71粒目『ablative:奪格。または除去のできる。融除のできる』バトルホストの森崎くん③
『ablative』
―奪格。
ラテン語に由来する文法用語。動作の出自、手段、原因などをあらわす。~から、~によって、~のせいで、などなど。
形容詞的には、除去のできる、融除のできる、となる。これはablateの除去する、が形容詞となったもの。―
“Club Glorial Higher”、略してCGHは錦糸町にあるホストクラブだ。
先輩の勧めで体験入店したこの店は、JR錦糸町駅の南口を出て徒歩5分の飲み屋街にある。
まあ、ホストクラブは飲食店の一種なわけだし、アメリカの大草原に小さなホストクラブがあってもくる人なんていないし、だから飲み屋街にあるのは当たり前なのだけど、でも初入店で錦糸町からCGHに向かう時の、飲み屋街の喧騒には、圧倒されるものを感じた。
定時退社で先輩と真っすぐ錦糸町に向かったものだから、まだ店は開く前で、百貨店もしまってなくて、紳士服売り場でリクルートスーツと同じ額のネクタイを一枚買った。
選んだのも、勧めてくれたのも先輩だった。
「俺の持論だけどな。まずはネクタイだ。で、おごってやるのもさ、ありっちゃありなんだ。森崎。お前を誘ったのは俺だからな。でも、ここはさ。お前は自腹で買うべきだと思う。気合いは大切だからな。プロレスラーだって言ってるだろ。元気があれば……」
意味するところは分かったけれど、何で体験入店のために数万円をかけて気合を入れなければならないのか。根本の所が理解不能で、だから百貨店のエスカレーターをダッシュで降りて信号を無視して東に走り、追いかけてくる先輩から逃げ切るために墨田川に飛び込んでも良かったのだけど、でもそれはどこか、そしてどうしようもなく無責任な気がした。
何何が何々だからと、動かない理由を探して、安牌な選択をし続けて、変わり映えのしない日常のどこかが破綻しても、僕はやっぱり誰かのせいにするんだろうな、と、深刻に思った。
それに、ネクタイに数万円をかけることに抵抗も覚えなかった。
むしろ、罪滅ぼしのような感覚すら覚えてしまった。
そう。罪滅ぼし。御曹司主催の飲み会の帰りに僕と寝たせいで、1人の派遣社員のお姉さんの首が切られた。具体的な罵倒を受けた。多分、それはまだいい。彼女は僕と寝たくて寝て、首になった苛つき、憤懣を僕にぶつけた。生活は傾くだろうけど、でも彼氏もいるし、ああいうタイプなら、どこでもしぶとく生きていける。つまりは男女の話の応用形。
可哀想なのは、僕に色目を使っただけで首を切られたお姉さんたちだ。
それが御曹司の意向で、僕はだしに使われただけだし、つまり悪くないはずなのに、のしかかる罪悪感。多分、この感覚はずっと尾を引く。
普通に日常を過ごすだけじゃ溶け切らない。僕は御曹司派と見なされているし、実際そうだ。
近々プロジェクトにも引き抜かれるだろう。部署移動の噂はいつも立っている。
御曹司は、僕を気に入ってくれているし、それは多分あの地獄みたいな飲み会の唯一の成果だし、そして華麗に靴を舐めるのが、サラリーマンという……。
うん。胸糞悪い。
でも、あの頃の僕はそれが当然だと思っていた。ネクタイを買わせようとする先輩から逃げなかったのもそのためだったし、そもそも逃げることは安牌ではなかった。丁寧に危険牌を避ける配慮が、サラリーマンのキャリアステップを華麗にするんだ、とか、先輩から聞いたことがあるけど、まあ、そうなんだろうな。百貨店から逃げても、次の日には先輩と顔を合わせる。気まずくはなりたくない。
そういう打算で、僕はネクタイを購入した。
それから、同じ売り場の端にある化粧室に入って、鏡と向き合う。
入口から先輩が電話をする声が聞こえてくる。CGHのスタッフさんと連絡を取っているらしい。
うん。確かにかった。段取りはもうついている。まあ、体験入店だし。先輩の選んだ柄は黒に金糸がいくつもクロスしていて、ヤクザっぽいけど、ちょっとかっこいいデザインだったはずだ。
電話の声は続いている。終わる前に結んでしまおう、と、包装を解いてネクタイを取り出し、締めた時……。
何かが変わった気がした。除去のできなかった憂鬱が、自己嫌悪が、融解して蒸発したような、そんな感覚は……多分、由来は鏡に映ってた僕自身だろうな。
いかしてた、というか、パリッとしてたんだ。新宿二丁目のオネエさんが見たら、あら、いい男、とか言いそうな、そんな惚れ惚れさせる何かに満ちていた。
それはネクタイを中心に。首元から、くっきりとした顎、鋭角の鼻先から、涙袋、まつ毛の先に至るまで、そのパリッと感は、広がっていた。
「がんばろ」
僕は鏡に向けてつぶやき、そしてこの言葉をまったく違う抑揚とシチュエーションで、姫相手に言いまくることになるなんて、その時は全く予想していなかった。