『キャンプにて④(ワカバという魔女)』
ワカバはずっと窓の外を見ていた。昨夜からずっと。目蓋が眠たそうに落ちてきても、ゴシゴシ擦って、ずっと。太陽が頭上に上がってくる頃まで。
理由は二つある。
やっぱりキラが怒ったこと。
もう一つは、あの兄弟が出てくるかどうかを確かめるため。
そして、膨れる。
昨夜のキラは今までで一番怖かった。確かに約束は破ったけれど、ワカバは、その怒りは少し理不尽だとも思った。
宿屋の主人さんは、悪い人間じゃないのに。
だけど、と思い直す。
白い壁の向こうにいた時の人間のほとんどは、ワカバが指示に従わないと、恐ろしく傲慢な態度で、ワカバを引っ張って連れて行こうとした。腕がちぎれるかと思ったこともある。
人間は恐怖から怒りを覚えることもあるのだ。しかし、これは、どんな獣でも同じだと、ラルーには教えてもらっていた。
恐怖を感じると、生物は身を守るために凶暴になる、と。
ということは、キラもワカバが指示に従わないことに対して怒ったのかもしれない。
理由は魔女だから。魔女は人間に恐怖を与えるものだから。
しかし、ワカバは今までに感じたことのないくらいに、むすっとしてしまうのだ。その理由はどうしてだか分からない。白い壁の向こうにいた時は、そんなものだと思っていたことなのに。
いや、あの頃は思いもしていなかった。少しずつ変わってきたのは、ランドが食べものを持ってくるようになってから。
ラルーが微笑んでくれるようになってから。
そして、ワカバは自分の頬に指先を載せた。
わたしも、あんな風に笑えれば、いいのかな?
そのワカバの視線が自然と文机に向かった。
昨夜のパンが残っていた。今朝もキラは食べものを持ってきていたが、それが残っている様子を見て水差しの水だけ、コップに入れて出ていった。その水もそのまま。
だって、食べたくなかったんだもの。
少し申し訳ない気持ちにもなるが、やはり、むすっとしてしまう自分に気付いてしまった。
どうしてそういう感情が生まれるのかも、よく分からない。
「でも、食べない」
多分、相手はここにいないキラに向けて。
だって、優しくないんだもの、と頬を膨らませる。優しい方が好きだ、とも思う。
人間なんてみんな同じだと思っていたワカバは、そんな言葉が自分の中に渦巻くことの不思議にも気付かず、当たり前のようにして、そんな風に思っていた。
そして、また視線を窓の外に戻す。
「あっ」
子守歌が聞こえてきたのだ。あの兄の。
それは、昨日宿屋の主人がワカバに、首を傾げた後、教えてくれたのだ。
あぁ、あれは子守歌。幼い子どもが安心するために、歌ってやるのさ。
「伝えなくちゃ」
ワカバは昨日外に出て叱られたところだったことも忘れて、ただ、伝えるという使命感が抑えられなかった。
わたし、悪いことはしてないから。痛いこともしてないから。
そんな思いを胸に。
だから、嫌いにならないで。
そんな思いには気付けずに。
子ども達が元気になったんだものと、キラに伝えることだけを考えていた。
☆
日持ちする果物や水嚢、チーズや塩の袋に蜂蜜の小瓶。日持ちする固パンも数日分ある。
乗り捨て用の駱駝は明日の朝にもらいに行くと伝えた。準備すべきことはしただろう。干し肉などもあればいい。行商達が手ぶらで歩くキラへ大声で自分の店へ誘い込もうとする。
そして、小さく溜息を。
今朝のワカバを思い出したのだ。
確かに、苛立ちをぶつけてしまったと反省はしている。だが、この暑い砂漠の中、飲まず食わずを敢行しなくても良いじゃないか。
いや、案外平気そうだったし、一日くらい食べなくても死なないはずだ。
しかし、水くらいは……。
木乃伊にでもなりたいのだろうか。
いつまで食べないつもりだろう……。今朝、一度もキラを振り返ろうとしなかったワカバを思うと、なかなかの頑固者だと言うことが分かったのだ。
本当に、反抗期真っ只中の子どものよう。甘い食べものでも買って帰れば、機嫌が良くなるのだろうか。
そして、キラは白金色の輝く太陽がある空を見上げ、ワカバではなく、魔女の現実に頭を切り替える。町をうろつく理由の一つ。
町の様子は変わらない。嫌なざわめきも、余所者に対する行商の態度も。
賞金稼ぎだろう者の動きも変わらない。魔女の噂は立てるが、火のない煙のようなものだ。そして、気がかりなシガラスの気配もなかった。
ただ、昨夕の宿屋の主人の影響は、今のところ全く町に出ていないということだけが、不気味な気がした。
信頼しても良いのだろうか。
砂漠の町を歩くキラは、今度は大きな溜息を付いてしまった。昨夕キラが宿に戻ってくると、その主人に声をかけられたのだ。今度はそれが原因だ。そして、それはそもそもの理由だった。
「あんたらの関係ってなんなんだい?」
と。
きっと暑さにも疲れていたのだろう。唐突な質問に対してもキラは思ったことを素直に告げて、考えてしまった。
「さぁ」
と。
関係性など見当たらない。主人がそのままの表情で首を傾げ、鍵を一つキラに差し出したことで、ふと思う。
もし、『キラ』と『ワカバ』をどこかに関係付けをしなければならないのなら、依頼人とその請負人。それ以外にあるのなら、キラの方が教えて欲しかった。キラもワカバも魔女を探しているわけではないし、ワカバは唯一味方だと思える魔女のラルーに会いたいだけで、キラはそれに付き合っているだけ。
それなのに、キラを搦める鎖は増えてくようで。
「あいつ、何か言ってましたか?」
不意にワカバが余計なことを話していないか心配になった。
「いいや。変わった子だな、と思ってね」
キラはそれを肯定すべきか、否定すべきかを頭の中で考えて、曖昧に笑っていた。それから、主人はまた思い出したようにつけ加えた。きっと、暑さで頭が朦朧とするのだ。
「いや、おかしいってわけじゃないんだよ。向かいにいる子どもらの心配をしていてさ、状態を伝えてやると薬があるって、届けるって言うんだ。それも、単なる好意でさ。ここじゃ誰が騙した騙されたが多いからさ。なんか不思議と…あぁ、今日の晩から何日かここを留守にしようと思うんだ。出発する時は、この鍵をこの引き出しに入れておいてくれよ」
彼のまどろっこしい言い回しには意味があった。
真っ直ぐ主人の顔を見れば、その表情は真剣である。やはり、気付かせようとして伝えられた言葉だったのだろう。
「良いんですか?」
だから、キラも彼に尋ねた。きっと、ここの主人もワカバに搦め捕られた一人だ。
「良いんだよ、孫に会いたくなっただけだから。あの子を見ていて、思い出したんだ。とても、良い子だ」
昨日のやり取りをキラが思い返している間も、大地に降り注ぐ太陽は、ただ静かに熱を大地に移し続けていた。
主人がスキュラまでに使う手段は駱駝便の方だ。ただ、駱駝も走らせれば三日で着くだろう。そして、帰りがリディアスの馬であれば、二日だ。
五日。会議が終わるまで後四日ほど。
明日発てば、宿屋の主人の行動に驚いて急に姿を消したと思いにくく、スキュラの警備も薄くなる。さらに、こちらに向かう者たちを考えれば、危険なく進むことが出来るだろう。
だから、実際は時間が余ってしまったのだ。
その時間が、キラに思考を与えるのだ。そのおかげで、ワカバの機嫌とその存在に考えが振り回される。
キラの知る魔女とは緑の瞳をしている者。それ以外は時の遺児とされるなんの力も持たない者である。
フーの目の色は何色だったのだろう。それが気になったのだ。
銀の剣を持たせた者が、緑の瞳。月下の駱駝便の言っていた魔女の娘も緑の瞳。砂漠で聞く魔女の傍には必ず、その緑の瞳の女がいる。
緑の瞳と語り継がれている者は、その渦中にあるはずの魔女ではないのだ。
銀の剣と緑の瞳が共に語られているようなものだった。これは、リディアスのものでも、魔女を畏怖し崇めるディアトーラのものでもない。
しかし、ワカバはリディアスが求めるトーラを持つ魔女なのだろう。トーラを持つ魔女であるならば、それらは月下の魔女でありフーである。町を滅ぼすほどの力を持ち、人に危害を与えるもの。
実際、ワカバのいた村は壊滅しているのだから。
生き残ったものは、ワカバと……。
シガラス。
いや、ラルーもいる。
ラルーの瞳は深き緑。この辺りで伝えられている魔女とその死に付き纏う、死神のような存在。
キラの行き詰まった考えは、魔女の住んでいたときわの森を彷徨わせた。ときわの森は故郷の森だ。ワカバに出会ってから、キラは不意にその森をよく彷徨うようになっている。
今まではあの腕の痛みが引き起こしていたものであり、魔女を考えなければ、何も痛まなかったものなのに。それなのに、忘れてしまいたい過去の傷は、今は癒えて、ワカバに射竦められる度に、キラをその夢の中へと誘うようになったのだ。
いや、厳密にいえば、この頭の中に流れるイメージは、幼いころの記憶であり、夢だと言われれば、『夢』だと思えるくらい曖昧なものだった。
頭の中にあるものは、深い闇に閉ざされているときわの森の中。一ヶ所だけ、あの新緑色がある場所を知っていた。幼い頃の、曖昧な記憶。
それなのに、緑の光に呑み込まれ、何もかもが見えなくなる。
いや、どこかその記憶が開かれることを拒絶している。
ラルーがトーラを持つ魔女であれば良いと、そんなことに帰結しようとする。
そう考えれば、すべてから逃げ出せるような気がしてくる。
しかし、ワカバが母の磔台にすり替わるのだ。
そのワカバが炎の中で言う。
「容姿に騙されるな、奴らは悪魔だ」
と。
キラはワカバが磔台に上ることを望んではいないはずなのだ。それなのに、なぜかキラの深層は、そんな幻想を見せる。
違う。ワカバが母を殺したわけではない。母は父によって殺され、父は母の血を持つ姉までを恐れるようになったのだ。
魔女を。そして、リディアスを。
そんなキラを現実に戻したのは、男の叫び声だった。そして、ざわめき。
「魔女が出たらしいぞ」
「あっちだって」
「あの?指名手配の?」
「じゃなきゃ、亡霊の方か」
指さされる方へ視線を投げると、煙が立っていた。
ワカバ?
そう思うより早く、キラの足は方向を定めて走り出していた。その先には人集りがある。