93粒目『abolitionism:廃止論』ストレンジな彼女⑥
『abolitionism』
―廃止論。
abolition廃止+ism論、主義で廃止論。死刑制度など。―
父はその日、黒地をアルファベットの羅列で白く染め抜いたTシャツに、インディゴブルーのジーンズといういでたちだった。アルファベットは筆を垂らしたような文字で、同じ文字列がプリントされたバッグを母を持っていたから、何かのブランドだったのかもしれない。
僕は遊園地を、母に手を引かれて回ったのだが、父は僕と母の数歩先を常に歩いていた。
時折人込みに紛れても、背が大分高いものだから、炎天下でも乱れのない黒髪を、僕と母はいつでも見つけることができた。
耳の出たショートカットの母は花柄のブラウスに紺のスカートという感じで、それにこげ茶色のリュックを背負っていた。リュックに例のバッグ。
一方、父は父でお揃いの色のリュックを背負っていたし、カメラも抱えていた。
もう片方の手にはガイドブック。彼は淡々と、顎や腕を汗でてからせながら歩いていたが、どうにも人込みの対流が激しく、結局カメラをリュックにしまって、僕の右手を取った。
左手は母がつかんでいたから、僕ははさまれる形になり、ふと、何かを独占したような、そんな気持ちになった。あの時、僕は笑ったのか叫んだのか、分からない。
けれどとても嬉しくて、そして頭の芯がぼうっとした。はげしすぎる陽にあてられていたのかもしれない。
父の手は分厚く、節がごつごつとして、毛がたくさん生えていて、その毛は腕まで伸びていた。
腕毛は青空や、遊園地を満たすのと同じ光を吸い込んで、きらきらと輝いていた。
母の手もじっとりと汗ばんで、母親の匂いが手や腕からして、やっぱり産毛が輝いていた。
多分、幸福というのはああいう時間をさすのだろう。
父はガイドブックとアトラクションの巨大しか見ていなくても。
母は人込みの隙間に着ぐるみしか探していなくても。
それでも僕はブランコで勢いよく空に接したような、そんな高揚を覚えた。
だからだろうか。
絶え間ない音楽の中で着ぐるみに挨拶をされ、アマゾンを回遊する船でワニに怯え、メリーゴーランドで母に守られながら世界の上下に酩酊のようなものを感じたのを、僕ははっきりと覚えている。
けれど、それよりも父母の手の感覚の方が、現在の僕にくっきりとした輪郭を残している。
もちろん、彼らの表情も。
僕は着ぐるみのうねるような動きや巨大な顔よりも、着ぐるみに全身ではしゃぐ母の表情を、目の端で注意していた。
他もそんな感じで、でも多くの子供というものは、そういうものかもしれない。
遊園地というものはそういうものだし、特にあの千葉の遊園地は、子供にそんな、家族との幸福な時間を植え付けるという機能にかけて、日本で随一と言われる場所だったから、それは変哲のない一日だったのかもしれない。
けれど太陽は輝きながら、世界を蒸し焼きにしながら西に向かい、そして空は白くなった。
園にいくつもの灯りがともり、そうして父は肩をすくめた。
「帰るか。時間だな」
「ナイトパレードは結構先だもんね。渋滞を避けるなら、今出た方がいい」
母は父にうなづいてそう言ってから、遊園地の空を見上げた。
アトラクションの建物たちにふち取られた空は来園時と違って、雲が薄くかかりながら黄色く赤く重なっていた。
瞬間、僕の胸に何かが沸いた。
衝動。泣き出したいような、何かから引きはがされるような、気持ち。
喉は震え、声となってあふれた感情を止めるすべを、僕は知らなかった。
顔のいくつもの筋に力が入り、視界が熱く滲んだ。
つまり僕は泣き出したのだが、あれは号泣というよりも、失禁だったのだと思う。
帰りたくない、と僕は泣きながら両腕を振り回し、駄々をこねた。
その手が誰かにあたり、その誰かは横を歩いていた小さな子供で、子供は飲み物を手にしていて、飲み物は空中に飛んで誰かの衣服に大きなシミを作り、母は悲鳴を上げ、父は僕をぶった。
……まあ、これもよくある話だろう。
キャストと呼ばれる男女が騒ぎに駆け寄ってきて、父と母に事情を聴き、よく分からないやり取りの末に父は僕を出口に引きずろうとしたが、それでも僕は頑固に抵抗した。
あの時、泣きやめば良かった。
父が僕をぶった時点で、事態の深刻さに気付くべきだった。
でも僕にはそんな知識も経験もなかった。
結局僕たち、鬼川一家は専用の休憩所に案内され、父はひたすら憮然とし、母はキャストに腰を折って謝り続けた。
そうして、気が付く。もう、ここは僕のいたい場所ではなくなってしまった。
僕が変えてしまった。父も母も、僕の手をつないではくれない。
そんな風に勝手に思って、絶望して、また一しきり泣いてから、僕はふっと眠くなった。
5歳児に炎天下の遊園地はきつかったのだろう。
体力に限界がきて、しかも快適な休憩所で、僕は眠りに落ちた。
気が付けば、僕の体はチャイルドシートに固定されていた。
父と母が前の席で何かを話していたが、よく聞こえず、僕はまた目を閉じた。
何も話したくなかったし、話したら怒られるような気がした。
そうして僕は眠り、また起きて、眠る。
こんな眠って起きてを、あいまいなものを入れて4回繰り返したのを、僕は覚えている。
その4回目の眠りから覚めた時、僕は尿意を感じた。
母に報告する必要があったが、僕は迷った。4回眠っても、僕には後ろめたさがあった。
父と母は、そんな僕に気が付かずに、会話をしていた。
「煙草、吸いたいな」
「やめてよ。今日くらい。というか。本当にやめて。2人目、いるのよ」
「ああ。そうだな。というか、啓一1人抱えて大変なのに、子供2人だとさ。遊園地はもっときつくなるな」
「大丈夫よ。女の子だから。きき分けもいいんじゃない?」
「だと良……っ!!!!」
「きゃああああああああ!!!!!!!!」
車内が一瞬、真昼みたいに明るくなって、父が言葉を切り、母が何かを裂かれた動物みたいな叫びをあげて、重く大きな衝撃に、ドン、と押された。
覚えているのはここまでで、気が付けばベッドで寝ていた。
一時停止を停止せず、斜め前方から突っ込んできたトラックに、鬼川一家の軽自動車は潰されて、前部座席の父と母は、彼らを覆っていたTシャツやジーンズやブラウスやスカートごと、ぐしゃぐしゃになった。大人になってから当時の事故写真を調べてみたが、潰れた車体の板金の隙間から、血が肉汁みたいに垂れていた。それが左前部座席だったから、母の血だったのだろう。もしかしたら妹のも混じっていたかもしれない。
こういう事故は、日本では定期的に起こるし、だからそこまで珍しいものではない。というより、自動車という物が社会を支えるようになった時点で、結局それは宿命づけられていたのだと、僕は事故そのものについては、納得している。
でも、残酷が胸に刺さる事実がある。
ワッフルメーカーに挟まれた生地みたいな悲惨に飲み込まれた父母と裏腹に、僕が、僕だけが運転席と後部座席の隙間で、生き残ってしまった。
……トラックを運転していたのは、寿村組の組員で、覚醒剤をやっていて、この事故の時にシートベルトをしていなかったために、フロントガラスから投げ出されて、全身を強く打ち、死亡。
彼は抗争中の敵対組事務所に向かう途中で、景気づけにそれを使用したらしい。
だから、事故の原因は彼にある。
「俺の子分がすまねえ」
と、病院で、ベッドの上の僕に土下座をして、白髪交じりのつむじ見せてきた寿村さんは、どういう気持ちだったのだろうか。
罪悪感? 羞恥心? 世間の圧力?
暴力団という団体そのものの排除論が頭をもたげていた時代だ。
暴力団にも、ある意味の治安維持、介入されない民事トラブルの解消などの役割があったはずだが、全部が否定された。一時期は神社の屋台にすら、暴力団の収入源になるとして、廃止論が叫ばれたりした。
寿村さんは大変だったのだろう。
でも、だからといって孤児になった僕を引き取る理由はなかった。
身よりがないと判明した僕を、施設に入れておいて、そっとどこかで見守るという、そんな選択肢もあったはずだった。けれど彼はそうしなかった。
結局は罪悪感が強かったのだろう。
そんな必要はないのに。
抗争は暴力団の業務で、薬物をやった組員は依存症に負けただけの話だ。
それに、究極のところ、結局こういうのは運命なのだろうと思う。
確実なのは、僕が遊園地で駄々をこねなければ、休憩所に案内されなければ、鬼川家の軽自動車はもっと早く駐車場を出ていたし、そうしたら、事故に巻き込まれることもなかった。
父も母も死ななかったし、妹は生まれていた。