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96粒目『abominably: 言語道断に、ひどく、いやに』ストレンジな彼女⑨

『abominably』


―言語道断に、ひどく、いやに。


abominable忌むべき、の副詞版。―


 その日、僕は寿村さんの厳しさを知った。

 言いかえると、揺るぎのない方向性。

 もちろん、見かけの優しさや、しなやかさが世の中ではもてはやされる。

 けれど、実際の物事を解決するのは、厳しさだと、僕は寿村さんから学んだ。


 ハゲを僕にけしかけたせいで、ハゲは滅多打ちにされ、龍成は首を締めあげられた。

 滅多打ちにしたのも締め上げたのも寿村さんで、やめて、という僕の言葉に涙ぐんでくれたのも、やはり同じ寿村さんだった。彼は短い時間にいくつもの面を示したし、僕は困惑したけれど、でも、この時に確かな何かが育っていたのも事実だった。


 その何かを言葉にすると、信頼になると思う。他にも多様な感情が、僕の中の寿村さんの印象に色を落とすけれど、でも主成分は、信頼で間違いがない。

 寿村さんは情に厚く、そして厳しい。沢山の事を考えて、あらゆる事情をくみ上げ、そして冷静な判断を下す。彼のそういう姿勢は、優柔不断とは真逆で、安定している。

 そして、人は不安定なものには寄りかかることができないし、ゆるい地盤の土地に家を建てることはできない。

 でも、多分、浮ついた何かしか見たことがない人は、誰をどう信頼すれば良いのか、分からないのだろうな。大人になった僕は、仕事柄、そんな人間をよく扱う。そして、彼らと僕の違いを考えて、結局寿村さんに会えたかどうか、縁が人間を作ると、結論付ける。


 その日、寿村さんは僕を抱きしめてくれて、そして鼻にかかったような声で喜んでくれた。

 それから、龍成をぎろりと睨んで、圧倒した。


「龍成。てめえがしでかしたことはなあ。俺の責任だ。もちろんハゲが啓坊を襲ったのも、俺に責任がある。俺が飼い主だからな。だから、俺はしつけなきゃなんねえ」

 しつける、の主語が分からなかった僕はきょとんとしていたと思う。

 龍成の顔はまだ赤かった。金魚みたいに目を大きくして、口をぱくぱくさせていた。

 首を締め上げられた時に、本当に苦しかったんだろう。

 ツキノワグマみたいな形の白い弧が、龍成の首元にできていて、彼はそれを押さえていた。

 寿村さんはそんな彼を、灰色がかった瞳で見下ろした。 


「まずは、手っ取り早い方からしつける。てめえの仕置きは後だ」

 寿村さんの声は冷徹で、どすが効いた低さで、僕の背の皮膚は粟立ったけれど、龍成は仕置きが後、ということに安心したらしい。

 赤い顔をしたまま、逆立つ眉を八の字にして、馬鹿にした笑いを浮かべた。

 瞬間、寿村さんの裏拳が少年の顔面を直撃。

 龍成は吹き飛んだ。

 僕は鶏みたいな悲鳴を上げた。


 でも、寿村さんは、龍成にも僕にも構わずに、ただ、もったいねえ、とつぶやきながら、地面にしゃがみこんだ。そうして、ごつごつとした太い指で、土の上に散らばったドッグフードの粒を拾って回った。

 そしてそれらを僕の手に戻した。


「啓坊。これは手間だがな。ちゃんとしめしとかねえと、駄目だ」

 僕にしゃがみこんで目線を合わせてくれる寿村さん。

 その声はやっぱり低い。僕はおそろしいものを感じた。

 が、でも寿村さんの両手は僕の手を両手のひらでつつんでいて、その手のひらの感覚に、僕は安心を感じていた。寿村さんのまなざしが宿す光が、とても深く穏やかだったのも関係していたのかもしれない。

 もちろん、逆らうことを許さない(いわお)のようなものが、寿村さんの言動にはあった。

 でも、それ以上に、僕は寿村さんが望むことを、してあげたくなった。

 

 だから僕はこくんとうなずき、寿村さんは僕に視線を据えたまま、左手で僕の手をつかんだ。

 そのまま右手をハゲの首輪に伸ばし、つかみ、持ち上げる。

 そうして、僕の手とハゲの面を引き寄せる。

 僕は悲鳴をあげかける。この事実に僕は驚く。つい先ほどまでは、悲鳴すら、被膜がふさいでいたのに。見えなかった何かが消滅している。


「啓坊。大丈夫だ。手を開いてやれ」

 寿村さんの声が響き、僕は泣きそうになる。

 だって、手を開いたら、指が、ハゲの牙にさらされる。

 僕の指は5本とも、ハゲに食いちぎられてしまう。

 惨劇は、まだ起きたわけでもないのに、僕の全部の指が痛みを覚える。

 地面に散らばる指と鮮血の幻覚。


 ……それでも僕は指を開いた。

 ハゲにドッグフードを差し出す形だ。

 ハゲの息は荒かった。舌を出し耳をピンととがらせ、尻尾を垂れていた。

 瞳は相変わらずの冷たい灰色で、その灰色がふたたび僕を見据えた。

 

 寿村さんが無言でハゲの首輪を放した。

 ハゲの上下の顎をがばりと開く。

 そして僕は叫ぶ。

 寿村さんの拳がハゲの横っ(つら)を殴り飛ばす。


 全部が同時に起きたように思える。

 少なくとも、僕は前後の差が分からなかった。


「すまねえな。啓坊。やり直しだ。付き合ってくれ」

 すまねえ、という言葉には真実味があった。

 でも、 寿村さんの言葉には有無を言わせない響きがあって、そして巌のような確信もあったために、僕は嫌とは言えなかった。

 だまってこくんと首を縦にふる僕に、寿村さんはうなずく。


「手を動かさないでくれ」

 言いつけの通り、僕は手のひらを動かさない。

 そう。僕が腐心するのはそれだけだ。慌てず、騒がず、泣かないで、ただひたすら、ハゲにドッグフードを差し出し続ける。

 ハゲは起き上がっては、そんな僕に上下の顎をがばりと開いて、飛びかかろうとする。

 寿村さんは殴り飛ばす。


 これを繰り返していた。

 冬の空に鳥が鳴いて、鳴き声は庭木の高いところで、 冷たい風と陽光に溶ける。

 犬小屋の横の日本庭園には、真ん中に大きな池があり、水底に光がじぐざぐの筋を作りながら揺れている。鯉がその上を静かに泳いでいる。


 冬の風は冷たいけれど、庭園は穏やかで鯉は悠々としている。

 ただ、ハゲのぎゃいんという声は悲惨で、でもそれがひたすら繰り返されると、ししおどしの一部のように感じてしまう。

 何というか、ハゲが僕を襲うのは自然の摂理で、寿村さんがそんなハゲを殴り飛ばすのも、やはり至極当然なんじゃないか。などと、思ってしまう。

 だって、寿村さんは脇見をしない。彼は僕だけを、じっと見守ってくれていて、拳の暴力だけが、自動的に継続されるのだ。何かが薄れていくのを感じる。その何かというのは、子供の時は分からなかった。

 けれど、今なら分かる。それは、恐怖と拒絶。僕は、繰り返されるハゲの悲鳴から、悲鳴というものに適応を始めていた。


 でも、拳の暴力は、そこまで長くは続かなかった。多分、時間にして30分もかからなかったと思う。

 冬の大気にさらす僕の指が白く痛くなった頃合いで、ハゲはとうとう、攻撃の意志を放棄した。

 彼はまじまじと僕の手のひらを眺めた後、黒い鼻先でくんくんと匂いをかいだ。

 それから赤い舌がハゲの牙の隙間から伸びて、すくうようにドッグフードを舐め取った。

 ハゲの舌はざらりとしていて、手のひらを舐められても、くすぐったくはなかった。

 ただ、僕はほっとした。安堵。とても大きな安心感。


 寿村さんはハゲを、よくやったな、と褒め、赤く肌が出たハゲの頭頂部を、両手でもんだ。

 ふと、施設から引き取られた日のことを思い出す。

 寿村さんは、黒くくてごつごつとした外国車の中で、僕に顔を近づけて、僕の髪をくしゃくしゃにして、ほっぺたや、耳たぶをもんできた。

 あれは多分寿村さんなりの愛情表現で、だから僕も安心した。

 今、ハゲも同じ感じだろうな、と思った。


 ハゲは僕に対する正解を学習したし、そのことを寿村さんに褒められている。

 垂れていた尻尾が、魔法仕掛けの(ほうき)みたいに左右に動いている。

 そんなハゲと、満面の笑みの(しわ)を深くする寿村さんを見比べながら、僕はとてもびっくりした。


 ハゲが全然怖くない。あれだけ不吉だったのに。

 のしかかられ、殺されかけたのに怖くない。

 むしろ同族意識のようなものを感じる。

 でも寿村さんを信頼している、ということでのみ成り立つ部族。

 ちらりと龍成に視線を走らせると、目があった。

 彼は無言で肩をすくめた。

 その仕草は大人みたいだった。彼はこの邸宅で、つまり寿村さんの元で育ったから、つまりこういうことは日常茶飯事なのかもしれない。

 僕は驚いて、そして、漠然と恐れた。

 

 龍成は、僕が彼を恐れたと、勘違いをしたのかもしれない。

 僕に勝ち誇るような、傲慢な笑顔を向けてきた。


 でも、そもそも勝敗の問題ではない。

 ハゲを僕に向けてけしかけたのは、やっぱりとんでもないことで、発見が遅れれば僕は死んでいた。

 寿村さんはこの事をとても重くみたので、龍成の折檻(せっかん)は夜遅くまで行われた。

 

 でも、なんだかんだで、寿村さんは龍成が可愛いのだと思う。

 組員のお兄さんたちが受けたのと比べれば、まだ折檻の壮絶加誠に手心が見受けられたからだ。

 いや、そもそも何故お兄さんたちが折檻をされたのだろう。

 ハゲを僕にけしかけたのは龍成だった。

 お兄さんたちは、僕と龍成から目を離しただけだ。

 でも、離すべきではなかった。寿村さんの言いつけを、信頼を彼らは裏切った。

 そんな理由で、彼らは激しい暴力にさらされて、本当に可哀そうなくらいに泣きながら、僕と龍成とハゲに土下座をした。

 指の1本や2本は詰めることになってもおかしくはない事態だったと、後日、お兄さんたちは教えてくれた。

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