群青キャンディ
三題噺です。お題は後書きに記載します。
俺、藤平潤平の半生は、絵で出来ている。
物心がついた時には、既に絵は生活の一部だった。周りの子供たちが外で走り回っている時も、俺はひたすらに絵を描いていた。「潤平君は、本当にお絵かきが好きね~」なんて幼稚園の先生に言われたことが何度もあるが、俺にとっての絵は好きとかいう言葉で言い表せるものではない。気がついたら描いている。鉛筆でもクレヨンでも、画材は問わない。絵を描ければいい。ただ夢中で描き続けていた。
小学校、中学校と年齢が上がるにつれて、絵は遊びではなくなっていった。中学で美術部に入り、様々な画材や技法と出会い、描くことの奥深さを知る。自分の描きたいものを追求していくうちに、自分の技術が格段に上がるのを実感した。自分の全力を掛けて描いた作品が、コンクールなどに出品され多くの人に認められることに、大きな達成感を得た。
高校生になっても、俺の絵に対する姿勢は変わらなかった。俺はただ描くだけ。寝食や授業以外の時間を絵に費やしていた俺は、高校の美術部でも多くの成績を残した。美術の先生から美大受験を勧められ、塾にも通い出した。絵は、俺の全てだった。これから先、ずっとこうやって絵を描いて、そうして人生を歩んでいくのだと、信じて疑いもしなかった。
◇ ◇ ◇
「は~あ」
煙草の煙をゆっくりと吐き出す。
大学から少し離れた場所、川のほとりの小道に設置されているベンチ。ここは俺の休憩スポットである。大通りから少し外れた場所にあり、人がほとんど来ず静かに過ごせる穴場。1年の頃に発見して以来、大学の空きコマがある時とかは、ここで喫煙休憩をしている。
群青の空に映える白い煙をくゆらせながら、何も考えずにただぼーっと過ごす。そうして川のせせらぎに耳を澄ませていると、自分の周りだけ時の流れが遅くなったように感じる。
静かだ。いつもと変わらず。
そう思っていた矢先。
ガサガサッ
「!?」
突然、静寂が打ち破られる。
背後から物音がした。正確には、ベンチ後ろの茂みから。
驚いた。何だ一体。
野良猫かなんかかと思い、後ろを振り向くと――。
「見つけました! あなたが藤平潤平さんですね!」
「……は?」
バサッと。
茂みから飛び出してきたのは猫ではなく、人間……というか、女の子だった。
ぱっちりとした大きな瞳が印象的な少女。艶のある黒髪は肩口で切り揃えられている。高校生だろうか。セーラー服に身を包んでいる。
一目見て、「ああ、かわいい子だな」と思った。
「藤平さんですよね?」
「……まあ、藤平潤平は俺だけど」
「やっぱり!」
呆然としながらも答えた俺に、その女の子は声を弾ませた。
え、いや。どういうこと。
なんで女子高生が俺の名前を知っている。
そもそも俺に年下の女の子の知り合いなんていないのだが。
訝しげに見つめる俺に気づいたのか、彼女は「すみません! 怪しい者じゃないです!」と焦ったように言った。不審者はだいたいそう言うと思うけど。
「私、香山高校3年の城戸瑞季って言います! 藤平潤平さん、あなたの作品の大ファンなんです!」
「…………」
「作品」。その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。冷水を浴びせられたような気分だ。
俺の名前を知っていて、俺の作品のファン、ということは、つまり。
「小学校の時から、ずっと藤平さんのファンで。展示場とかに出向いて、藤平さんの絵をいっぱい拝見してきました! でも、最近藤平さんの作品をコンクールなどで見かけなくなって、どうしたのかと思っていたんです。それで――」
「…………」
最悪だ。
俺はポケットから携帯灰皿を取り出し、吸いかけの煙草をぐりぐりと押し付ける。
そして彼女の話を最後まで聞くことなく、無言でベンチから立ち上がり、彼女に背を向けて歩き出した。
「えっ、ちょっと、藤平さん!?」
「冷やかしなら帰ってくれる? どうやって俺の居場所を聞きつけたのか知らないけど、そういうの迷惑だから」
「違います! 待ってください、私は冷やかしなんかじゃなくて――って、わ! スカートが枝に引っ掛かってる!? 嘘、ちょっ、待って、待ってください! 藤平さん!」
ばたばたと慌ただしい物音が背後で聞こえるが、知ったことではない。俺は一切振り返らずに川辺を後にする。
たまにあるのだ。昔、無駄に名前が売れてしまったことで、俺の過去を知った人間が面白半分に干渉してくること。世の中には、かつての天才が今はどうしているのかなどを知りたがる、酔狂な人種がいるのだ。本当に勘弁してほしい。何も知らない奴に、土足で踏み込まれたくない。
どうせあの城戸とかいう女子高生も、適当なことを言って俺の過去を詮索してくるつもりなのだろう。関わりたくはない。
もう終わった過去を蒸し返さないでほしい。
俺はもう、絵とは決別した。
俺はもう、絵を描くことはないのだ。
◇ ◇ ◇
かなり冷たく拒絶したから、もう来ることはないと思ったのだが……。
「藤平さん、昨日の話の続きをさせてください!」
翌日の昼食後、煙草を吸いにいつものベンチに来たところ、先客がいた。
言わずもがな、城戸だ。
俺は彼女の存在を視界に捉えると、すぐに回れ右をした。
「待ってください! 藤平さんが冷やかしだと思われるのも、無理はないと思います。でも、本当に私は藤平さんのファンで、あなたの描く作品が大好きなんです!」
スタスタと歩く俺に、城戸はしつこく追いすがってきた。
一方的に喋りながら隣に並んでくる彼女は、思いっきり眉を顰めて不愉快を露にする俺に、まったく怯む様子がない。
「迷惑だって言ったよな。本当にやめてくれ」
「はい、聞きました。でも、私には伝えたいことがあるんです! また、絵を描いてくれませんか?」
その言葉に、俺は立ち止まる。
やっぱりか。また、俺に、絵を描けと。
「……俺はもう、絵を描かない。こんなことしても無駄だから、帰ってくれ」
そう冷たく言い放ち、俺は大股で歩き出す。それでも彼女はめげなかった。
「藤平さん。私はあなたの描いた絵に心を奪われたんです。あなたが描く、新しい世界が見てみたいんです! どうか、お願いします!」
ああ、ダメだ。話の通じないタイプだ、こいつ。
話しても無駄だということを悟り、俺は徹底的に無視することに決めた。
俺が黙り込んで歩いている間じゅう、城戸はずっとついて来て、藤平潤平の作品がいかに素晴らしいか、力説していた。
結局彼女は大学入口までついてきた。さすがに構内までは入ってこなかったが。
以降、俺は「自称・藤平潤平のファン」である城戸瑞季という女子高生に付きまとわれることになる。
◇ ◇ ◇
「藤平さんの作品は、繊細な中にも大胆さがあって、見ていてわくわくするというか、見れば見るほど新たな発見があるんです。小学生の頃の作品なんかは特に顕著ですけど、テーマは一貫しているのに、バラバラの要素が組み合わされていたり。初めてそれを発見した時は驚きました。ただ上手なだけではなくて、遊び心も見られたりして。そういった楽しみを与えられるのは、素晴らしいことだと思うんです」
「……あっそ」
「遊び心といえば、私はこれが好きですね。夏のコンクールで受賞した『朝顔』。一見するとシンプルな朝顔が描かれているんですが、よく見ると沢山の色が入り混じっていて、とっても綺麗なんです。ただのグラデーションではなくて、そこにしか現れない色を扱って……」
「……待て。『これ』ってなんだ。まるで手元にあるかのような言い方だが」
「さすがに現物はありませんが、写真がスマホに保存されています。ほら、これです」
「はあ? 撮ったのか、絵を」
「はい! 『朝顔』以外にもたくさん保存してありますよ。もちろん、撮影が許可されていた展覧会の出品作品だけですけど。展示された藤平さんの作品は、ほとんど見ていると思います!」
「……たかだか一学生の絵に、そこまでするか」
「私にとって藤平さんは一学生などではありません! 憧れの人ですから」
「藤平さん、煙草はやめた方がいいですよ! 健康に悪いです」
「うるさいな。関係ないだろうが」
「関係なくないです。私は藤平さんのファンですから。藤平さんの右手に似合うのは、煙草ではなく、絵筆です(ドヤァ)」
「……ドヤ顔してるけど、全然うまいこと言えてないからな」
「うっ! そ、それはともかくとしてですね、藤平さん。そろそろ絵を描いてみませんか? 煙草吸ってぼーっとするより、有意義な時間が過ごせると思います」
「俺にとって、この煙草休憩はすこぶる有意義な時間だ。何も考えない時間の何が悪い」
「開き直りですか!? まったくもう……、っ、ゲホッゴホッ」
「どうした?」
「す、すいません、噎せただけです……ゴホッ」
「…………………」
「あれ? 火消しちゃっていいんですか? 煙草休憩は有意義な時間だって……」
「別に。お前いると喧しくてぼーっと過ごせねえし」
「高校に上がってからの藤平さんは凄いですよね! もう技術力が右肩上がり。個人的に推したいのは、2年生の最後に描かれた『海』。筆の細やかなタッチを見て、溜息が出ちゃいました。荒れた海の波の動きを筆で表現していて。雑然としてしまうだろう線が、何故か一体となって見えるんですよね。全体で見ると、まとまって見えるという。とても不思議に感じました」
「……お前って、俺の作品が描かれた時期にやけに詳しいよな」
「はい! 藤平さんの絵と出会った小学3年生の時から、ずっと変遷を追い続けていますから! いつ、どんな作品が描かれたのか、ほとんど網羅していると思います」
「小3? お前そんな頃から、俺の絵を見てたの?」
「はい! もういっそ『藤平潤平マイスター』を名乗ってもいいかもしれません」
「いや、やめろ。マジで気持ち悪いから」
「こんにちは、藤平さん!」
「……お前さ、いつも俺に付き纏ってるけど、大丈夫なのか? 高3ってことは、受験生だろ。学校はどうした」
「ああ、大丈夫ですよ。既に推薦とれているので、もう今は自由登校みたいな感じです。登校日はありますが、それ以外自由なので。ご心配ありがとうございます!」
「いや心配じゃねえから。早く帰れって意味で言ってるんだよ。それに、お前この辺の高校じゃないだろ。なんでいつもいるんだよ」
「このあたり、定期券の範囲なんです。藤平さんに会いに来るついでに高校に顔出しに行ったりしています」
「やめろ、俺に会いに来る方を目的にするんじゃねえ」
「まあつまり、藤平さんに会いに来ることに、何の憚りもないわけです。ご安心ください!」
「俺の迷惑を一ミリも考えねえのな、お前……。少しは憚ってくれ」
「最近、藤平さん煙草吸ってませんね。代わりに絵筆をとる気になりましたか?」
「わけわからん期待をするな。……別に、もともと煙草好きじゃねえし」
「え、そうなんですか?」
「ぼーっとする時に、ちょっと口寂しかったから吸ってただけだ。深い意味はない」
「そうなんですね。……あ。そんな藤平さんにこれ! ぜひお食べください!」
「……棒キャンディ? なんで? てかどっから出した」
「昔から大好きなんですこのシリーズ! いつもポケットに入れて持ち歩いています。藤平さん、口寂しい時にオススメですよ!」
「……俺、甘いもん苦手なんだけど」
「大丈夫です。これジンギスカン味なので。甘くないですよ」
「……………は?」
「ジンギスカン、お嫌いですか? えっと、今ほかに持っているのは……。塩辛味、プルコギ味、あとゴーヤチャンプルー味がありますね。お好きなものをお選びください!」
「味のバリエーション、癖が強すぎるんだが」
「味の種類の多さが、このシリーズ最大の魅力なんですよ! 3桁を超える種類の味が、今までに発売されています。どの味も食べてみれば、意外とクセになりますよ! どうぞ!」
「………いや、遠慮する」
◇ ◇ ◇
城戸と初めて会ってから、一ケ月ほど経過した。
相も変わらず、彼女は俺に付き纏い、喋りかけてくる。
大学周辺でも付き纏ってくるため、同校の大学生たちには『女子高生に付き纏われる男子大学生』として俺は周知されてしまった。友人からは、「あんなかわいい女子高生からストーカーされているだと!? 羨ましい! けしからん! この裏切り者め!」と何故か罵倒された。絶対なにか誤解しているのだが、まあ面倒だから放置する。
城戸があまりにうるさいから、なんとなく世間話程度なら乗ってしまうようになった。とはいえ、彼女が話す内容の大半は、『藤平潤平とその作品』についてだ。過去の自分や描いた作品のことを、凄い凄いとひたすら褒めちぎられるのは、なんというか恥ずかしいし居たたまれない。やめてほしいのだが、言っても聞かないだろう。この一ケ月で城戸の性格はよく理解した。
性格以外にも、わかったことがある。彼女は俺が危惧していたような冷やかしの類ではなかったということだ。俺の描いた絵を「うまい」だとか「綺麗」だとか、適当な美辞麗句を用いて、持ち上げてくる連中はごまんといた。でも、城戸は違う。どの絵のどの部分がどういう風に優れていると、言葉を尽くして、詳細に語るのだ。それも、知ったような口をきくのではなく、当時俺が苦心して、執着して、時間をかけて拘った部分を発見し、その背景を理解してくれている。正直、嬉しかった。美術に造詣の深い人にしか理解されなかった俺の努力を、会ったこともない人が絵を見ただけで理解してくれたという事実が。
今日も今日とて、ベンチに座る俺の隣で熱心に喋っている城戸を見て、俺は腹を決めた。
「ですから、この『山際』には2年前に描かれた『カラスと夕暮れ』の空の塗り方が応用されていてですね――」
「なあ、城戸」
「はい?」
「お前さ、前に俺が言ったこと覚えてるか? 『俺はもう、絵を描かない』って」
「……ああ、はい。覚えています。藤平さんが、もう絵を描く気がないのは、わかっています。でも、それでも私は――」
「あれ、正確には違うんだよ」
「え?」
俺が言っている意味が分からず、きょとんと首を傾げる城戸。
そんな彼女に、絵描きだった頃の俺の理解者であってくれた城戸にだからこそ、言わなければならない。
「くだらないプライドで、嘘ついた。『描かない』んじゃなくて、『描けない』んだよ。もう俺は、絵を描けない。どんなに描きたくても、描けないんだ」
◇ ◇ ◇
高校3年の時。塾終わりの帰り道、横断歩道を渡っていた俺に、信号無視の車が突っ込んできた。跳ね飛ばされたものの、幸いなことに命に別状はなかった。……いや、幸いなんかではなかった、俺にとっては。衝突で吹っ飛ばされた俺は倒れる際に、右手を地面に強く打ち付けた。利き手である右手を。
右手には麻痺が残った。日常生活を送るには問題がない程度。しかし、俺にとっては死活問題だった。絵が、描けない。右手に鉛筆を持ち、今までのように線を引こうとする。でも、線は思ったような形を成さない。線が震えたり細くなったりするわけではない。ただ、俺の想像する線ではない。もう、あの頃のように、絵を描けない。でも、そんなことを認めたくなくて、俺はがむしゃらに絵を描いた。麻痺の残る右手で線を引き、色を乗せる。そうして完成したその絵を見て、俺は絶望した。それが、俺の描きたかった絵とは、あまりにもかけ離れたものだったから。思ったように、思うままに描けていたあの頃にはもう戻れないのだと、俺はその時初めて痛感した。
俺の全てだった絵が、もう描けない。息がうまく出来なくなった。どうすればいいのかわからない。どう、生きればいいのかわからない。俺はあの日、絵を失った。俺はあの日、何もかもを失ったのだ。
こんな話を知っているだろうか。海に生きるマグロは、泳ぎを止めることができないらしい。詳しいことはわからないが、泳ぎを止めると呼吸が出来なくなり窒息死するそうな。事故直後の俺は、泳ぎを止められたマグロのようなものだっただろう。絵を描く、ただそれだけを指針に、無我夢中で突っ走っていたところを強制的に停止させられた。絵を奪われ、本当に窒息しそうな苦しみを味わった。
でも、人間はマグロじゃない。当然、止まったところで死にはしない。死にたい気持ちにはなったが、それまでだ。
あれから2年、俺は今もこうして生きている。
絵を描けなくなったことで、美大受験は諦めた。夢も目標も生きる指針も失い抜け殻のようになった俺に、両親はせめて大学には行ったらどうかと勧めた。そこで絵の他に何かやりたいことを見つけたらどうかと。そんなもの見つからないだろうと確信していた。俺にとって、絵は全てだった。代わりなどない。しかし、いつまでも両親に心配をかけ続けるのも申し訳ないと思い、自分の偏差値でも入れる4年制大学に進学した。
思った通りというか、期待外れと言うか、大学に入っても俺は変わらなかった。入学当初、いくつかのサークルを見て回ったが、どうにもピンとくるものがなかった。美術系のサークルもいくつかあったが、見学もしなかった。あの事故以来、絵を見るのも、絵を描いている人を見るのも、不愉快に感じるようになってしまった。俺が出来ないことを、当然のように出来る彼らの姿に、どす黒い感情が湧き出てくるのだ。醜い嫉妬だ。わかっている。だが、自分ではどうしようもない。
かくして、俺はやりたいことも見つけられないまま、大学生活2年目をダラダラと過ごしている。絵を失った俺の中には、ぽっかりと大きな穴が空いたままだ。
◇ ◇ ◇
「そん……な、こと……、……」
俺の過去を一通り聞いた城戸は、顔から血の気が引いていた。
まあ、聞いて気持ちのいい話ではないだろう。
どうにか沈黙を破ろうと、口を開いた時--。
「ごめんなさい!」
城戸が、俺に向かって深く頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい。私、何も知らずに無神経に……。ただ自分の身勝手な希望を押し付けて、藤平さんを傷付けて……。本当に、本当に、ごめんなさい」
いつもの溌溂とした彼女からは、想像もできないほど、弱弱しい声。
頭を下げているため顔は見えない。しかし、その肩は震えていた。
「頭を上げてくれ。俺はお前を責めたいわけじゃない。最初はまあ、いい印象はなかったけど。お前が俺の作品を真摯に受け止めてくれてた、本当のファンだってことは、この一ケ月でわかったし。ただ純粋に新しい作品を求めていてくれたんだろう? 多少手段が強引だったけど、その思い自体は何も悪いことじゃない。それに、怪我のことを明かさなかったのは俺の意思だ。俺がプライドを守ろうとしたからだから。お前に非はないよ」
努めて優しく声を掛ける。今言った内容は、すべて事実だ。
事故から2年が過ぎた今になっても、『描けない』事実を認めたくなくて、自分の意思で『描かない』のだと。小さなプライドに縋っていた。
それに、初めの頃ならいざ知らず、今の俺には彼女に対する悪感情など微塵もなかった。
俺の言葉を聞いた城戸は、ゆっくりと顔を上げた。涙が滲んだ大きな瞳が、俺の姿を捉える。
「……それでも、私が藤平さんを傷付けたことは事実です。本当に、ごめんなさい」
そう小さく言った城戸はそのまま立ち上がり、うつむきながら「失礼します」と呟き、背を向けて去っていった。
◇ ◇ ◇
あれ以来、城戸は姿を見せなくなった。それまで毎日のように現れていたのに。
まあ、あれだけ重い話をしたのだから、気まずくなるのも当然か。
あの日の帰り際、城戸はかなり憔悴していたようだった。気にしないよう言っても、無理だろう。『藤平潤平』という幼いころからの憧れの人を、無意識とはいえ自分で傷付けてしまったと知った時、彼女の動揺は計り知れない。驕るわけではないが、彼女が語る『藤平潤平』という存在は、本当に大きなものだったのだ。
たった一週間だというのに、彼女がいなくなった日々は、物悲しく感じた。
もう城戸が俺の前に現れることは、恐らくないだろう。あれだけ邪険にしていたというのに、いなくなったら寂しくなるなど、虫のいい話だ。
大学の正門や、行きつけのファミレス、大学最寄り駅や、通学路にあるコンビニ、そしていつもの場所である川辺のベンチ。どこにも城戸はいない。ふとした時に探してしまう。どこからか現れて、「藤平さん!」とうるさいくらいの声で話しかけてくるのではないかと、期待してしまう。そんな自分に、自嘲の笑みがこぼれる。
いつも喫煙休憩所として使っていたはずのベンチでは、もう煙草を吸わなくなっていた。もともと人がいる場所では吸いづらいからここで吸っていたのだが、最近は常にそばに城戸がいたから、吸うのを控えていた。彼女からおすすめされたように棒キャンディを食べる。無論、彼女イチオシのシリーズではない、ごく一般的なメーカーのものだ。煙草を持たなくなってほんの一ケ月程度だが、あの香りや煙が恋しくなることはない。意外と代用が利くんだな、なんてぼんやりと思いながら、川を眺める。この川のせせらぎだけはあの時と変わらない。いや、違う。川も、空も、この場所も、何も変わっていない。変わったのは、俺か。
「藤平さん!」
俺の思考を切り裂くように、元気な声が響いた。
この声の主を、俺は知っている。この一週間、探し求めていた声。
弾かれたように顔を向けると、そこにいたのは、想像通りの人物。
「お久しぶり……でもないですね。こんにちは、藤平さん!」
「……ああ」
前と変わらず、満面の笑みで俺に話しかけてくる。少しうるさいくらいのこの声が心地よい。
城戸は俺の隣まで来ると、眉を下げ申し訳なさそうな顔になった。
「すみません。本当は、もう会わない方がいいって思ったんですけど、諦められなくて。性懲りもなくって思われるかもしれませんが、お願いがあって来たんです」
そう言うと、おもむろに肩に掛けた鞄から一冊のスケッチブックを取り出した。
「藤平さん! 私に、絵を教えてくれませんか?」
「…………は?」
彼女の発言の意図が分からず、俺は差し出されたスケッチブックに首を傾げる。
すると、彼女は少し照れたようにはにかんだ。
「不躾なお願いだとわかっているのですが、どうしても藤平さんとの繋がりを切りたくなくて。思いついたのが、絵だったんです。藤平さんご自身はもう絵を描くことはない、ということはわかっています。恥ずかしながら、先日ようやく理解しました。ならば、私に絵をご教授願えないかと、思いまして……。とんでもなく不躾なお願いだとわかっています。少しでも不愉快に感じれば、一言断っていただけたら諦めますので……」
「…………」
思わず口をぽかんと開けてしまった。
なんとも。すごい思考回路をしているな。
自分で絵を描けなくても、教えることはできるだろう、と。
「…………」
「ほ、本当に、断っていただいて構いません。ですので、せめて、何か言っていただけると……」
「……ふ、は」
「え」
「あっはははははは! なんだよ、それ」
城戸のあまりに予想外な行動に、俺は堪えきれずに爆笑してしまった。
こんなやついるだろうか。図々しいというか、厚かましいというか、自分勝手というか。なのに、何故かまったく腹が立たない。むしろ笑いが止まらない。「俺との繋がりを切りたくない」から、思いついたのがこの提案とは。本当に変な奴だ。
「あーー、笑った。こんなに笑ったの、いつ以来だろ」
「お辛い経験をされた藤平さんを笑顔に出来たのは喜ばしいのですが、何でしょう。とても不本意です。なぜあんなに笑われたのですか」
「いや、お前がおかしな奴だって再認識しただけだから」
「さすがに失礼だと思うのですが!」
「まあまあ、悪い意味じゃないよ。いいから、そのスケッチブック寄こせって」
少し怒り顔の城戸の手から、スケッチブックを抜き取り、中身をパラパラと捲る。
すると――。
「え」
あまりの驚きに、一瞬思考が止まる。これは、つまり、どういうことだ?
「なあ城戸、お前妹か弟の落書き帳、間違えて持ってきたのか?」
「いいえ、それは私のスケッチブックですよ。ちなみに私は一人っ子です」
「……じゃあ、この中に書いてある絵は、全部お前が描いたのか」
「はい、そうです」
………………。
…………。
……。
「素直に言ってください! 下手なんでしょう!? 自分が一番わかっているんですよ!」
「へ、下手とは言ってないだろ。ただ、まあ、なんつーか…………独創的だな」
「あれだけ辛辣だった藤平さんがオブラートに包むなんて、気遣われていることが丸わかりです! 自分に絵の才能がないことぐらい、昔からわかっているんですよ!」
スケッチブックには、独創的な絵が溢れていた。一見、子どもの落書きと見紛うレベル。
まあ、絵は一概にうまい下手で語れるものではないとは思うのだが、うん。これは10人見れば10人が下手だという評価を下すだろう。
「城戸、お前あれだけ俺の作品の技法とか細かく見てくれてたのに……」
「うう……。そうなんですよね。私も昔は思ってたんですよ。藤平さんみたいな素晴らしい絵を描いてみたいって。でも、一向に上達しないんですよね。知識ばかりは増えていくのに。美術の先生にも匙を投げられる始末です。あまりにも才能がなかったので、もう諦めて、見る専門になろうと」
「ああ、なるほど……」
絵は才能がものを言う世界だ。才能がなければ生き残れない。俺は才能に恵まれていたことを自覚している。まあ、結局事故ですべてが水の泡になったが。
城戸は小学生のころから俺の絵を見ていたと言っていたから、その頃から絵の勉強をしていたのだと考えると、結構な年月経っている。あれだけ絵に関する知識が豊富で、絵が大好きなのにここまで上達しない人間もいるのだと、いっそ感心してしまった。ある意味才能だ。
「私も頑張ったんですよ、これでも。でも、頑張ってもどうにもならないんですもん。ネコ描いたら鬼って言われるし、風景画を描いたら幾何学模様って言われるし」などとぶつくさ呟きながら、川辺にしゃがみ込んだ城戸。
なんか、少し可哀想になってきた。別に、絵の技術をあざ笑いたいわけではない。ただ彼女の技量を確認したかっただけなのだが。
苦笑しつつも、小さくなった彼女の背中に声を掛けようとした時。
ざあっ
不意に強い風が吹いた。
城戸の黒髪が風になびき、その拍子に彼女の横顔が見えた。
いつもはしないような、アンニュイな表情。印象的な大きな瞳が細められ、どこか遠くを見ている。
物憂げな表情で、川辺に座り込む少女。
ああ、描いてみたい。
なぜかわからないが、衝動的にそう思った。
この景色を、光景を、自らの手で描いて、一枚の絵に収めたい、と。
その時、思い出した。
事故が起こる前の俺は、確かにこんな風に絵を描いていた。
何かからインスピレーションを受け、すぐにそのアイディアを画用紙に、ノートに、キャンバスに乗せていく。何も難しいことは考えず、ただ描きたいものを、描きたいままに描いていた。
事故の後、思うように描けないことに絶望した。自分はもう絵を描けないのだと。その絶望が、あまりにも大きすぎて、もうそんな気持ちを味わいたくなかった。また絵を描いて、想像と現実の差異を見せつけられるのが、怖かったのだ。
今でも、その恐怖はある。俺はもう、あの頃のようには描けないだろう。
それでも――。
「藤平さん? どうかしましたか?」
「……もう一回、絵、描いてみようかな」
「…………え!? ほ、本当ですか!? 本気ですか!?」
「ああ」
「で、でも、どうして突然? 絵は描かないって……」
「ん。そのつもりだったけどさ。描きたいと思うものが見つかっちゃったから」
そう、俺は描きたいものを描く。
その絵は、かつての俺が描いた作品と比べれば、とても完成度の低いものだろう。
でも、心は変わらない。
描きたいものを描く、ただそれだけ。
世間一般の評価なんて求めない。
ただ、俺と、そして、俺を理解してくれる人の胸に残ればいいのだ。
お題:麻痺 スカート 煙草
最後までお読みいただきありがとうございました!