91粒目『abolishment:廃止』ストレンジな彼女④
『abolishment』
―廃止。
abolishの名詞版。―
よく喋る男だ、というのが初めの印象だった。
更科和美の元マネージャーというこの男は、頬骨が高く張っていて、笑顔を作ると口全体が引きつる。
ハリウッド映画の悪役みたいだ。目に落ち着きがなく、しかもどことなく虚ろだ。
おむつのやり取りには、多少の恐怖を抱いたようだが、応接椅子についてからしばらく会話をすると、それも消えた。
僕は親愛の態度を崩さなかったし、男個人に対する関心も示した。
彼が手がけた仕事を訊き、出来を称賛。男の来歴と、所属プロダクションの退社も確認。
これは更科和美のスキャンダルの責任を取らされた、とのことだったが、そもそも麻薬を勧めたのがこの男、もしくは男の周辺の人間なのだから、理不尽ではないだろう。
サーフィンも趣味で、九十九里浜によく出かける。友人たちとバーベキューもし、サーファー仲間には音楽業界もいて、人脈作りに重宝する。実はアメリカにも留学をしていて、その縁で更科和美のマネージメントも担当することになった。
等々。ありきたりで平凡で眠たくなる話を延々と聞いているうちに、ロキソニンの効果が切れるのではないかと、僕は真剣に危機感を覚える。が、顔には出さない。
口元には笑顔を絶やさず、目も温かくする。
イメージ的には、別荘の暖炉で将来について語り合う兄弟。
含蓄に富んだ会話が時間と空間を暖色で彩る。
僕はそんな人間も時間も受け付けないが、それでも演出はできる。
相手のして欲しいタイミングで相槌を打ち、相手のだらだらとした話を要約して緩急をつける。
そうして、さりげなく相手を褒め続ける。
こんな作業をしているうちに、1時間が経過した。十分な時間だ。
更科和美を見極めるには。
……この女性は、おむつも影響しているのか、一言も話さなかった。
ひたすらうつむき、カフェラテの注がれたカップの底に、世界の果てが映っているのかと思われるくらい、じっと見ていた。
凝視に込められた感情には、虚無しかない。不安と恐怖がなす、虚無。
例えば、犬の縄を解く。犬は敷地から出る。主人が捕まえて殴打する。
そうして縄につなぐ。時間をおいて縄を解き、犬は逃走。
しかし捕縛され、殴打を受ける。この繰り返しで調教された犬は、縄がなくても脱走しない。
それが無駄だと学習しているからだ。
更科和美の印象は、この調教された犬とほぼ同じだった。
視線をカップから外せば、強い暴力もしくは屈辱的な何かが発生する。
それを予感し、確信し、恐れている。
だから彼女はカップから、視線をそらすことができない。
「……ということなんですよ。まったく嫌になりますよね。でも俺ってね。こう見えても結構大丈夫なんですよ。だから今でもこの仕事やれてるし」
「なるほど。分かりました。とても興味深いお話でした。それで、そろそろ契約について確認したいのですが」
「あ。はい。こっちは何の問題もないっす。ええ。もう鬼川さんに全部お任せする形で、はい」
男は、にひっ、と眉毛を八の字にして笑顔を作った。
僕も微笑みで返しながら、その時、ようやく更科和美を、正面から真っすぐに見た。
ちゃんと観察してもしなくても、綺麗な女性だった。
淡い緑のブラウスが好印象で、首元を飾るリボンの色が鮮やかなマネキン。
モノとして扱われることに慣れた者特有の空気に、何故か、龍成と一緒に観に行った映画のポスターが、北海道の果てしない空の青と、大きく手を振る10代の更科和美、その満面の笑顔が、ずれながら重なり、僕は動揺する。
「緊張していますか?」
僕は当たり前のようなことを訊く。
意味のない質問。はやく切り上げたいのに。何をとち狂ったら、こんな質問が出るのか。
分からない。
更科和美も分からないのだろう。
うつむいていた顔を上げ、大きく開いた目で、こちらを見てくる。
真珠貝みたいな、清廉だけどどこか艶めいた唇が、小さく開いては閉じる。
「緊張することは間違ってはいません。少なくとも、貴女が直面してきた現実よりも、圧倒的に正しい。というよりも、多分、緊張するタイミングが遅かったんでしょうね。そこは同情します。同情は伝わっていますか? 更科和美さん」
ガラスの厚い応接テーブル越しに眺める更科和美は美しく、ぴくりと震わせた淡い緑のブラウスの肩も、そのラインが美しかった。
でも、彼女がした意思表示は、結局肩を震わせただけで、言葉にはならなかった。
「鬼川さんが訊いてるだろうが!!! てめえ返事しろよカスがっ!!!!!」
険のある横目で刺しながら、男は更科和美のこめかみを小突いた。
小突かれた更科和美はぐらりと揺れ、多分その肩に男は腕を回すつもりだったのだろう。
そうして僕を見て卑屈な笑いを浮かべ、何か取りつくろいの言葉を述べるつもりだったのだろう。
これは様式美。事務所に入れる前、車道の向こうの2人を観察した時も、同じやり取りをしていた。
全部、僕は分かっていた。
分かっていたはずなのに、手が何故か動いた。
いや、手じゃない。上半身だ。
僕はテーブルに身を乗り出し、更科和美のこめかみを小突いた、男のその手をつかんだ。
そうして、上体ごとこちらに引っ張る。
「え?」
「僕はね。今、更科和美さんとお話をしているんです。そして、あなた忘れてるでしょう。おむつのこと。感謝してください。僕の配慮に」
テーブルに押し付ける形となった男の手は、開かれている。
アイスピックの出番かな、とも思う。
けれど、そこまでの話でもない。というよりも、金属の鋭利は勘違いを招く。
もっと、ちゃんとした恐怖でないと、脳みそのないこの男を浸せない。
そう。ちゃんとした恐怖。
「うぎゅいっ」
男の片目を中心とした顔面がゆがんだ。
痛み。痛覚。
僕のひとさし指の先は、男の小指の爪の付け根を抑えている。
そうして、僕の親指を男の同じ指の爪先にあてがい、押し上げる形で……テコの原理。
ぺりっと爪は剥がれる。
僕は親しみの笑顔を、彼に向ける。
この時に形相を鬼にすると効果が薄れる。怒りにあかせた暴力なら、華がない。
変哲もない。ただの衝動。物理的な結果に過ぎない。
必要なのは笑顔。これを教えてくれたのは、龍成だ。あいつはひたすら笑っていた。
とても傲慢に。でも、僕は謙虚を地でいく人間なので、親しみの笑顔を浮かべる。
「更科和美さんとね。僕はお話しているんですよ。ええ。爪。大変ですね。良いお医者さんがいます。大丈夫ですよ。ちゃんと手当してくれます。これ、治療費です。それと、彼女の料金です。ええ。今後のマネージメント、彼女に関わる権利は、僕が全部買い取ります。おつりがくるでしょう?
治療費を抜きにしても、1千万は色をつけました。もちろん、貴方の取り分ですよ。あと、そうですね。貴方はピアスが似合いですね。なかなか良い顔だ。うん。そうだなあ。舌。出してみてください。はい。そうそう。そのまま。ああ、引っ込めたらいけませんよ。爪、痛くしたくないでしょう?
うん。物分かりが良い。良かった。そう。そのまま舌を下げてください。スプリットタン、似合いそうな長い舌ですね。ああ。そんな怖がらないでください。おむつの機能にも限界があります。大丈夫ですよ。この代金を抱えて、もうお帰りになられてもけっこうです」
自分で話してるのに、他人の声に聞こえた。
離人症という病名が頭の隅をよぎる。
現実感がない。いや、僕は暴力を振るう時、現実感が消える。でも、こんな風に、奇妙な行動をひたすらするのは、異常だ。
爪をはぐのもいい。脅すのもいい。それは正常な業務だ。
でも、一千万の色をつけるなんて。そんな商売はさすがにない。
赤字を抱えて廃止される地方鉄道でも、そんな無謀な商売はしない。
混乱する僕は、それでも笑顔を保つ。
手をかばうように抑えながら立ち上がり玄関に向かった男に、声をかける。
「またビジネスをする時もあるでしょう。その時は、スプリットタンにしてくださいね」
我ながら、声は撫でるように優しい。でも、これは脅しだ。
次会う時は舌を割ってこい。龍成でもこんな脅し方はしなかった。
何かが狂っている。
男が玄関の向こうに消えてから、僕は応接室に戻り、そうして、無言で頭を抱えた。
「あの……」
かすれた、でも朝の光を編んだ糸のように透明な声が、事務所に響いて、僕は顔を上げた。
更科和美が、僕を見ていた。
「ああ。そうか。話の途中でしたね。ええと。それで、同情は伝わりましたか?」
「あの。伝わりましたけど。薬、ありませんか? 切れるときつくなるので。安定剤でもいいです。草でも」
淡々とした物言いに、僕は酷いものを感じた。
この時点で、僕は更科和美に愛情を抱いてはいなかった。
ただ、臨終間際の交通事故患者を眺めるようなそんな哀れに、心を浸されていた。