92粒目『abolition:廃止』ストレンジな彼女⑤
『abolition』
―廃止。
動詞のabolish廃止する、の名詞版。―
鬼川啓一。
これが僕の名前だ。父が啓吾で母が一子だから、それぞれから一文字ずつ取ったという形になる。
だから、もちろん遺伝子的にも、僕は父と母の半分ずつで構成されている。
血統という紛れもない事実。現実。
でも、僕には彼らとの生活の記憶はない。ぼんやりと残るものがあっても、顔は思い出せない。
つまり、母によだれ掛けをしてもらい、スプーンで離乳食を口に運ばれた、とか。
父に抱き上げられて土手を歩いた夜に、布団の中で絵本を読んでもらったとか。
そんな物事を僕は間違いなく経験してきたはずだし、影のようなぼんやりとしたものはあるのに。
それらはアルバムにも残っているのに、僕の頭からは彼らの顔は、すっぽりと抜け落ちてしまっている。
代わりに、ただ1日の記憶と、その1日の中で目撃した彼らの顔面が、たくさんの表情が、頭のどこかを埋め尽くしている。
それは、みっしりとした質感と光をともなって、僕の内側に濃い影を落とし続ける。
もちろん、僕は自分の人生に不平不満を述べられるほど、自己評価の高い人間ではない。
けれど、それでもあの一日がなければ、僕は……。
どうだろう?
変わっていたのだろうか。あの日がなくても、鬼川家は同じような結末をたどったのだろうか。
分からない。こういう仮定に意味はない。僕にはどうしようもなかった。
知識も経験もなかった。僕はただの5歳児だったのだから。
その日は夏で、空がとても青かった。
鬼川家は一家で軽自動車に乗り込み、千葉の遊園地に向かっていた。
朝、陽が昇る時分にアパートを出て軽自動車の乗り込み、ハンドルを父が握った。
母は父の隣で地図を広げ、あちらがいい、こちらがいい、と絶えず車両の進行方向を指示していた。
渋滞の前に着かないと台無しだからね、と、母が何度も言ったのを覚えている。
大人になった僕からしたら、台無しというは言葉として強い気がする。
けれど、彼女の声の調子は歌うようで、当時の僕はNHKのTV番組を思い出していた。
ぼってりとした体形の口の端が笑顔の形に裂けた動物たちが、くるりくるりとステップで円を描きながら、台無しだからね、と語尾を伸ばして歌う。
後部座席に固定されたチャイルドシートに、動きを封じられていた僕は、そんなぬいぐるみたちの姿を想像しながら、車窓の向こうの空を眺めていた。
空の青はとても濃く、どうしてこんなに青いのに、雲は白いのだろう、などと考えていた。
夕方に赤や黄色に雲は色を変えるのに、昼間はどんなに空が青くても、その青は雲に移らない。
不思議だと思って父母に訊こうとしたけれど、でも父は運転というよりも、ハンドルを握る片手が何かをつまむ形をしきりにしていて、煙草をくわえたいのが、僕にも伝わってきた。
母は、父が煙草を吸うととても怒る。副流煙という言葉を、僕は何度も聞いてきたし、だから煙草を吸うという行為はとても悪いものだと、僕は感じていたし、大人になってからも、それは変わってはいない。
父は僕との生活の中で、煙草を何本吸ったのだろうか。
あの日の運転の前にも吸ったのだろうか。
分からないし確かめようもないけれど、もしかしたらその日は止めていたのかもしれない。
ドライブインは沢山あったし、街中に喫煙所があった時代だ。
スマホもなかったし、アナログ放送だって廃止されてなかった。ブラウン管だってまだまだ現役で、情報の伝わり方も遅かった。個人のつながりがふわっとしていて、こっそり何かをしても、大きくばれることもない。比較的大らかな時代に、父はその日、律儀に禁煙を守っていたのかもしれない。
もしそうだったのなら、それは父なりの、母と僕への、何かの感情の現れだったのだろうと思う。