『キャンプにて⑦』
ほんの少し明るい。月明りのような柔らかく冷たい光がベッドの下に射しこんでくるのだ。
怖いとは思わなかった。
静かなことにも慣れていた。
あの頃と違うとすれば、なぜか不安なことだろう。
今、わたしの傍にはキラがいない。戻って来てくれるかどうかも分からない。
戻って来て欲しいと思っている。
ラルーのようにいなくならないで欲しいと、思っている。
だから、約束は破らない。
ワカバは今、キラに言われた通りキラの部屋のベッドの下で腹這いになっていた。シーツが床に擦れそうなくらいに乱れていて、外側からワカバの姿は見えない。
この部屋の片付いていない状態はキラが予め荒らしておいた結果だ。すでに誰かが探った後に見えるようにと。
ワカバの部屋は綺麗なまま。どちらかと言えば、そちらを探して欲しいから。そして、キラはワカバにくぎを刺した。
『いいか、何があっても騒ぐな』
だから、ワカバは隣の自室が騒がしくなって、大きな音がして、何かがひっくり返されるような音がしても、ぐっと唇を嚙んで、声を殺して我慢した。
いや、理由はそれだけではない。
ワカバは自身を恐れていた。
あの炎が上がった時、ワカバは恐怖したのだ。どうしてあんなことになったのか、それは分からない。だけど、掴まれた腕が熱くて。きっとキラとの約束を破って外に出たから。人間と喋ったから。
約束を守っていれば大丈夫。喋らなければ、大丈夫。
隣室の扉が乱暴に開けられて、閉められる音が聞こえた。
ワカバは青い石が入ったお守り袋をぎゅっと握りしめた。足音が近づき、ワカバのいる部屋の前で止まる。囁くような声と、去っていく足音が同時に聞こえる。
しかし、扉の前に残った気配も感じる。
開く……。
ワカバがそう思ったその瞬間に、大きな音が耳に劈いた。重さのある者が倒れた音がした。音と共に、何度も。
動けなかった。何かが起きたのだ。呻き声が聞こえる。
痛いことが、起きた。
わたし、じゃない……。わたしじゃない。わたしじゃ……。
思いたくなくて、ワカバは顔を両腕に埋めて声を殺した。まだ誰かいる。動いている人間だ。
「出てこい、お前の恐れているものはこんなちんけな人間の銃じゃないだろう。お前がいる限り誰も幸せになんかならんのじゃ」
響いたのは、キラの声ではなかった。
そして、近づいてくる。
来ないで……何が起きるか分からないから、今度は、わたしが痛くするかもしれないから、とワカバは目を瞑った。
そうだ。ワカバは銃を恐れているわけではない。ワカバは、いつでも人間を殺すことが出来る力を秘めている。だから、捕まえられてあの壁の中にいたのだ。
そんなことを、思い出した。
そして、今のワカバは、その力を制御することが出来ない。不安になると、何を生み出すか分からない。何かを吹き飛ばすだけではないのだ。
今はなんとなく『消える』というイメージに似たものをワカバは感じてしまう。
来ないで。消えるのは、嫌。
だから、そんな風に思った。だけど、『騒ぐな』に肯き約束した。だから言えない。
鳥が羽ばたく音がした。そして、再度の銃声。
ラルー? ラルーがいるの?
気配が遠ざかっていく。
ラルー、待って。
縋れるものに縋りたくてベッドの下から這い出てしまったワカバは、そこで地獄を見るのだった。
☆
逃げ出した魔女を追いかけてきた賞金稼ぎの最後の一人の意識を飛ばして、振り返ったその時に、嫌な音が月闇夜に響いた。
嘘だろ?!
キラの脳裏に浮かんだ言葉は、まずそれだった。そして、駆け戻る。
数名はキラの部屋に入るだろうとは思っていた。しかし、ワカバは高額賞金首だ。しかも生きて捕らえれば一千万ニード。
賞金稼ぎとして大きな獲物だとされるキングの手下を遙か上回る金額である。
争奪戦が起きるだろうとは思っていた。
そう簡単にワカバは殺されないと思っていた。
見た目はか弱い少女だ。油断するはずだ。賞金稼ぎが、即、ワカバを殺さなければいけない理由がないのだ。
しかし、あの銃声は……。
駄目だ。あの銃に狙われたら、時間などあってないようなものだ。
奴が魔女を狙う理由があるのならば、それは死を望んでいるはずだから。
依頼を受けるのだとしても、おそらくそのような依頼しか請けないだろうから。
どうか……。
生きていてくれ。
そんなことを思った。
宿に駆け戻ったキラの目にワカバが映った。まずは、良かったと息を吐く。しかし、そのワカバの手は血に塗れていた。
キラの部屋の扉は開かれたままだった。閉じることが出来なかったのだろう。扉の付近には、おそらく賞金稼ぎ達と思われる者が三名倒れており、どれも虫の息に見えた。ただ、どれもが適切に止血されている。死ぬことはないかもしれない。様々なことを視野に入れつつ、キラは徐に歩き出す。
ワカバとの距離がちょうど人一人分になった時に、やっとワカバがキラに気づき、見上げた。
「お前に怪我は、ないか?」
ワカバはキラを見た途端に涙を頬に伝わせ、体の震えまで止まらなくなった。そして、その涙を拭おうと血塗れの手で頬を擦ろうとするワカバの手を、キラは掴んだ。ワカバが囁く言葉がそうさせたのだろう。
「違うの……わたし、ちがうの」
ワカバは助ける必要もない人間たちを助けようとしていたのだ。それなのに、キラの掴んだ手はがくがくと震えを止めず、その首を左右にする。
「分かってる」
キラはワカバの本当の気持ちは分からない。しかし、この状態を作った者がワカバではないということは知っていた。これ以上ワカバを苦しめる必要などないことも、分かっていた。
「もう、大丈夫だから」
だから、もうこんなものに塗れるな。
キラはワカバをじっと見つめていた。それは、おそらく自らの意志でという意味で、初めての直視。
ワカバの不安そうな瞳が揺れて、また涙が零れ始める。
「大丈夫だから……」
そして、その言葉にワカバがキラを求めた。
それはまるで、母を求める赤子のように、溺れた者が藁にでも縋るように。キラに抱きつくワカバの背を、ただ泣き続けるワカバの頭をキラは支えるしか出来ない。ワカバが生かそうとした人間達を、生かしたままで良いのかすら、今のキラには分からない。
ワカバをここに残したことは、間違っていたのだろうか。
いや、……。あの時点での最善はこれだった。しかし、間違いがあったのならば、シガラスが魔女を狙っていたということに気付けなかったことだ。
シガラスは、いったいどんな依頼を受けているというのだろう。
賞金ではないことは分かる。
そして、どうしてこいつらを撃つ必要があり、ワカバは生きていたのだろう。シガラスが分からなかった。
奴が魔女を狙う理由はあろうが、助ける理由など思いも付かない。
そもそも奴自身で請け負わなければならなかった依頼とは、なんなのだろう。
しかし、何をおいても、こんな地獄絵図の広がる場所に、いつまでもワカバを置いておくわけにはいかなかった。
どうしようも出来ないキラはワカバを抱き上げ、ワカバの部屋へと連れて行った。
人間の願いを引き受けるその魔女が求めるものは、常に与えられる。
そう、それが我が子であっても。たとえ、それが彼の者の存在と引き換えとなろうとも。
それが、トーラを持つ魔女なのだ。
『キャンプにて』了














