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95粒目『abominable:いとうべき、忌まわしい、言語道断な、実にいやな、不快な、ひどい』ストレンジな彼女⑧

『abominable』


―忌むべき、いとうべき、忌まわしい、言語道断な、実にいやな、不快な、ひどい。


ab離れて+ominous不吉な、気味の悪い、で不吉で気味が悪いから距離を取るべき、つまり忌むべき、となった。ちなみにominousはomenが変化したもので、omenは前兆、予言、予感。嵐の前の静けさとか、津波の前の異常な引き潮とかに悪いものを感じるときは……迷わず避難しましょう。不吉を感じる感覚は、生物としての防衛本能です。―


 12月のその日まで、龍成の僕への態度は、可もなく不可もなく、敵対も迎合もなく。

 気まぐれに話しかけてくれる時もあれば、完全にいないものとして扱ってくれる時もあった。

 龍成は僕と同い年で、翌年に小学校の入学を控えていた。

 寿村さんには寿村さんの教育方針があった。7割はしのげ。後の3割は好きにしろ。

 明解だと思う。優等生になるなら9割以上を目指すべきだし、勉強そのものに意味がないなら何もしなくても良い。でも、最低限の読み書きは生きる上で重要だから、7割。

 でも、実際の物事もそうだけど、実は7割から先が難しい。

 つまり、0点を70点にするのと、70点を100点にするのでは、100点にする方が労力がかかる。

 龍成は、どちらかというと、100点にする勉強を馬鹿にすることを好んだ。


 勉強といった種類の物事を毛嫌いしていたけれど、これは何かを強制されることが嫌だったという、それだけの話だと思うし、理解力は誰よりもあった。ただ、どうしようもなく飽き性だった。

 時計の読み方、文字の書き取り、九九の計算などを説明するドリルの前に座らせられて、5分で鉛筆を放り出してしまう。

 そんな龍成だったけれど、問題はかなり速く解いていた。特に〇×問題が速くて、彼は問題文をろくに見ていなかった。ただ、〇か×かだけに勘を絞って、答えを乱雑に記入。そして正答率は9割を超えていた。〇か×かの丁半ばくちに、彼は勝ち続けていた。


 そんな彼に、僕はいつも息を飲んでいた。

 すげえだろ、啓坊、俺はお前より速く解いたぜ、と笑う龍成に、僕は何も言えなかった。これは驚いて感服した、という意味もあるけれど、物理的に声を出せなかったのもある。

 でも、何かは伝えたかったので、頭を何度も縦に振って、頷いたりしていた。

 龍成は、ふふんと鼻高々で、僕はそんな彼に、好かれてはいないまでも、嫌われてもいないのだろう、と思っていた。だって、いつもはす向かいのテーブルで勉強していたし。言葉を話せない僕に、龍成はよく話しかけてくれたし。朝昼晩の三食を一緒に食べたし、洗い物だって一緒にしたし。


 ちなみに、勉強を教えてくれたのは、若い組員だった。

 組員にも色々な人たちがいて、年齢もまちまち。

 大学出の英才から、暴走族上がりの強面(こわもて)まで、多種多様な人たちが、寿村さんをオヤジと呼んで慕っていた。共通点は彫り物。組員たちのシャツの裾からは、常に彫り物がのぞいていて、シャツを脱いで半裸になると、青黒い龍や天女や鬼や仏が現れる。


 彫り物には禍々しい迫力があったけれど、でも組員の人たちは礼儀正しく丁寧で、だから今でも、彼らに悪い印象はない。もちろん世間的な偏見、忌避感情もない。まあ、彼らが礼儀正しかったのは、寿村さんが組長で、邸宅が組長宅だというのが大きかったのかもしれない。


 寿村さんは奥さんを数年前に亡くしていた。

 彼は後妻を迎えることもなく、だから龍成は母親というものをほとんど知らない。

 けれど、彼にとって、そのことに問題はなかったと思う。組員たちは龍成を、年の離れた弟か、または自分の子供のように可愛がっていた。

 そこにやってきたのが僕であり、しかも僕は組の抗争の被害者で、さらには発語の問題を抱えていた。だから色々な意味で、組員たちの僕に対する印象は複雑になった。


 これを龍成がどう思ったのか、僕には分からない。

 彼が12月に起こした事件に、この複雑が関係していたのかどうかも、やっぱり分からない。

 分かっているのは、龍成が好奇心がおもむくままに行動したということ。それだけだ。


 その大型犬は、ハゲと呼ばれていた

 邸宅の庭の大部分を占める、鯉が泳ぐ池の隣に、ハゲの犬小屋があった。

 この犬小屋はガレージのような大きさで、洞穴みたいな暗い入口から、ハゲは赤褐色の上半身と前脚を出していた。それにしても、ハゲは酷い名前だと思う。けど、当意即妙でもある。


 名前の通りに、ハゲの頭頂部には地肌が赤くのぞいていた。

 この大型犬は、首が馬みたいに長くて太かった。

 顔面はこの巨大な首にめり込んでいて、まるでマフラーで喉元を隠したみたいな印象だった。

 そしてどんな獲物でもその顎でかみ砕くことができた。

 実際、龍成はハゲによく、足を折ったネズミや鶏やカラスを与えては、口元を牙で赤く染めるハゲを見て、けらけらと笑っていた。

 でも、どんなに笑われても、ハゲの瞳は冷たく静かなままだった。

 それは獲物が置かれた瞬間すら。

 ハゲの細い灰色の瞳は興奮することはなく、ただ前脚が素早く動いて、 制圧する。

 裂けるように開かれた口からたくさんの牙が不吉にのぞいて、一本一本がつやつやとしていて、先の方からよだれも垂れる。

 そうして獲物を血と骨の塊にする。

 

 龍成は、まあ僕も含めてだけど、この犬の手綱(たづな)を持つことを禁止されていた。

 未就学児が制御するには、ハゲは強靭過ぎた。

 だから散歩は若手の組員がしたし、龍成はその組員の後についていく形で、よく出かけていた。

 ハゲはそんな籠成をちゃんと味方として認識していたのだと思う。

 でも僕については、違った。僕はハゲの家族ではないし、味方でもないし、飼い主でもなかった。

 日常に紛れ込んできた生き物。あの犬の中で、僕はそれ以上でも以下でもなかったのだと思う。

 だから、あの日……。


 12月の風が冷たく強かったあの日。

 晴れた空の青の下で、自由になったハゲは、まず龍成を見た。

 鎖を解いたのは龍成だった。

 組員たちの目は離れていた。というのも、前日に大規模な大騒ぎ、おそらく抗争の(たぐい)の何かが起こり、組員たちは疲れていた。しかも後処理で忙しかった。

 一方で安堵の気配もあった。


 龍成はそんな彼らの目を盗んで、僕の手を引きハゲの小屋まで連れていった。

「ここに立っていろよ」

 と、彼は僕の耳元にささやき、手に大豆の粒のような灰色のざらざらした物体をいくつも握らせた。


「ドッグフードだ。啓坊。お前も家族なんだからさ。そろそろ、ハゲに餌くらいやっても良いだろう?」

 龍成の声には強い何かがにじんでいた。

 歓喜と興奮。

 ヒーローショーで開演を待つ子供のような、強い期待。

 僕は戸惑う。寿村さんからも、他の組員たちからも、犬小屋には近づくなと言われている。

 でも龍成はとても喜んで、期待している。


 そして、ハゲは感情のない瞳でこちらを値踏みしてくる。

 僕は何かを言おうとした。

 でも、やっぱり口が酸欠の金魚みたいにパクパクと動いただけで、何も言えなかった。

 そもそも、適切な言葉が全く浮かばなかった。


 龍成はそんな僕ににっこりと笑いかけ、くるりとこちらに背を向けて、ハゲの前まで歩いた。

 ハゲの鎖の端の輪は鉄の棒にかかっていて、それは輪投げみたいで、龍成はその輪にしゃがみ込み、両手で持ち上げて、地面に落とした。


 ハゲの顔面が飛んできた。

 一瞬だった。僕は押し倒され、2つの前脚は僕の両肩を制圧した。

 蒸気のこもった息が、荒く僕の顔にかかる。よだれも。生臭い獣の臭いに、薄く血が混じっている。

 ドッグフードの粒は地面に散らばっている。無造作に。無感情に。

 ハゲは目もくれない。冷たく静かで不吉な瞳は、僕を見据えている。

 黒い鼻から不快な汁を垂らし、口は裂けて、牙の列と舌が覗いている。

 僕は制圧されながら、必死にその首を押しのけることしかできない。

 

 それは必死の抵抗で、でも続かないのは分かっていた。

 龍成はそんな僕とハゲを見ながら、けらけらと笑っていた。

 僕の両手を押しのけるように、割り込むように迫りくるハゲの顔面の向こうの青空に、笑い声はやけに清冽に響いていた。


「でべえええええええええっ!!!!!!!!!」

 寿村さんの咆哮に、鼓膜が潰されるかと錯覚した次の瞬間。

 ハゲは吹き飛んでいた。

 気が違ったみたいに、寿村さんはハゲ相手にわめき続け、その顔面を、胴体を蹴り続ける。

 紺色の着流しの裾から出た足は鬼のそれのように太く毛深い。

 寿村さんはハゲに罵倒を続け、背の低い庭木の幹に興奮のまますがりついてミシミシと折り、武器にしてハゲを滅多打ちにする。


 ハゲはたまらず、きゃいんきゃいんと、まるで子犬みたいな高い声で、寿村さんに哀願を示す。

 が、暴力は収まらない。


 僕はびっくりした。

 この時、寿村さんと一緒に駆け付けたのだろう組員が、僕を後ろから抱えて、大丈夫ですか、大丈夫ですか、と言ってくるが、もちろん返事はできなかった。

 目はハゲを殴打する寿村さんに釘付けで、それは龍成も同じだった。

 最終的に、仰向けで蛙みたいに降参のポーズを取って泡を吹いたハゲを下駄の先で一度蹴り上げてから、寿村さんは龍成に向き直り、重たい音を響かせながら、歩み寄る。


「笑ってやがったな。龍坊。でめえぶわっ……!!!!!」

 龍成は何かを言おうとした。瞳に困惑と媚びと甘えと確信があった。

 けれど、寿村さんは言語道断という勢いで、息子の首にその分厚い手を伸ばす。

 庭木の幹を折ったのと同じ手が、龍成の喉輪をとらえる。

 寿村さんの片手は、龍成をそのまま空中に引き上げる。


 冷たい冬の風が、龍成の髪と、寿村さんの白髪まじりの髪を揺らす。

 そう。風は冷たかった。でも龍成の顔は、真夏みたいに真っ赤だった。

 その両手は寿村さんの手をひっかいて、足は空中でばたばたとしていた。

 僕は僕を思い出した。夏の日に、ばたばたと足や手を振り回し、父と母に抵抗をした、僕。

 あの日の愚かしい僕。そんな僕が、今、目の前で死にかけている。


「やめて」

 寿村さんの着流しの裾をつかんだのと、声が出たのは同時だった。

 声は確かに僕の喉から出た。

 その声は冬の風にかすれて溶けたけれど、はっきりと寿村さんの耳に届いた。

 寿村さんは我に返り、その手は龍成を放した。

 龍成は地面に両足から落ち、膝が効かずに尻もちをついた。

 げほげほとせき込みながら、でも瞳は大きく開いて、僕を見ていた。


「啓坊、声が出せるのかぁ」

 僕にしゃがみ込む寿村さんの声の端が、わなわなと震えていた。

 ひどい死地をくぐり抜けてきた息子を抱きしめるみたいに、寿村さんは僕を、こんな僕を抱きしめてくれた。

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