『ワカバを連れて③』
今、ワカバの手の中にはキラの残した手巾がある。キラは、後方車両へ向かって歩いて行った。ワカバは手の上に載せられたままのその手巾を眺める。
キラの言葉は、よく分からない。何が出来ないのだろう。
きっと、キラは『ワカバ』よりもたくさんのことが出来るはずなのに。
だから、マーサを考える。マーサは、ワカバに食べものを食べろと言う二人目の人間だった。一人目は、ランド。しっかり食べないと、大きくなれないとふたりとも言っていた。これは、ワカバを信用してくれているからである、とワカバはなんとなく思っている。だから、ワカバもふたりのことを信用している。
そして、ふたりとも、蒼い色はワカバを守ってくれるものだと、言っていた。
だけど、さっきのキラは、よく分からない。
ワカバはもう一度袖で頬を拭う。やっぱり、擦れて痛い。もう少し優しく擦るべきなのだろう。
キラは、ワカバを騙していると言う。
オリーブで、降りてはいけないのだろうか……。
再度、手巾を眺める。何か包まれているような気はする。だけど、人間の物は勝手に触ってはいけないのだ。研究所の人間達は、ワカバに触られると恐怖を感じるようだったし、呪いをかけられたと思うらしかった。
きっと、キラも同じだろう……とは思う。
ただ、マーサもランドも、ガーシュもワカバに触られて嫌がることはなかった。
確かなことは、落とし物は落とし主に返さなければならないということ。
これは、ラルーも言っていた。返してから決めれば良いのかもしれない。
☆
キラは後方にある連結部分、乗客が振り落とされないための柵しかない場所で、強風に吹かれていた。たそがれるには不釣り合いだが、ここは、喫煙者が集まる場所でもある。
シガラスもよくここで煙草をふかしていた。しかし、ここまでしてどうして煙草を吸いに来る必要があったのか、やはりよく分からなかった。
一日くらい我慢できないものなのだろうか。
そして、そのシガラスの気配は、やはり掴めていない。一応奴の拠点だとされているオリーブも、ゴルザムでの動きも、嗅ぎ回ったが何も掴めなかった。もしかしたら、すでにこの近辺にはいないのだろうか。
キラが掴んでいるシガラス最後の足取りはオリーブだった。
オリーブの食堂裏の壁に、比較的新しい煙草の消し跡があったそれが、おそらくシガラス最後の足跡。
ワカバを逃がしたラルーについては、逃亡初日からまったく掴めない。
あの日は深夜に雨が降っていた。深夜まで衛兵が騒いでいた。住民にとって物音は、大したことではなかったのだろう。彼女は簡単にその足跡を消し去っていた。
この二人が姿を消している理由が分からない。
さらにリディアスでは、魔女に対する褒賞金が上げられた。
あの老婆の孫ルリが、魔女を探し始め、曰く付きの女と手を組んだ。
ワカバが関わっているだろうあの魔女狩りで銀の剣を持っていたとされる傭兵のひとりの妹、パルシラだ。
そして、魔女関連で言えば、上げられた褒賞金目当てで、一時、一世を風靡し、突如潰された缶詰工場の娘が魔女を追い求め始めた。
おそらく、この類いの者は増えてくるだろう。
そして、時間と共に、少なくなる。
キラの体は自然と凭れている柵へと沈み込んでいた。
ここまでしか出来ない。
そうは言ったが、オリーブまで行くにしろ、ローリエで降りるにしろ、そこまでの安全は確保しておいてやろうとは思っていた。手紙の内容を読んで、ワカバが折り返すつもりなら、その列車に乗るまでは、あの同じ車両にいた奴らから遠ざけるように誘導しようとも思っている。
所詮、賞金稼ぎなど個人プレーヤーなのだ。奴らが競争できるようにしてやれば、勝手に脱落していってくれる。キラは残る数名の足止めをすればいい。
もう少しすると、カーブがやってくる。少しスピードが緩み、稼ぎの少ない頃は、ここで途中下車をして、乗車運賃をくすねていたものだ。
ひとりで風に吹かれていると、そんなことまで、ふいに思い出してしまう。
きっと、これは、少しでもワカバから思考を逸らせたいがための行動なのだろう。
そして、そんなキラを現実に戻す音が聞こえた。
ワカバが連結部分の扉を必死になって開けようとしていたのだ。立て付けが悪いわけではないが、重い扉ではある。状況としては、ままあることだろう。それがままあることでないのであれば、ワカバが片手にキラが渡した手巾を持っていたこと。どう考えても渡したままの状態だ。
泣かした抗議でもしに来たのだろうか。しかし、一体どうしてやってきてしまったのだろう。
大人しく座って泣いておけば良いだけだったのに、もれなく尾行の男どもまでを連れて。
もちろん、ワカバは尾行に気付いていない。賢い尾行は、おそらく、動いたワカバに何か勘づいてやって来たに違いない。さらに、キラには、頓珍漢なワカバと今さら仲直りをして、彼女とつるむという対人技術もなかった。
そう、さっきはごめんなさい。いいえ、大丈夫です。
で、終わってはいけない状態なのだ。
キラは諦めを通り越して、考えを改めようと思った。
ワカバを同年代の人間だと考えてはいけない。きっと、泣いた理由だって別にある。もしかしたら、叱られた、怒られた、びっくりしたというレベルだったのかもしれない。
「来いっ」
なかなか開かない扉をワカバに代わり引き開けたキラが、その手を引き、扉を背中で押さえる。慌てたのは尾行の方。ワカバは、相変わらずだ。喚き叫ばれるよりは、全然いい。
扉の取っ手の部分を柵と結びつけながら、ぼんやりキラを眺めているワカバを放っておいたキラは、続けた。
「いいか、舌を噛み切らないように、その布をしっかり噛みしめておけ」
あと、十秒ほど。
開かない扉の向こうで騒ぐ男どもが見えた。ワカバはなぜか持っている小さな鞄を探っている。
「目を瞑って、動くなよ」
キラはワカバを抱きあげて、そのまま列車を飛び下りた。
空を舞う一瞬。
砂海が遠くに見えたのはゆっくりと。そして、急激に遠ざかる青い空。
千切れた雲が列車の影に消えていく。
キラはワカバの頭を包むようにして、そのままその砂の海へ飛び込んだ。衝撃に襲われ、列車が起こす猛風にすべてが隠れた。
砂海にぶつかったキラの体は、落ちていくスピードに勝てずにそのまま転がり、耐え切れずワカバを手放した。
やはり慣れないことをするべきではない。そう、ジャックが人助けなんて、ちゃんちゃら可笑しい。