『キャンプにて⑤(ワカバという魔女)』
行商達が店を出す区画を通り過ぎると三叉路がある。一つはキラがいた行商区画、もう一つは、水脈管理をしている場所、そして最後の一つはここの住民達が家を建てて永住している場所へと伸びているのだ。
その最後の一つへと続く道少し手前にある程よい空間に、大きな円周が広がっていた。円周を囲んでいるほとんどはいわゆる善良な民だった。そして、その中心には確かに魔女がいた。
その円周を作った男どもは二人。一人はすでに倒れた後。
キングの手下であることを肩に記してある者どもだった。そして、もう一人が、燃え上がった手を庇うようにして、掴んだ魔女の手を放した。
賢明な判断だろう。
魔女は、何かに怯えたようにして後退りする。その様子は周りが見れば、その手下に怯えているように見えたことだろう。
しかし、違う。
あれは、自分自身に怯えている目だ。
そう、初めて人を殺した時に見せるような。
あの目は新米のジャックによく見られる、正義に満ちた新米の兵士にも見られる表情だ。可哀そうな彼らは、たとえ相手が魔獣との初の実戦においてでも、必ずその恐怖を体験するのだ。それを体感出来ない奴は、どちらにも向いていない、とキラは教えられている。
何かの命を奪ってしまった、という『人』が持つ当たり前の恐怖。魔獣には決して存在しない恐怖心。
そして、自身の行動を肯定するために都合良く『正義』が使われるのだ。
人は簡単に自身の心をすり替え、偽ることが出来る生き物。納得すれば悪魔にでもなる。
キラは見つめた先にある光景に、他の野次馬とは違う感想を抱いていた。
ワカバが恐怖に耐えきれず、逃げ出そうと手下に背を向ける。
敵に背を向けることは、命取りである。
しかし、かすり傷の手下がその小さなワカバの背を蹴り倒そうとした瞬間に、流れが変わった。キラがその手下の腕を背中に捻り上げていたのだ。
男の絶叫が再度広がる。
そして、キラはすかさず叫んだ。
「危険な魔女だっ、道を開けろ」
そして、続けた。大地に打ち付けた男の背中を踏みつけながら。そして、その首を締めあげながら。
「あの魔女はおれの獲物だっ。キングの手下になど渡せるか」
そう、キングの手下は、誰が見ても『悪』なのだ。極悪非道の魔王の下についている者たち。その力の傘下にあることを示すために、肩に烙印を入れる。
民から見れば、賞金稼ぎのキラが魔女を捕まえる方が『正義』になる。ジャックであるということは、見えないのだから。
そう、常勤衛兵がいないキャンプだから成り立つ正義。つい今し方まで手下にあった正義は、今、キラの中に移ったのだ。
そう、正義など。
馬乗りになっていた背中が大人しくなった。この二人なら小遣い稼ぎにちょうどいいだろう。辺りを見回すと、ちょうど良さそうな奴がいた。
とりあえず、小銭を掴ませておくか……。
一人でも離脱してくれる方がありがたいのだ。
「おい、そこの、こいつらを縛って突き出しておいてくれないか?」
しかし、彼らは死んでいなかった。
ワカバはあの村にいた兵士を吹き飛ばしたとされる魔女だ。出来ないわけではない。
それをしなかったワカバは、少なくとも今キラの傍にいるワカバは、人としての道の上にいるのだ。だから逃げ出した。
逃げ出す者は、その道の上に存在出来ない弱き者。
『信じてやりなさい』『とても、良い子だ』『気を付けてあげなよ』
ドンクと宿屋の主人、そして駱駝便の男の言葉が蘇る。だから彼らはキラにそう言ったのだろう。
ただ……。
まだ人の裏を掻き切れなさそうな賞金稼ぎの男に手下をやったキラは、そのまま魔女の逃げた方向へと走り出した。
キラがワカバを信じたとしても、キラはワカバの信用に値する者ではないのだ。
☆
とても怖かった。
急に肩を掴まれたと思えば、顔を覗き込まれて。
だけど、『怖い』なんて今まで思ったこともなかったのに。
急に肩を掴まれただけ。
あの壁の中にいた時は、もっと酷かった。もっと、痛かった。
あの時は、ランドが食べ物を運んできて、お喋りをするようになっていて。
金魚ちゃんの時と同じだ。
だけど、違う。だって、あの時は金魚ちゃんが死んじゃったから。
引っ張られても、腕がちぎれそうになっても、獣を嗾けられても。
わたしがたくさん痛いだけで。叫んでも、暴れても。
何も起きなかったのに。
どうして、こんなにも心臓が飛び出るように響くのだろう。
震える体は、どうして止まらないのだろう。
キラの声が、危険な魔女だと言った。
どんな顔をしていたのだろう。あの男の人たちと同じような、そんな顔だったのだろうか。
わたしの顔を見て、横一文字に引き伸ばされた男の唇は、笑みだった。
ラルーの微笑みはもっと安心出来た。
キラは笑わない。優しくない。だけど、安心出来る。
とても不思議で、奇妙な人間。どこか他の人間とは違う、違和感のあるそんな人間だ。
だけど、獲物だって。
キラと出会った二度目の場所にいたランネルと同じ言葉だった。
どうして震えるのだろう。止まらない。寒くないのに。
わたしが……わたしは、あの男の人を死なせてしまったの?
金魚ちゃんみたいに。
でも、怖かった。ただ、それだけなのに。
痛くしてしまった……。
きっと、もう、キラも一緒にいてくれない。
ワカバは自分の両肩を腕で抱きしめながら、宿屋の傍まで戻ってきていた。しかし、戻れなかった。やはり、何かが怖かったのだ。何が怖かったのかは、ワカバにはまだ分からない。
何かが壊れてしまいそうな、そんな恐怖。
息が切れて立ち止まった時に、人間の声が聞こえて、慌ててすぐ傍にあった路地に隠れた。路地には塵を入れておくブリキの箱があり、その陰がちょうどワカバを隠してくれた。
膝を抱きしめ肩を抱きしめ、どれくらいの時間が経ったのかも分からない。しかし、ワカバにはその時間が時を凍らせてしまうくらいの時間の長さに感じられていた。
「大丈夫か?」
頭上から落ちてきたキラの声は固かった。それでも、今のワカバにとって、その声が一番安心出来る声で間違いないのだ。