94粒目『Abomb:原子爆弾、原爆』ストレンジな彼女⑦
『Abomb』
―原子爆弾、原爆。
Atomic原子の+bomb爆弾、で原子爆弾。ちなみにアメリカでは鉄腕アトムはastro boy宇宙少年となってます。―
あまり覚えていないけれど、僕は夏の事故の後、秋の初めまで入院をしていた。
小児病棟ではずっと、言葉を話すことを求められていた。
けれど、顎の筋肉を弛緩させて口を開くとか、そんなことはできるのに、舌は問題なく動くし喉は栄養物を嚥下するのに、声だけが出せなかった。
そうなって初めて、5歳の僕は思い知らされた。
言葉を話すという動作は、とても精巧で緻密なのだと。
その複雑な回路のどこが壊れても、声はちゃんと出ない。
そして、僕のどこかは事故で壊れていた。
でも脳には異常はなかったそうだから、つまりこれは精神的な問題だ。
そして解決の糸口はつかめなかった。というよりも、つかんでくれる両親は事故で死亡していた。
僕には祖父母や叔母といった血縁が全くないことが、この入院時期に判明した。
それでも失語症以外に問題もないので、僕は退院することになった。
といっても行き場がないので、僕は養護施設に引き取られた。
けど、僕はそこの生活環境になじむことができなかった。
透き通った何かがみたいに僕の表面で絶えず動いていて、言葉を話そうとすると、それはぶ厚い壁になって喉をふさいでくる。
共同作業をしていた男の子たちも、不思議な空洞でも覗き込むような眼で僕を見てくる。
養護施設の集団になじむことは、 結局最後までできなかったけれど、それでも僕はどこかで生活に満足していた。父や母を過剰に思い出すことはなかった。養護施設では色々な作業が子供たちに割り振られていて、僕にも当番が割り当てられた。
処理されるべきは、洗浄されるべき食器、拭いさられるべき床の汚れ、等等。
職員の指示は即物的で、だから理解は難しいものではなく、僕は延々と作業を続けた。1人でできる単純作業というものが、一種のセラピーだったのかもしれない。
その意味では、僕は職員たちに感謝をするべきだろう。
でも彼らとの間に、いくつかの行き違いが生じたのは残念だった。
原因は施設の先輩の男の子たちが暴れて、または子供らしい悪戯をして、そしてその度に責任を僕に押し付けたというものだったけれど、困惑した職員たちは、僕を反省部屋という懲罰室に閉じ込めた。
そこは真っ暗で、僕の内部でよく分からない何かが便意みたいに発生し、でも肛門に下ることはなく胸にせり上がって内臓のすき間をのたうち回るという、一種の恐状態に僕を陥らせるものがあったので、今でも暗く閉ざされた部屋は苦手だ。
でも、僕がどんなに手や足をばたつかせ、暗闇の中で目をむいて芋虫のように違いまわっても、職員たちは規定の時間が経過するまで、反省部屋の鍵を解くことはなかった。
鍵は外側からしか開かないものだったし、電気のスィッチも外にあったから、一度閉じ込められると、そこは完全に隔絶した空間になった。
ドアは頑健で強固で、僕の印象では、原子爆弾がそこで爆発しても、びくともしない。
無慈悲で、だからこそ懲罰としての効果は満点だった。
いや、でも違うのかな。たまたま、僕が声を出せなかったから、職員に届かなかったというだけなのかな。たまたま僕と懲罰室の相性が最悪で、だからこそ懲罰室は無慈悲の空間だったのかもしれない。実際、他の子がその部屋に入れられても、ひとしきり泣きさけべば、その子は30分もせずに解放されていたし。僕の場合は3時間超えがざらだった。
うん。やっぱり虐待の類じゃないかな。あれは。
でも、身寄りのない僕を受け入れてくれたのはあの施設だったし、だから恨むつもりもない。
それに、もうあそこはずっと前に廃園になっている。
全部が何十年も前の話だ。現在はそんな施設はないのだろうと思う。
だって、世の中はましになったし、情報は公開されるようになった。
でも、大人になった僕は、色々な物事を経て、高級派遣業という社会の膿を扱う仕事についている。こういう業務で利益を出し続ける僕は、つまりあの暗闇が似合っているのだとも思う。
施設には秋の終わりまでいた。
ある日、寿村さんが僕を迎えに来た。
幅のある、無骨な黒塗りの外国車に寿村さんは僕を押し込んで、
「面倒なことは全部済ませた。啓坊、今日からお前は俺の息子だ」
と宣言。
それから僕の頭をくしゃくしゃにして、耳たぶや頬ももんできて、じっと黒く大きな、鷹みたいな目で僕を覗き込んできた。
「ああ。あんなことに遭わせちまったんだからなあ。固まって当然だ。大丈夫だ。啓坊、お前はもう何も心配しなくていい」
寿村さんの声の低さは腹の底に響く種類のもので、でも涙声になると、つんと高く頼りなくなる。
僕は、はい、とか、うん、とか言って、彼を安心させてあげたくなった。
が、結局何も言い出せなかった。喉が固まって時間がたち過ぎていた。
だから、僕は声を出す代わりに、寿村さんの顔面を見上げ続けた。
天を衝く太い眉毛に、頑健な鷲みたいな鼻。鼻を中心に深くきざまれた皺たち。黒目も白日もだるまみたいに大きな瞳。
野生の虎のような迫力は、多分泣く子も黙らせる種類のものだと思う。
でも、僕は寿村さんの瞳に安心した。
彼の瞳の中では、僕が揺れ続けていた。ぽかんとした顔をして、車体の振動に何の抵抗も示していなかった。それでも、そこには生きている小さな人間がいた。
養護施設の懲罰室の暗闇でのたうち回るのとは逆の性質の生き物がいた。
僕は、寿村さんを通して、自分を回復したのだと思う。または、回復の端緒を引き寄せた。
そしてこの経験は、大人になった現在でも、僕の中で核のようなものになっている。
核というよりも、存在意義かな。アイデンティティのようなものかもしれない。
突き詰めていくと正しい言葉にできそうだけど、でもそんな気にはなれない。
言葉というものは、何かを説明するには便利だ。けど、でも説明された瞬間、その物事からは、何か真実のようなものが失われてしまう。この考え方が正しいかわからないけれど、少なくとも、僕はそう感じている。そういう意味でも、僕にとって龍成は快適な男だった。
彼は言葉ではなく、笑顔と暴力で世界と渡り合う種類の人間だった。
……龍成とは寿村さんの屋敷で出会った。
寿村さんと僕を乗せた車が屋敷の車止めに乗りつけると、大柄な男の子が駆けてきた。
黒髪がおでこの上に跳ね上がって、寿村さんと同じ形の眉が天をついていた。
子供用の黒パーカーにベージュのチノパン。目には光があった。無邪気さとか好奇心で構成された強い瞳。僕や、僕が放り込まれていた施設の子供たちには縁のない輝き。
「おう。龍坊。こいつが鬼川啓一だ。今日から俺たちの家族だからな。啓坊って呼んで仲良くしてやれ」
「分かった!! 啓坊、俺は龍成。龍坊って呼んでくれ」
歯を見せて龍成はにかりと笑った。前歯の横の歯が一本欠けて、赤黒い空洞ができていた。
僕は何か返事をしたかったけど、やっぱり喉が固まってしまう。言葉が出てこない。
「あれ。こいつ変だよ。親父」
「変とか言うんじゃねえ!! 子分がやらかしちまったんだ。変でも何でも、こいつは家族だ」
言うんじゃねえ!! で寿村さんの拳骨が龍成の頬に飛んだ。
僕は寿村さんの行動にびっくりしたけど、でも龍成は堂々と寿村さんにむくれて、くるりとこちらに背を向けて、 御影石の上を飛ぶように駆け去ってしまった。
「誰に似たんだか。やぶれかぶれなきらいがあるがな。それでも大事な息子だ。跡目は奴に譲ると決めている。啓坊。お前も俺の家族だ。家族同士、 龍坊とは仲良くしてやってくれ」
こちらにしゃがみこんで、目線を合わせてそんなことを言ってくれる寿村さんに、僕は何も言えなかった。この時、僕は途方に暮れた。
返事をしたいのにできない。言葉は喉までせり上がっているのに、透明な被膜は頑固に僕を覆っていて、僕を家族と言ってくれるこの人との、会話を阻害してくる。この阻害はいつまで続くのだろう?
半年? 一年? 一生?
実際はそこまでかからなかった。
寿村さんの邸宅に引き取られてからおよそ2か月後。
冬の初めのある晴れた日に、僕は言葉を話せるようになった。
きっかけは龍成だった。
彼は、邸宅で飼われていた獰猛な大型犬の鎖を解いて、僕にけしかけ、襲わせた。