81粒目『ably:有能に、うまく、巧みに、立派に』驚天動国ペルチュクトゥーンス②
『ably』
―有能に、うまく、巧みに、立派に。
ableの形容動詞版。ability、ableism、ableistとも兄弟。―
人違いだと伝えると、サキホ=業天の瞳は泳いだ。
中東の民族衣裳的な、胸元がU字に大きく開いた真紅のブラウスの肩が震えた。
両手で、信じられないと口元を押さえる彼女の肘に、その細さにある種の幼さを感じた。
呪術の存在を僕は信じないが、豹のように獰猛なサキホ=業天の瞳に、魔法にかかっていたのかもしれない。彼女の褐色の頬が微細に震え、まつ毛の長い瞳に涙が浮かんだ時、僕は思わず立ち上がり、ハンカチを背広の胸元から取り出して、渡した。いつもは眼鏡を拭いているのだけれど、今日はまだ使っていなくて良かったと、その時に思った。
「え……」
「使いなさい。気に病むことはない。重い使命を背負って来日されたのは理解できました。僕は 山岸ではありませんが、協力は惜しまない。まずは、山岸の所まで案内しますよ」
言葉に善意を込めて、僕は口角を上げた。
サキホ=業天は、くっきりとした瞳をさらに大きく開いて、僕を見つめた。
肉感的な唇は半開きになり、濃く長い眉の端が下がった。
彼女は僕に視線をすえたまま、ハンカチを受け取った。
が、使用には躊躇があったらしい。
「お気持ちはありがたいのですが、今は使用を控えさせていただきます」
サキホ=業天はいそいそと、ハンカチを民族衣装の胸元にしまった。
何故、差し出されたハンカチを使わないのに受け取るのか。
しかも真紅の民族衣装の胸元にしまうのか。返さないのか。
分からない。ペルチュクトゥーンスの文化は謎だ。
いや、それよりも謎なのは僕の心理である。戸惑うとか憤慨する前に、85歳の老人である僕の胸に、どきりと波立つものが起こった。85歳である僕は、妻に先立たれてから長い。
なのに何だこの波は。芽吹くような感情は……。
「あ、ああ。そうかい。では、とにかく山岸の連絡先を調べるからね。サキホ=業天さん。君はそこの椅子に座って、そうだね。日本語は読めるかい?」
「はい。父の母国の言語ですので。ただ、文法が違うのでとても難しいですけれど、読み取り翻訳機がありますから」
サキホ=業天は手を上げた。
手首を飾っていた3つのブレスレット、白真珠、黒真珠、赤珊瑚、それぞれの連なりが小さな音を立てて揺れた。
黒真珠のひときわ大きなものが十字に割れて、花が開くようにレンズが出現。
「読み取り機です」
「……それは便利だね」
「白真珠はレーザーも飛ばせます」
「それは物騒だね」
僕は肩をすくめた。自動音声翻訳機、読み取り翻訳機、3次元ホログラムに、レーザー兵器。
サキホ=業天は何を覚悟して来日したのだろう? ペルチュクトゥーンスではレーザー兵器は護身用スタンガンと同等なのだろうか。分からない。
が、そんな異文化に困惑している時間はない。彼女は一刻も早くペルチュクトゥーンスに帰国したいだろうし、僕だって冷静になってみれば、老骨に面倒ごとは厳しい。
それでも、できるだけ速やかに山岸の連絡先を突き止める。それが僕に課された仕事だ。
もちろん、人違いには困惑したが、確かに山岸は頼りになる男だった。
僕よりも緘黙だったが、太い眉とがっしりとした肩が印象的な好漢で、誠実だった。
学生時代の業天が起こした数々の問題を、山岸は巧みに解決に導いた。
借金取りには米 (業天の実家に手紙を書いた)で払ったし、包丁を持ち出した女 (業天の二股相手)には、第三者の優男を紹介した。業天がトラブルを起こし、山岸が立派に解決する。
僕は何をしていたのだろうか。昔すぎて覚えていないが、突っ込みつつも見捨てなかったのではないのだろうか。いや、違うか。僕は友人のために有能であることより、巧みに論文を書くことに腐心していた。もし、学業よりも友情を優先する人間だったのなら、業天は山岸に加えて僕の名前も挙げただろう。
……と、なかば自嘲気味になりつつも、視界の端で熱心に学術書を読み込むサキホ=業天のために、僕はフェイスブックを検索。山岸が名誉教授職をになっているT大学に電話をすると、先月退職したと告げられる。怪しくなった雲行きに、不安を覚えつつも、山岸の家族に連絡を取ると、先月、脳梗塞で倒れたと告げられた。
「サキホ=業天さん」
「はい」
「ペルチュクトゥーンスは医療技術は発達していますか」
「日本と大差ありません。米国の方が先に進んでいます」
「そうですか……」
背や肩から力が抜けていくのが分かる。老いはどうしようもない。
若さと無力は対義語で、そもそも業天が指名した以上、僕の出る幕ではないのだ。
僕にできるのは、ペルチュクトゥーンスの動乱を治めることではない。そんな器量もない。せいぜい、目の前の女性に事情を説明して、亡命を希望するなら手続きを援助するくらいだ。
これが僕のできることで、しかも正しいことなのだ。
僕はうつむき、ため息を押し殺してから、立ち上がり、教授机を回ってサキホ=業天に歩いた。
「サキホ=業天さん」
「はい」
こちら見上げるサキホ=業天さんに、その瞳の純粋に、痛みを覚える。
覚悟してつなごうとした言葉の穂が、ノックで遮られた。
「木南先生。よろしいでしょうか」
「ああ。今来客中でね。後にしてくれ」
「来客ですか? 受付に記録は……」
サキホ=業天は5階の僕の部屋に、ドアを通過せずに侵入してきた。
受付に記録がないはずだ。当たり前だ。けれど、受付の記録を、何故設楽羽君が把握しているのか。
それは当たり前ではない。そもそも、どうやってドアを介せずに入室するのか。窓は施錠されていた。
3秒後。入室の疑問は解消される。
教授室のドアが、その密な木目の褐色が、ぐにゃりと歪んだからだ。
それは歪みながら人体の形に盛り上がって、どぶの汚水から空き缶が浮き上がるように、設楽羽君の全身が室内に現れた。彼の白衣に、汚れはどこにもなく、木屑やそういったものも、一切付着していなかったために、僕は混乱した。
黒ぶち眼鏡の設楽羽君は僕を見ない。
代わりにその胸の前で白衣の裾を下げる。安物の腕時計。
その下に、白真珠のブレスレット。
『レーザーも飛ばせます』
異国の少女の言葉がよみがえり、僕の体は横に飛ぶ、というより倒れ込む。
サキホ=業天に覆いかぶさる形となりつつ、僕は痛みを覚悟した。
レーザーは飛んでくるだろうし、僕は体のどこかを貫かれるのだろう。
痛くない場所がいい、と、本気で願った。




