74粒目『able: できる、能力がある、有能な』青の普遍②
『able』
― できる、能力がある、有能な。
abilityの形容詞版。元々はghehbh-取るがあり、そこにibilis出来るが加わって、habilis、持てるになった。長い時の流れの中で言い方が変化して、先端のhが抜けて語尾のisがeに変わり、able、になった。
何かを獲得し保持する、それが能力というもの……!!!! というラグビーみたいな英語的価値観を感じる言葉。それがable。―
ドルーゴ・クーピさんはある日、NPO団体のバスを襲撃、乗客全員を拉致した。
この乗客の中に、ユマさんはいた。彼女の業務は通訳で、だからドルーゴ・クーピさんと会話をする機会もかなりあり、結果はお約束のストックホルム症候群。
つまり2人は恋に落ちた。
身代金は支払われ、ユマさんも含めて、人質は全員解放されたけど……。
ユマさんは恋人の元を去ろうとせず、そのことにドルーゴ・クーピさんの方が恐怖のような衝撃を覚えたらしい。
差別を受けて生きてきた彼にとって、命は等しく無価値だった。それをユマさんが変えた。
彼女はドルーゴ・クーピさんにとって、本当の意味での紅一点だったらしい。
多分、ユマさんにとっても、なのだろうけど。
ここまではありきたりな話だ。
だって、ボーイミーツガールなんてものは地球レベルで普遍的な出来事なのだから。
でも本人たちにとってはそれは間違いなく特別な出来事だった。
けれど政府軍との戦闘は日々激化していく。
だからドルーゴ・クーピさんはユマさんに帰国を説得しなければならず、けれどユマさんは頑として首をたてにふらず、結局説得に半年かかった。
でもユマさんはすごいな。相思相愛にせよ、内戦地帯のゲリラ戦士に半年付きまとって、嫌がられても帰らなかったのは、もう狂気と言ってもいいレベルだ。燃えるような情熱って、昭和の日本人女性には僕は抱きにくいけど、偏見かもしれない。あ、でも阿部定みたいな人もいたしな。昭和。いや、ああいうのと一緒にするのは失礼か。でも、常軌を逸していたのは確かだ。
でも、ドルーゴ・クーピさんだってまともじゃない。
山上湖のほとりの、故郷の村に政府軍が迫っているからといって……。
村ごと山を爆破して、政府軍に濁流にのみ込ませるとか、そんな過激な作戦を、恋人とはいえ外国女に話せるものだろうか。
僕は無理だ。でもドルーゴ・クーピさんは打ち明けた。
作戦が成功しても失敗しても、この美しい湖は消滅しながら一帯を地獄に変えるし、敵も味方もたくさん死ぬ、と伝えた。
『でも、君は生き残ってほしい。君まで死ぬ必要はないから。それに、誰か1人にでも、覚えていてほしいんだ。僕の故郷の湖は美しかったって』
『……分かった。私は日本に帰る。そして私の故郷であなたを待つ。ちゃんと全部を終わらせて、私に会いに来て。そしたらあなたに見せてあげる。あなたは頭がとても良い人だから、ちゃんと理解してくれる。形は違っても、あるってことを』
『何があるって?』
『来た時に教えてあげる。あなたは絶対感動するわ。普遍的だから』
ユマさんはいたずらっぽく笑って、できれば冬が良いけれど、でも夏にきてくれたら、2人で冬を待ちましょう、と付け加えた。
翌日、ユマさんはドルーゴ・クーピさんの部下の先導で現地を離れ、空港まで安全にたどり着き、フロリダ行きの航空機に搭乗。
航空機は国境を越える10マイル手前で、政府軍の対空ミサイルに撃墜された。
反政府軍の重要人物が乗った航空機、という誤情報が政府に広まったのが原因だった。
事件から60年経った現在。
ドルーゴ・クーピさんは上野探偵事務所の、応接ソファーに座っている。
依頼の聞き取り開始からすでに2時間が経過。
上野さんは腕を組み、時々天井を見上げ、視線をブラインダーに泳がせたりしている。
僕は僕で事務所の入り口に控える黒人のお兄ちゃんを見たりするが、彼はまったく動かない。
イースター像みたいに遠い目だし、威圧感もないけれど、でもやっぱり怖いな。
「……依頼を受けていただけましゅでしょうか」
「はい。お受けいたひましゅ」
不安そうなドルーゴ・クーピさんに、上野さんは優しく微笑み、そして僕の背筋はざわついた。
こういう笑みを作る時の上野さんは、実はまったく自信がない。とりあえずごまかそうと必死になっている。
ドルーゴ・クーピさんが大物だから、ひよってるのか。びびったのか。
確かに怖い。でも、ユマさんと、スの発音が怪しい会話をかわしていたドルーゴ・クーピさんを想像すると、僕は笑いそうになる。
これもちょっとした地獄だった。
結局、ドルーゴ・クーピさんには1か月の調査期間をいただくことになった。
ユマさんの本名、出身地、本籍、行動履歴、等々。
調査にそこまで時間はかからないのだけど、出身地には飛んだ後で、どれだけかかるか分からない。
ドルーゴ・クーピさんは都内のホテルに滞在するそうで、あのお兄ちゃんの応援も来たりするのだろうか。ドアの向こうに消えざまに、スーツの肩ごしにこちらを振り返って、人懐っこくウインクを飛ばしてきたお兄ちゃんは、主人を失望させられたら、ちゃんと僕たちの言い訳を聞いてくれるのだろうか。
できると思ったし言いましたが、できませんでした。
ええ、まがりなりにも探偵事務所ですからね。調査能力はあるんですよ。でも、手掛かりがなさすぎです。ええ。一応有能と評判なんですけどね。うちは。でも無理なものは無理なんです。
それより、あの、お連れさんを止めてくれませんか。アイアンナックルなんかはめちゃって。
ああ。勘弁してくださいよ。そういうの……。
なんて、会話が浮かんでしまう。
僕たちは黒人の彼の拳でひき肉になるのだろうか。原型はとどめてほしい。
「上野しゃん」
「何だ。お前まだなまってるぞ」
指摘しながらも、黒織部の茶碗を磨く手から目をあげない上野さん。
そんな雇い主を、僕はにらんだ。
「何でもかんでも安請け合いって、本当にやばいですよ」
「だって怖いじゃないか。殺し屋の目だったじょ。あの黒人」
イースター像の目は殺し屋なのか。