第1話
ザアア、と流れる水で汚れた食器を洗い終える。
最早、女性、まゆりにとってはルーチンワークとなった仕事の1つ。
「まゆりちゃん、食器洗いが終わったら、清掃の手伝いに来てほしいって栗栖≪くりす≫さんが言ってたわよ」
「わかりました」
エプロンを手早く脱ぎ、ビニール袋の中に仕舞い込み、社員食堂をまゆりは後にする。
苅部≪くさかべ≫まゆり、21歳。
フリーターとして、様々なパートを転々としながら暮らしている。
待遇の良い働き先ならば、こうして長く勤める働き先もあり、そのまま継続も考えられるというのは、純粋に嬉しいことだ、とまゆりは思う。
勿論そこには、人間関係が含まれる。
清掃主任の栗栖さんがいる階まで、業務員用のエレベーターを使って移動する。
高層115階のビルは、一流企業が入っているだけあって、お金の掛け方も色々な面で違う。
スーツを着た社員と、清掃業務の服を着た人間が一緒のエレベーターというのは気不味いものがあるので、大変有難いことだ。
「貴方、行ってくれる?」
「私は嫌です・・・」
「アタシだって嫌ですよッ!」
各階にある、清掃業務員専用の部屋の前まで来ると言い争う声が聞こえてくる。
あ~、これは・・・。
内心ため息を吐きつつもまゆりがドアを開けると、部屋にいる4人の中年女性が、一斉に此方を向いた。
「もしかして、またフローレンズ絡みのことですか?」
ドアを閉めて、小声で確認するまゆりに、まゆりのことを娘・孫同然に可愛がってくれている4人の女性陣は一斉にため息を吐いて、ほぼ同時に頷く。
「110階にある大会議室前の廊下の清掃を頼まれたんだけどね・・・・・・」
「もしかして、会議の真っ最中ですか?」
清掃副主任の栗栖さんが頷き、私はため息交じりの声で確認する。
「で、その会議にフローレンズも出席しているんですね」
最早疑問符を付けなくても理解出来る事実だ。
これは、確かに仕事と言えども、誰も行きたがらない。
まゆりは内心の気持ちを切り替えると、清掃道具をカートに準備し始める。
「私が行きます。そのほうが被害が少なくていいですから」
「でも、まゆりちゃん・・・」
「大会議室を使用している会議なら、重役の方々もいらっしゃるんですよね? それなら何とかなるでしょうし」
「ごめんなさいね・・・・・・」
謝ることしか出来ない、と言わんばかりに頭を下げる栗栖さんに、まゆりは苦笑を浮かべて、大丈夫だ、と笑顔を見せる。
他の3人も皆、同じような表情を一様に浮かべている。
「社員ではないんですから、そこまで深刻にならなくても大丈夫ですよ」
「今度、お昼を奢らせてね」
「明後日、作り置きのご飯をたくさん作って持って来るわね」
「アタシはまゆりちゃんが好きなお菓子を」
「わたしも」
4人の感謝の入り混じった視線に苦笑しつつ。
「楽しみにしてますね」
と返事をして、まゆりは部屋を後にした。
110階のホールは定期的に清掃がされているためにパッ、と見はキレイであるのだが、細かい場所などにゴミが溜まりやすい。
普段は人がいない時に清掃を頼まれるのだが、どうしても時間が合わない時などもある。
水を汲んだバケツを観葉植物の真後ろ方面の壁際に置き、まゆりは掃除をスタートさせる。
この会社での清掃業務員を始めて早1年。
仕事には順応し、同じ清掃業務員の方達は皆まゆりよりも年上で、良い人達ばかりだ。
お給料も良いので、在宅で出来る仕事とも相まって、生活が潤っている。
しかし、この会社で清掃業務員として働くのならば避けては通れない問題が存在している。
会議が終了する前に掃除を終わらせたかったが、まだ半分ほどを残したところで大会議室から人がバラバラとたくさん出てきた。
邪魔にならないように、隅っこの掃除に専念していると、大きな水音と物が転げる音、女性の悲鳴が聞こえた。
普通ならば即座に振り返るところなのだろうが、如何せん、振り返りたくない気持ちのほうが強い。
だから副主任すら掃除に来たがらないというのに。
仕方がなく、音のしたほうを振り返ると・・・・・・。
「バ、バケツに躓いてしまって・・・」
涙目の可愛らしい女性社員が、まゆりが置いたバケツの水をひっくり返し、靴やストッキングに水がかかってしまっている。
そんな女性社員に群がる複数の男性社員達。
「美華≪みか≫ちゃん、大丈夫?!」
「凄い水で濡れちゃってる! 早く着替えたほうがいい!!」
「誰だよ、水の入ったバケツなんかそこら辺に置いといた奴ッ!!」
私だよ、とまゆりは内心で悪態交じりのため息を噛み殺す。
というか、躓くこと自体がありえないんだが。
まゆりは自販機から遠く離れた観葉植物の奥の壁際にキッチリとバケツを置いておいた。
故意でもない限り、まずバケツに気付くはずがないのにも関わらず。
そんなことを内心考えつつも、面倒なことになっては駄目なので、此方が頭を下げるのだ。
「申し訳ありません。すぐに片付けます」
「また清掃員かよ!」
「何でいつも第2秘書課の女の子ばかり狙うんだよッ!!」
いえ、そちらが狙って来ているだけです。
「美人で可愛い子ばかりだからって僻むんじゃねえよッ、ブス!!」
確かにまゆり自身の容姿は平々凡々だが、例え容姿が優れていても、人様に迷惑をかける人間には絶対になりたくありません、と心の中で返答をしておく。
「あ、あの! 躓いた私が悪かったんですから、もうその辺にしておいてあげて下さい・・・!」
言葉は丁寧だが、随分と上から目線だな、おい。
まあ、そんな場違いな言葉を発する女性の周りには、鼻の下を伸ばす男しかいないのが現状だが。
茶番劇には付き合っていられない、とばかりに掃除に戻ろうとまゆりはモップを手に取る。
「おや、まゆりちゃん。今日はまゆりちゃんがこの階の掃除かね?」
「専務さん、お仕事お疲れ様です。すみません、すぐに片付けますので」
「まゆりちゃんのせいではないんだから、ゆっくりで大丈夫だよ」
そうまゆりに言葉を掛けてくれるのは、自販機で飲み物を購入していた部長さんの1人。
「そうそう。まゆりちゃんが誰の邪魔にもならないように、水の入ったバケツを観葉植物の裏、しかも壁際にキチンと置いておいたのに、何故そのバケツに躓くのか、儂にはわからんよ」
いきなりの大物達の登場に面食らっている者達を置き去りにして、会話は進んでいく。
「それでも、清掃業務を担当する上で、不手際が起こった際の責任は私にありますので」
「まゆりちゃんは若いのにしっかりしているねぇ。暴言を女性に吐く輩とは大違いだ」
まゆりに暴言を吐いた男達の顔がわかりやすいほど青褪めていくのがわかる。
ついでに美華と呼ばれていた女性社員も。
「まゆりちゃん、此処の掃除が終わったら、会議室も頼めるかな」
「はい、勿論です」
明るく答えて、まゆりはモップで流れた水を拭き取り、騒いでいた女性と男性達が唖然としている間に、テキパキとバケツを片付けてフロアの掃除を終えると、飲み物を飲みながら歓談している専務方に会釈をしてカートを押しながら大会議室の中へと入る。
自分に暴言を吐いた男性陣は、第2秘書課に移動だろうなぁ~、とまゆりは思いつつも、罪悪感なんて覚えはしない。
「おや、まゆりちゃん」
大会議室の室内には、副社長と海外事業部部長の葦笨≪あしはら≫さんが居り、何か確認をしているようだ。
「こんにちは」
挨拶をしてから、まゆりは清掃に取り掛かり始める。
横で仕事のことを話す副社長と葦笨さんの声が聞こえるが、まゆりには仕事内容のことなんてサッパリわかるわけがない。
まあ、それを見越していても、2人共、話して良い内容しか口にしてはいないのだろうが。
モップ掛けが一通り終わるのと同時に、葦笨さんが会議室を退出していくので、まゆりはお辞儀をして見送る。
葦笨さんは、柔らかい癖のある前髪を上げながら、首が隠れる長さの髪を後ろで縛り、スーツを着こなす姿は泰然とした美麗な雰囲気を持つ美丈夫である。服で隠れるが体格は非常に良く、肩幅が広い。華やかな、それでいてどこか何ものも掴まえることの出来ない存在感を持っている。
その一種浮世離れした美貌は、本当に人間か疑いたくなる時もままある。
密かにまゆりは人外ではないのだろうか?
などと失礼なことを考えることもある。
まあ、私とは関わり合いのない世界の人間だろうけれど、とまゆりは思う。
「先程、言い争うような声がしていたが、またかね?」
「ええ、まあ・・・」
副社長の苦虫を噛み潰したような表情に、まゆりは曖昧に笑って頷く。
「商會≪しょうかい≫さんが入社してから、悪化の一途だな・・・」
頭痛を堪えるように額を揉む副社長、ひいては重役方がまゆりは哀れでならない。
副社長の言葉を聞き流しながらも、まゆりは手を休めることなく、机の上を濡れ布巾で拭いていく。
一清掃業務員としては、スルーするべき事柄というのは多くあるものだ。
副社長は肩で大きく息を吐くと、机の上の資料を片付け、席を立った。
「ああ、まゆりちゃん」
「はい?」
「いつも頑張っているご褒美」
握り込んだままの右手を差し出されたので、反射的に両手を出すと、チョコレート類のお菓子がまゆりの掌の上に落ちてくる。
「ありがとうございます!」
まゆりが満面の笑みで受け取ると、まゆりの頭を撫でて副社長は会議室を後にして行った。
お菓子を笑顔でポケットに入れつつ、まゆりは笑顔のまま、数秒後、ガックリと項垂れて会議室の机に頭をのせた状態で黄昏た。
「・・・・・・・・・私は一体何歳だよ。笑顔ですぐに受け取るから、成人の対応をされないんじゃないのか・・・・・・?」