という砂漠を生きる人間には、たとえ飴玉をくれたとしても、決して近づかないこと。
どれも違うような気がする。
なにかもっと、大切な約束が……。
思い出そうとすると、ぞわぞわする。ぞわぞわは不安に繋がる。
毛布の傍には濃いピンク色をした果物が転がってある。緑の柔らかい棘が付いてあるが、食べられる食べもの。毛布と一緒に渡された、今日食べるもの。
毛布を肩に掛けたワカバはその果物を拾い上げて、そのまま砂の上に座る。
どう食べれば良いのかよく分からない。棘のひとつの先っちょを囓ってみるが、緑臭いだけで、美味しくなかった。
空を見上げると星が満天だった。
ワカバは人差し指を星に向けて、線を繋いでいく。ラルーとよく遊んだ遊びだ。
あの星とあの星を繋いでいくと、船の形。あの船の帆の先から大きな三角を繋ぐと、その真ん中に青い星が入る。青い星と帆先とは反対にある赤い星を三角と繋いで……。
そうこうしている内にワカバの目蓋がどんどん重たくなってきた。
たくさん歩いた。たくさん考えた。欠伸が出てくる。
あ、食べなくちゃ……。
そう思うもワカバの体は、ゆらゆら揺れてゆっくりと、毛布とともにくの字になっていく。
夢の中でラルーに会った。
ねぇ、ラルー、わたし、何を覚えていないの?
夢の中のラルーは微笑むだけで何も教えてくれなかった。
☆
水を入れ終わったキラがランタンと共に戻ってくると、ワカバが転がっていた。
「ワカバ?」
一瞬、死んでいるのかとドキッとしてしまったが、眠っているようだ。しかも、渡しておいた果物を両手で包み込んだまま。
食べ方が分からなかったのだろうか……。
そんなワカバの隣にキラは座り込み、ワカバが見ていた同じ満天の星を眺める。
今日もたくさん歩いた。
砂の上を歩くことは予想以上に体力を奪われる。疲れが出るのは当たり前だ。
そんな当たり前の事象を起こすワカバに、なぜかほっとしてしまった。
そして、呟く。
「これは、皮を剥いて食べるものだからな」
まるでそのまま囓ろうとして力尽きたような、そんなワカバに向けるキラの視線は、柔らかかった。
しかし、残念なことに、キラもワカバもその柔らかな視線に気付いていない。
ただ、悠久の時間を瞬く星空だけが、そんなふたりを見下ろしているだけで。
明日はスキュラへ到着するのだろう。
そして、船に乗りワインスレー諸国へ渡る。
そうすれば、ときわの森のあるディアトーラまで、あとわずか。馬さえ手に入れば三日かからない距離となるのだ。
「第一章『魔女に支配される世界』」了