前編
私とマイルズ・ブラックリーが婚約をしたのは、お互いがまだ四歳の時だった。
家が近所である私たちは親同士の交流もあり、この日も私たちは二人で元気に遊んでいた。
ブラックリーの庭は、うちと違ってたくさんの植物が植えられている広い庭だ。そこで私ははしゃぎすぎて、転んでしまった。
「ええん、いたぁい!」
「ルーシャ、だいじょうぶ? ぼくがおぶってあげるよ」
そう言ってくれたマイルズの背中に、私は自分の体を預けた。その瞬間、マイルズの体は前のめりに勢いよくベシャッと潰れる。
「うぎゃああ、いだぁぁああい!!」
マイルズは膝と頭から出血して大泣きを始めた。
私はその泣き声と流れる血に驚いて、逆にマイルズを背負ってブラックリー家に入る。
伯爵家の一人息子であるマイルズが怪我をして、屋敷は騒然となった。
中でお茶をいただいていた私の両親がやってきて、マイルズの姿を見た瞬間、ブラックリーの当主と夫人に土下座する勢いで頭を下げる。
「娘のルーシャが、申し訳ありません!!」
そうして私も頭をぐいっと押されて謝る形となった。私のせいじゃないと言いたかったけど、マイルズを押し潰してしまったのは、間違いなく私だったわけで。
「顔に傷が残ったらどうしましょう」
とオロオロするブラックリー夫人に、私は言った。
「わたしがせきにんをもって、マイルズをしあわせにします!!」
と──。
***
「おじさまもおばさまも、鵜呑みにしちゃうんだもんなぁ……」
私は自室で当時のことを思い出しながら、ハァっと息を吐いた。
ノリの良いブラックリー伯爵と、おっとりした伯爵夫人は私の言葉を聞いて、たいそう楽しそうにこう言ったのだ。
『じゃあマイルズの婚約者になってもらおうか』
『まぁ、それはいい考えですわね。ルーシャ、マイルズをよろしくね』
おばさまの言葉に『まかせてください!』と胸を張った過去の自分を殴ってやりたい。
貴族といっても、うちはお父さま一代限りの騎士爵で世襲はない。つまり私は、平凡な一市民と全く変わりないってこと。
それでもブラックリー伯爵家と仲良くしてもらっていたのは、おじさまがお父さまの上司で、気さくすぎるほど気さくな方だったからだ。
婚約の話が出た時、お父さまとお母さまは恐縮しまくってお断りをしていたけれど、結局断りきれずに婚約者契約を結んでしまった。
おじさまとおばさまは『こんな良い子が嫁に来てくれるなんて』と喜んでいたけれど、四歳だったやんちゃくれの私のどこを見てそんな風に言ったのか、まったく理解できない。
「用意はできたか?」
ノックの音と同時に、マイルズの声が聞こえてくる。
今日は面倒な園遊会の日。貴族の令嬢や令息の大事な交流の場に、なぜ私が行かなければいけないのか。
行きたくない。けど一応マイルズの婚約者だし、出なきゃいけない。もういっかい言う。行きたくない。
はぁぁっと大きなため息をつくと、ガチャっと扉を開けられた。
「ちょっとマイルズ、勝手にドアを開けないでよ」
「用意ができているならさっさと来い。遅い」
「私、今日はちょっと熱があるかも……」
「嘘つけ」
「ほ、ほんとだもん」
嘘だけど。
マイルズはギロリと私を睨んできて、ビクッと目を瞑った瞬間、おでこの髪をかき上げられた。
そしてそのままゴツンと温かいものがあたる。
「冷たいくらいだろ!」
目を開けると、目の前にマイルズがいた。不機嫌顔なマイルズは、パッと私から離れていく。
びびび、びっくりした。
「いい加減、慣れろ。今日は王宮主催の園遊会だから、行かないって選択肢はないんだよ」
「なぜ私が王宮主催の園遊会なんかに……」
「頼むから、それを人前で言うんじゃないぞ。今日は王子殿下もいらっしゃるから、しゃんとしろ」
「いーーきーーたーーくーーなーーいーー!」
「ルーシャ、お前は俺の婚約者なんだ。諦めろ」
「ううーー」
わかってる。将来マイルズの妻になるんだから、今のうちに社交の場に出て繋がりを作っておかなきゃいけないってことは。
私とマイルズは、今年で十七歳になった。
私を背負えず潰れて泣いていた少年は、いつのまにか立派な青年になりつつある。
昔はルーシャルーシャって私の後ろをついて歩いてきたくせに、最近では立場が逆転されてしまっていることが、なんだか納得いかない。
そんな気持ちを無視して、マイルズは私の手を取った。そのまま引きずられるように園遊会へと到着すると、マイルズはそつなく社交の場に馴染んでいる。根っからの貴族って、さすがだわ。
それにしても、なんて素敵な庭なの。王宮なんて生まれて初めて入ったけど、ガーデニングアーチからして、そこらの庭とは違う豪奢なもの。
そこに咲く美しい花々は全て手入れが行き届いていて、ため息が出ちゃう。
「お気に召してもらえたかな?」
ぽかーんと庭を眺めていたら、後ろから声を掛けられて、私は振り向いた。そして、驚いた。
「っひ、王子殿下!?」
「ひ?」
後ろにいたのは、この国の第一王子であらせられる、イノック殿下だった。私が変な言葉を出しちゃったからか、殿下はクックと笑っている。
「申し訳ございません、殿下。俺の婚約者がご無礼を」
どこから見ていたのか、マイルズがすぐに現れて私と殿下の間に入ってくれた。ちょっとほっとする。
マイルズはおじさまについて王宮を出入りしていて、簡単な仕事も任されているらしい。それで年の近い殿下とも交流があり、気に入られているということはマイルズに聞いて知っている。
「ああ、彼女がマイルズの婚約者殿か」
「はい、ルーシャと申します。おいルーシャ、挨拶」
「ふぇ? あ、はい」
促された私は、ようやくイノック殿下にカーテシーをした。
「マイルズの婚約者で、ルーシャ・ガートファと申します。殿下におめもじ叶いましたこと、大変光栄でございます」
「今のは〝光栄だ〟って反応じゃなかったけどね、ルーシャ嬢」
「あは、ですよねー」
「否定しろ、ばか!」
頭の上から罵倒する声が飛んできた。だって仕方ないじゃない。『面倒くさいから会いたくなかった』という本心を言わなかっただけマシだと思って欲しい。
「申し訳ございません、イノック殿下!」
「あははは、面白い婚約者殿だねぇ。僕に媚びることもしないし、貴族としてやっていく気はないっていうのが見え見えだよ」
マイルズの前以外では、気づかれないようにしていたつもりだったんだけど。
イノック殿下はニコニコしていた顔を一転して、マイルズの方に目を向けた。
「マイルズ、この女とは婚約破棄しろ」
「「え?」」
私とマイルズが同時に声を上げる。まさか、そんなことを言われてしまうとは思ってもいなかった。
「ルーシャだったか。彼女と結婚しても、将来有望なお前の足を引っ張るだけだ。見ればわかる。優秀な女なら、いくらでも僕が紹介してやろう。だから、婚約を破棄しろ」
あまりの展開とイノック殿下の豹変ぶりに、私はぽかんと口を開けた。
「殿下……婚約は、俺たちの意思でなされたわけではありません。破棄するならば、俺とルーシャとの両親にも話をつけなければ……」
「僕が言えばそんなものはどうにでもなる。慰謝料は代わりに払うから、今すぐ婚約破棄をするんだ」
「しかし……」
イノック殿下はマイルズの反応に明らかにイラついていて、私の肝は冷えた。
いつかは王になるイノック殿下の機嫌を損なうようなことはしない方がいい。マイルズは優秀で、何事もなければ出世が臨めるはずなんだから。
「早く破棄を言い渡せ、マイルズ。いつも婚約者のわがままに振り回されて困っていたんだろう」
イノック殿下の言葉に、私の胸は何かを乗せられたようにズシリと重くなる。
わがまま……そうか、私はいつもマイルズに甘えて、園遊会はイヤダ、勉強はイヤダ、ダンスパーティーはイヤダと言いまくってきた。結局は全部無理やりにやらされてはいたけど、イヤダイヤダという私はさぞかし面倒くさい女だったに違いない。
ましてや、私とマイルズは親が適当に決めた婚約者同士。無理して私なんかに付き合う必要は、まったくないんだ。
「殿下、俺は……」
「マイルズ、いいから!」
なおも殿下の意向に逆らいそうなマイルズに、私は慌てて話しかけた。
「いいからって、ルーシャ……まさか、ずっと婚約解消を望んでたのか……?」
思えば、これは好機かもしれない。婚約破棄できる機会なんて、そうそうないんだから。
おじさまやおばさまも、イノック殿下の意向なら仕方ないと思ってくれるだろうし、うちはとりあえず慰謝料をもらえるなら文句は言わないと思う。
「私に貴族は無理だってわかってるでしょ! とにかく、ここは殿下の言う通りにして!」
私はどうなったっていいけど、マイルズはそうはさせない。イノック殿下の不興を買うようなことがあっちゃダメだ。
私とイノック殿下が睨んで見せると、マイルズは視線を一度落とした後、顔を上げた。
「ルーシャ・ガートファ。俺は君との婚約を、破棄する」
マイルズの言葉に、私は頭を下げた。
「今までご迷惑をかけまして申し訳ありませんでした。マイルズの……いえ、マイルズ様のご多幸とご活躍を遠くからお祈りしております」
言い終えて頭を上げると、不機嫌そうなマイルズが飛び込んでくる。
なんだろう、これでお互いに自由になれるはずなのに……胸がちりちりとした。
「それでは私は、この園遊会にはふさわしくありませんので、これでお暇させていただきますね」
私はそう言って、その場を去った。園庭を出たところで振り返ると、マイルズが美しい令嬢と話をしているのが見える。
マイルズはちょっと横暴なところもあるけど、それは私が相手だったからだろう。顔も良いし、第一王子とも懇意にしている将来有望なマイルズは、引く手数多だ。
私なんかより、優しくて頭が良くて綺麗で家柄もいい令嬢は山ほどいる。おじさんとおばさんの気まぐれで婚約者にされた私の扱いをどうすればいいか、きっと今まで困っていたに違いない。
「……うん。これでいいのよ」
私はもう振り返らず、宮廷を後にした。