99粒目『abomination:強い嫌悪、唾棄、嫌悪の対象、忌まわしいこと、 恥ずべきこと、醜態』ストレンジな彼女⑫
『abomination』
―強い嫌悪、唾棄、嫌悪の対象、忌まわしいこと、 恥ずべきこと、醜態。
abominableの名詞版。黒歴史的な物事って、生きてたらありますよね。―
僕は龍成がしていたことの1つ1つを覚えているし、血や悲鳴や苦悶や苦渋や憎悪や哀願や絶望の情景もまた、目にくっきりと焼き付いているけれど、でもそれらは大した問題ではないと思っている。
多分、普通の人にとっては、それらは強い嫌悪を催すものだし、龍成の行動は唾棄すべきものだし、彼を止めなかった僕も批難されるべきなのかもしれない。
でも、自己弁護になるけれど、僕には彼らの絶望よりも、5歳の時の土蔵で、龍成が僕にしてくれた約束を、忠実に果たし続けてくれているという事実の方が、重要だった。
もしくは彼にそう教え込まれていた。
残酷な物事というものは特別ではない。
むしろ、あらゆる残酷によって、世の中は成り立っている。
そう教えてくれたのは龍成だったし、でも一方で犠牲となった人物たちに、罪悪のような意識を抱かずにいられない僕自身もいなめず、一種の板挟みとなっていた。
僕はこの板挟みを解消するのに、とても長い時間がかかった。
血の赤を、裂ける肉の苦痛を楽しめたら良いのに。
楽しめなくても、受け入れることができたら良いのに。
土手の斜面に腰を下ろし、学生服の袖から出た手を生い茂る草の先端につつかれながら、空を見上げる度に、僕は思い続けてきた。
空は5歳の夏のあの日の色に似ていたり、似ていなかったりした。
人工的なほどに青かったり、うっすらと淡かったりした。
雲がはちきれそうなほどに膨らんだり、薄絹みたいに重なったりしていた。
強い風がいくつも吹いたり、吹かなかったりした。
どの時も龍成は僕の隣で誰かを組み敷いて、うめき声をあげさせていた。
「分かったんだけどさ。龍坊。お願いがあるんだ」
「ん? お前から何かを言うとか、珍しいな。それよりこれ、設問2。答えは5だと思うか」
「ああ。それは積分でCを求めるやつだね。うん。ええと。5だよ」
「だよなあ。5だと思ったんだ。解答のパターンから、要領ってのがつかめてきたぜ。俺はセンターまでなら大丈夫だな」
龍成は得意げに笑った。
僕は肩をすくめる。
「二次の記述、どうするのさ」
「筆記のねえ大学に行く。俺は調べたんだぜ。結構ある」
ふんと鼻を鳴らす龍成に、僕は驚いた。
問題集から顔をあげて、目を大きく開いた。
「龍坊。君。僕と違う大学に、行くのかい?」
「啓坊。お前は頭良いだろ。高校を俺に合わせてくれたんだ。オヤジももったいねえって言ってたからな」
テーブルの向こうで腕を組み、うんうんと頷く龍成に、僕は自分を恥じた。
確かに僕は龍成と同じ高校を受けた。
偏差値のとても低い高校で、でもそれが義務だと思っていた。
大学に行きたいと言い出した龍成に呆れながらも、でも共に進むのが運命だともあきらめていた。
そう。あきらめることと、龍成と一緒にいることを、同義にしていた。
だから僕は龍成に何も言えず、そんな僕に龍成は傲慢に笑った。
「てめえの、鳩に豆鉄砲って顔。面白いぜ。いっつも仏頂面だもんなあ。啓坊。てめえは」
「顔がこういう作りなんだよ。でも、そうかあ。うーん。でも、ちょっと考えさせてくれるかな。整理がつかない」
「あ? 整理も何もないだろ? てめえは良い大学に行く。オヤジも喜ぶ。俺は好きにやる」
「え? 好きにやるって。ええと。かなり好き勝手……」
言いかけて、僕は口をつぐんだ。
龍成は、あらゆる残虐を僕の前で行ってきたけれど。
それは、僕の前でという条件がついていた。
1人ならもっと自由にできたかもしれない。逃走のルート、口封じ、全部、僕にるいが及ばないように、考えてくれていたのかもしれない。いや、そうだ。
龍成1人なら、もっと悲惨なことを、もっと大胆にできていた。
「ああ。分かったよ。僕は勘違いしていた。いや。でもやっぱり、君の隣にいれないのは寂しいな」
「だよな。啓坊。てめえは言うと思ったぜ。実は俺もだ!!!!」
龍成は笑った。曇りのない真夏の空に満ちる光みたいな、純粋な笑顔だった。
この会話の後、僕は龍成にお願いをした。
残酷を行うのは、今さらかまわないけれど、でも本人に確認を取ってほしい。
確認というより、交渉を行ってほしい。
何かの条件を持ち掛けて、本人が受け入れるなら危害は加えないでほしい。
この条件については、何でも構わない。
恋人と別れろでも、明日から糖質は取るな、でも構わない。
何かの意地を張って、結果龍成の条件を拒むなら、何をしてもかまわない。
龍成は了承してくれて、その後しばらく腕を組んで考えてから、大きくうなずいた。
「ああ。そうか。そうだよな。啓坊。てめえは5歳の時によお。親御さん相手に意地を張った。結果が事故だもんなあ。つまり、啓坊。てめえはあの日のてめえを、まだ憎んでるってことだな。気に入ったぜ。その考え方」
龍成は大きく笑った。
僕は目を伏せた。醜悪な感情を見透かされたと思ったからだ。
彼の指摘はその通りで、僕は僕を憎んでいた。でも、憎みきれずにいた。
言う事をきくべき相手に反抗し、取り返しのつかない結果を招く。
そんな僕は消えた方がいい。でも、そうすると龍成や寿村さんが悲しむ。
だから、僕の代わりに、5歳の時のあの日と同じくらいに、愚かな人間を憎む。
龍成の凶暴を許す。それで、全部の折り合いがつく。
でも、これは八つ当たりだ。罰せられるべきは僕だ。そのことに目をつむり、龍成と寿村さんに依存する僕は、とても卑怯な偽善者だ。
この偽善も含めて、龍成は気に入った、と言ってくれた。
僕は安心した。もう、彼がどこで誰を相手に何をしても、気に留めなくてすむ。
……という考えが愚かだったと知るのは、大学に進学してから2回目の秋。
とても空が高い、春のような陽気のある日のことだった。