88粒目『aboard:乗って』フロランタンタン⑤水神クタアトの超魔術:中編
『aboard』
―乗って。
a方向に移動+board板、で板の方向に移動。昔の乗り物といえば船ですから、船と言えば甲板。甲板は板張りですからね。古来より、船の板に移動することを、乗る、と言うのですが、ここら辺はabaft船尾、の概念にも通ずるものがあります。―
校庭には何組かのグループがいる。先生たちの指示に従ってやり投げをしたり高跳びをしたり、ボールを追っていたりする。
ボールは白黒の五5角形が組み合わさったサッカーボールで、阿黒君が真剣な顔で分度器を当てている図形もまた、5角形だ。
「今、現代文だよ。何やってんの」
「俺は真剣に考えているのだ。強烈な疑問が俺を駆り立てている」
わたしは阿黒君の横顔と、図形に分度器を添える長く節のない者を見比べながら、ちらりと教卓に視線を走らせる。
先生は濃緑色の黒板にチョークを打ち付けていて、何かを説明しているけれどよく聞こえない。
「疑問を考えるのも良いけど、現代文だよ。怒られちゃうよ」
「天花」
「何?」
「円の内角とは何度なのだろうな」
ため息に近い阿黒君のつぶやきに、わたしは呆れた。
「円は円だよ。カクカクしてないじゃん」
阿黒君はちらりとこちらを目で見て、というより厳しい視線で刺して、
「これだから愚物は」
と嘆く。
その夏服、白いシャツの脇に浮き出た陰影に、わたしは反射的にグーパンチを入れたくなる。
けど、ぐっと堪えた。
先生に怒られるからだ。いや、違う。怒られるのは全然構わないのだけれど、阿黒君と騒いで、クラスの子たちから微妙な顔をされるのが、果てしなく面倒くさい。
「だって、円は円だよ」
ひそめた声で主張するわたしをちらりと見て、阿黒君は肩をすくめた。
「仕方ない。説明してやる。感謝感激し雨でもあられでも降らせるがいい」
「雨もあられも降らすとか無理だけど、ありがとう。で、円の何が内角なの?」
阿黒君は500円玉サイズの丸のようなものを描いた。
円ではなくて、丸。円というにはちょっとひしゃげている。
でも、これが阿黒君の精いっぱいなんだろうな。
仕方ないから、円と呼んであげるか。
優しい心が湧いてきて、それは阿黒君の画力を憐れむ心につながり、円ってのはこう描くんだよ、と訂正してあげたくなった。かなり強く思った。
けれど、話の腰を折るのは良くない。わたしは空気をちゃんと読む人間なので、やっぱりやめておく。
阿黒君は横一列に丸を描いていく。惑星の直列図を横にした感じになる。
10個描いたところで満足したのか、続いて定規を取り出し、まず正三角形を円の内側に描く。
中学校の頃によく見た図形だ。となりの円には正方形。次の円には五角形。
右に行くたびに、角が1つづつ増えていき、一番端は正12角形になった。
「な。角を増やすと、円になっていくだろう」
わたしはうなずきかけるけど、やっぱり納得ができない。
「角をいくら増やしても、カクはカクだよ。似てるけど、違う」
「俺が思うのはな。例えば10の500乗角形があるとするだろう。それはもう円ではないのかということだ。加えて」
そこで阿黒君は黙った。
「加えて?」
わたしは首を傾げる。
「角形の内角の求め方には公式があるだろう」
「うん。(Nマイナス2)かける180。ただしNは3以上」
「公式を覚えることだけは得意だな。愚民というものは」
高い鼻の先で、ふん、と笑った。
この言葉にむっとしたので、わたしは阿黒君の脇腹にグーパンチを入れる。
「加えて?」
シャツの脇腹を押さえて無言で閉絶する阿黒君に、わたしはアルカイックな笑顔を作って先を促す。
ちなみに、高校に進学した先で阿黒君と出会ってから、アルカイックな笑顔を作ることを学んだ。
「つまりだな。公式のNに無限を入れてみろ。無限に180をかけても、それは無限だろう」
頭が痛くなってきた。でもそれを言うと阿黒君は確実にこちらを軽蔑してくるので、わたしは議論の先をずらす。
「なんか高尚なのは分かったけどね。阿黒君」
「何だ」
「円、描くならもっとちゃんと描きなよ」
彼が何か言う前に、わたしはさささっと、図形たちの下にペンを走らせる。
そして10個の真円が、ノートの3本の罫線にぴたりと収まる形で登場。
コンパスを使わずにこういう円を描ける人はあまりいないらしいので、これはわたしの特技だ。
「これくらい上手にとは言わないけど。もうちょっと円らしい円を描いたら? これじゃソラマメだよ」
阿黒君は、ううっと言葉につまり、わたしはふふんと鼻を高くする。一方で、でも、と疑問が頭をかすめる。
何で先生はこちらを見ないのだろう?
何で誰もこちらを見てこないの?
チョークが黒板にうたれ続けるだけで、文字は増えないのは、どうして?
……と思った時に、目が覚めた。
そうか、夢だったからか、と納得するわたしの顔に押し付けられた髪は冷たく、隙間から伝わるのは雪の冷気だ。
今日もまた、世界はぐらりと揺れて、やっぱり意識は失われた。
空は灰色に近い白で、ちらつく雪が頬に落ちては痛みのような冷たさを残しながら溶ける。
風がないのが幸いだった。
手袋をした手を雪について上体を起こそうとするわたしを、おびただしい視線が刺してくる。
向けてくる全員がわたしと同じ顔をしていて、同じ防寒具をまとっている。
クリーム色のイヤーマフに、干し草色のウールマフラー。
もこもこの黒のダウンジャケットにノルディック柄のニットカーディガンを重ね着している。
このカーディガンの胸元に並ぶサインは鳥の羽根で、ノルディックなのにインディアンぽい。
わたしのお気に入りだ。ダウンジャケットだってキルト加工されたもので、中綿がしっかりと温かい。インディゴブルーのジーンズだってボア加工されている。
靴はこげ茶色のアルパインブーツ。保温と断熱に信頼性が抜群の優れものだ。
コーデとしてはお気に入りのはずなのに無個性感を覚えてしまうのは、単純に8000人を超える女性たちが、そっくり同じ服装をしているからだろう。彼女たちの半分はきょとんとしている。
誰かは立ち、誰かは雪に女の子座りをし、誰かはいち早くわたしから視線をずらして周囲の確認に動く。眉間にしわを寄せ周囲を睨む人もいる。どよめきがさざなみのように広がり、冬の山地の冷気が全員の頬に張り付く。
……わたし、澄川天花が増殖を始めた初日は、それでも便利を感じていた。
仕事の人手が足りないことに鬱屈を覚えていたし、解消を純粋に喜んでいた。
けれど2日目に、わたしが4人に増殖した時、得体の知れない不安に襲われた。
もし、明日8人になったら、倍々ゲームが確定する。
そしてこの現象がいつ終わるのか、定かではない。
これまでの人生で怪奇現象には結構な頻度で遭遇してきたけれど、今回は異常だ。
そもそも、怪奇現象は阿黒君が原因だった。彼が引き起こし解決する。時にはわたしも手伝う。
それが一種の様式美のようなものになっていたし、楽観のもととなっていた。
でも今回は違う。阿黒君はいないし、わたしは何もしていない。
水神クタアトちゃんを陳列棚に戻して倒れた。それだけだ。
水神クタアトちゃんの魔法が発動した? でもわたしはあの子を開いてないし、そもそも開けない。わたしには魔術の知識はない。開く根性も覚悟もない。
でも、あの日に何かが起きたのだろう。正確には、わたしが気を失って倒れた30分前に。
出現した澄川天花さんたちの記憶を確かめると、初日の昏倒の30分前までしかない。
美大の卒業制作も初めて手掛けたお化けの仕事も、阿黒君の持ってきた謎グッズも伝説の龍も神様も機械人形も、全部余すところなく、彼女たちは覚えている。
小学生の頃にテストに出た問題は記憶になくても、問題用紙の裏に書いた真円の幾何学模様は覚えている。つまり、わたしと記憶の分布がぴたりと一致しているのだ。あと数年で30代に到達する、これまでの人生経験の印象の濃淡が、寸分たがわず一致している。
でも、それは増殖が始まる30分前までの話で、3日目に現れた4人も、4日目に現れた8人も、初日の昏倒30分前以降の記憶は欠落していた。
これらの事実から、何が推察できるか。答え。全然分からない。わたしは阿黒君ではない。
そして、彼はハロウィンも感謝祭も現れない。
※※※※※
わたしが増殖を始めてから5日目の晩のことだ。
「わけわかんないよね」
と、澄川天花さんの1人が肩をすくめてため息をついた。
その日、16人が現れた時点で、わたしは32人に増殖していた。
「どうする? 明日、あたしたちは多分64人になっちゃうよ」
初日に現れた澄川天花さんが、わたしに訊いてくる。おそるおそる、といった目と声色だ。
わたしは彼女の顔を見返し、まじまじと眺める。
細く長く濃い眉。
涼やかと褒められたことが人生で数回の (もちろん阿黒君ではないし、彼がそんなことを言う時は世界は滅亡すると思う)、瞳は黒目がちだけど大きくも細くもない。つまり無個性。
でも涙袋はくっきりとしていて、もしわたしを美人だと言ってくれる人がいるなら、それはこの涙袋のおかげだと思う。
鼻は高くも低くもないし、あぐらもかいていない。わりかし整ってる方だと自賛したいけれど、先がとがり過ぎていて、親しみに欠ける気がする。
唇は厚くも薄くもなく、ちょっと幅がある。これが鼻のサイズとちょっとあってなくて、閉じていると、口を引き結んで何かをこらえているように、勘違いされてしまう。それが気になって、大学時代に口を意図して半開きにしているようにしたら、やたらと金髪ギャル男類にナンパをされるようになった。
ゆるい頭の女だと思われたらしい。否定はちょっとできないけれど、でも本当にゆるかったらこの生業は無理なので、そこは否定しておきたい。
顎が細くて幼い印象を与えるのも、ナンパに関係していたのかな。
わたしの顔は小作りな方だけど、耳が何故か縦に長くて (両親も両方の祖父母、はたまた親戚の誰にもそんな長い耳の人はいない)、しかもピンと尖っているのがコンプレックスだ。
小学生の頃は澄川エルフと言われて馬鹿にされた。
これはトラウマで、人間の耳の形などに興味がない阿黒君以外には、人前で耳は出したくない。だから髪は常に胸の前までをキープしている。
この髪は軽いくせっ毛でゆるい波を描く。色は黒なので湿気が高い場所だと昆布みたいになってしまう。
くせっ毛は元々のものだけど、このせいで中高と苦労をした。
高校を卒業する時、これで先生にストレートパーマかけろよ、と言われなくて済む、と気が楽になったものだ。
背は162㎝。姿勢が関係するのか、毎年伸びたり縮んだりしている。
全体的に、人と全く張り合えないかと言われると否定したくなるのがわたしの容姿だ。
でも確実に張り合えるかというとそうとも言い切れない。
可もなく不可もない、尖った長めの耳以外に破綻の要素がない平凡な顔がわたしで、そのわたしが、こちらを不安げにのぞき込んでくる。
「とりあえず。全員わたしでしょ。分担しよう。受けられるだけの仕事を受けて、前金でもらおう。食料をとにかく準備しておかないと」
「一週間たったら8000人超えるもんね。わたしたち」
ため息まじりの澄川天花さんの言葉に、わたしは返事ができなかった。
8000人分の食料。例えば1人1日カロリーメイト1箱で済ますにしても、単純計算で160万円かかる。
恐ろしいのは8000人超えからで、倍々ゲームがそこから7日続くと、わたしを含めた澄川天花は100万人を超える。何だろう。もう、数字が大き過ぎて実感として把握ができない。
そもそも4日目の時点でキャパオーバーだった。先ほどの夢を思い出す。
阿黒君が話題に出していた、無限。わたしは無限に増殖を続ける。破綻する前に止めたいけれど、止め方が分からない。
「……何だろうね。この気分」
「レミングス?」
ぽつりと疑問を呟くわたしに、初日の澄川天花さんは首を傾げる。
黒髪から耳の尖りがのぞき、自分の見た目にコンプレックスを刺激されながら、怖すぎて眉をひそめた。
「やめてよ。レミングスとか。かなり不吉じゃない」
「ごめん」
「とりあえず、作業しよ」
雪から立ち上がりながら、わたしは言う。増殖時に溢れたわたしたちで圧死事故が起こらないように、わたしは昏倒の時間は家から歩いて5分の谷川沿いの土手にいるようにしている。
山地で上流ということもあり、川自体は小川に毛が生えたみたいなものだけど、巨岩がごろごろしていて、眺めとしては、何というか原始の混沌を想像させられる。
世界の黎明に空と大地の境が混沌としていて、そこに神様が宇宙から菜箸を入れてつついたら、先端がぶくぶくと泡立って、いくつかは巨岩として残った。
……みたいな伝説があってもおかしくないくらいの、それなりに豪華な眺めだ。
しかもキャンプ場くらいの広さの河川敷は、巨岩の群れと土手の隙間に、細長い形でちゃんと続いている。
ここなら開けているし、人数も把握しやすい。
指示も出しやすい。その日に出現した澄川天花さんたちに、現状を説明する係。
誘導してエスキモーハウスを建造する係。
炊き出し用のスープが入った寸胴鍋をかき回す係。
全員わたしだし、客観的に接してみるとわたし自身だけあって、物分かりが良く助かっている。
けれど、でも不安はぬぐえない。
倍々ゲームが続いたまま春を迎えたら、わたしは本当に、レミングスの気持ちが分かってしまう。
増えすぎた個体数を調整するために、突き動かされるように崖から身投げをするネズミたち。
この怪奇現象は、本当に水神クタアトちゃんが原因なのだろうか。
分からない。わたしは阿黒君に巻き込まれる形で、数えきれない謎グッズを扱ってきたし、その1つが暴発したのかもしれない。それでも一番怪しいのは水神クタアトちゃんだし、だから増殖の2日目以降、わたしはあの子に触れていない。でも、触れることが習慣化していたせいか、寂しい。
そう。寂しいというのが、正しい表現なのだと思う。
わたしが加速度的に増殖していく現状。良くも悪くもわたしと何から何まで同一の存在たちに囲まれ続けるこの現状は、とても不安で、そして寂しい。野宿生活にわたしは向いていない。もちろん正式な家の権利者はわたしだから、これまでどおり家で寝泊まりでよいのだけれど、後ろめたくてできない。何千人と野宿させておいて、自分だけベッドで眠る、というのは違う気がしてしまう。でも、やっぱり辛い。
そんな弱音が強くこみ上げたのが、増殖5日目だった。
それから一週間がたって、ついにわたしの総数は、8000人を突破した。
※※※※※
「大丈夫? 毎日訊いてるけど、でもやっぱり心配」
「うん。大丈夫。心配してくれてありがとう」
差し伸べられる手袋の手は、初日の澄川天花さんのものだ。
わたしはそれを取って立ち上がる。
澄川天花さんは、あたりを見回しながら、
「8000人……超えたね。明日は16000人超えかあ」
と、ため息をつく。
そのまつ毛の長い横顔を、クリーム色のイヤーマフを、干し草色のマフラーに小さく埋まった顎のラインを、じっとのぞき込む。
「ん? どうしたの?」
「あなた、本当は澄川天花じゃないんじゃないかな?」
「え? 何で?」
「本当は、水神クタアトちゃんじゃない? またはあの子に封印された精霊とか神様とか悪魔で。わたしをからかいたくて魔法を使ったんじゃない? だってあなたはわたしと一番仲が良いし、気心が知れてる感じがする。でも一番親しい人って実は一番怪しいよね」
わたしは一気にまくし立てた。口の端から冷気が白く漏れるのが分かった。
そんなわたしを、きょとんとした顔で見てから、初日の澄川天花さんは、口元を手袋の片手で押さえて、うつむいた。
「なるほどなあ。わたしが黒幕かあ。確かに初日だもんね。わたし」
顔を上げた彼女の淡々とした抑揚に、不意に酷い感情がこみ上げる。自分の都合で、誰かを酷く傷つけてしまったような後ろめたさ。
「ごめん。八つ当たり、した」
「ううん。いいよ。わたしがあなたでも同じこと考えると思う。それに、わたしが一番怪しいし。それにわたしも……あ」
唐突に、初日の澄川天花さんが空を見上げた。
わたしもつられて視線を追う。
黄昏を迎えつつある高い空を、鹿のような影の集団が疾走していた。
引かれる形で、ソリの黒い影もまた、後方に飛行機雲のような細長い雲を2つ引きずりながら、移動していた。
鈴の音が冬の大気を伝い、とても微かにでも確実に響いてきて、わたしは今日がクリスマスイブであることを、思い出した。
「阿黒君じゃない? ソリに乗ってるの阿黒君だよ!!! だって阿黒君関係じゃなきゃサンタのソリなんか見れないし!!!!」
はしゃいだ声で初日の澄川天花さんはまくしたて、おーい、と上空に両手を振った。
彼女の思考回路は、本当にわたしだと思う。けど、わたしは彼女みたいに、そんなに素直に喜べない。
嬉しいのだけど、でも、何というか嬉しいのがしゃくだ。この複雑を胸に抱えながらも、わたしは彼女と一緒に、上空に両手を振った。
孤島で救助を求める人のような気分は、こんな感じかも。
ソリは直進を止めず、しかしそこから黒い影が1つ射出されて、空中で赤と黄色のパラソルがぽん、と気球のように開き、わたしはそれがパラシュートだと分かった。
たんぽぽの綿毛のように頼りなく、右に左にふらりふらりと漂ったそれは、河川敷の雪原から、川面に外れて着水。
ざばざばと水と雪をかき分けて、河川敷に上がった彼は、まぎれもない、阿黒君だった。