70粒目『ablate: 溶解、蒸発、腐食などで除去する、またはされる』ちゃたすま⑥
『ablate』
― 溶解、蒸発、腐食などで除去する、またはされる。
ablationを動詞化したもの。―
『須磨子。君は僕を襲わないね』
『あなたにはつぶつぶの膜がないから』
須磨子の言葉に老人は満足した。
透明の被膜。被膜を成り立たせる無数の泡。弾けながら伸びる先端。
人間と、人間に類する形状の物体に、必ずあるというその被膜。
『ずっと忘れていたんだ。当たり前過ぎて気が付かなかった。僕には感情がない。須磨子。君が人間に見る被膜は、感情だよ。そして感情というのは反応なんだ』
言いながら、老人は学生時代の自身を思い出していた。
何故、専門を精神医学にしたのか。興味があったからだ。青年だった彼にとって、感情とは得体の知れないものだった。食欲などの欲求はある。それは欠落を埋める衝動だ。体内の水分が満たされないから喉は乾くし、血糖値が下がるから空腹を覚える。
しかし、性欲が分からない。それは内部で消費されるものではなく、だから完結もしないらしい。
彼は誰かに対して敬愛を感じたことはない。
パーソナルスペースという感覚が分からないから、恐れも感じたことがない。世界は物理法則と因果関係で成立していると理解をしているものだから、誰かに驚いた経験も皆無。
自己を含めて人間に対する期待というものが全くないものだから、哀愁も感じたことがない。
老人はその人生で、全てをあるがままを受け入れてきた。
けれど、彼は理解ができない。
何故人は人に憤怒し、怒りを動力とし、いら立ちに顔をゆがめるのか。
警戒も期待も関心も、歓喜も喜びも、そのよりどころを他者に据えるのか。
青年だった彼は、分からなかった。他者の観測はできる。けれど体験はできない。
もちろん、感情を覚えなくても、生活をしていく分には困らなかった。作るべき表情のパターンは早期に学習していたし、会話から類推して相手の意向をくみ取ることは容易だった。幼少から青年時代に至るまで、異常を指摘されたことはない。
温かく思いやりがあり、誠実で真面目だが、やや内向的なところがある。
学業は優秀。手先も器用で集団から浮くこともない、というのが教師たちの評価だった。
時折、異性の言動などには理解に苦しむこともあったが、情報の誘導によって、相手は全ての真実を吐露する。
タロット占い以上でも以下でもない事を、彼はずっと続けてきた。もし精神科医になっていなければ、占いの方面で名声を博しただろう。しかし彼の内部には、知識欲があった。理解できない事を学びたい。
彼は感情を学ぶことにした。
『自閉症かもしれない』
学部生だった頃、机の上で分厚い教本をめくりながら、彼はつぶやいた。
精神の構造が違う。自己や他者に対する感情というものが、発生の機序が欠落している。
もちろん、取り繕える。それは魚が水を泳ぐように。
ふと、彼はIQ検査を思い出す。初等学校の頃だ。
筆記式だったが、あまりに速く解いてしまったために時間を持て余してしまった。
仕方なく、周囲の生徒たちが用紙相手に立てる音に耳を澄ます。そこから記入内容と解答速度、そして正答率を類推。上から10番目の成績に収められるように、答案用紙を修整した。
誤答に法則性を持たせて教師へのメッセージ、暗号も作成。
『簡単過ぎてつまらない』
教師がこの暗号に気づくことはなかった。
あの頃は彼自身の特殊性を、強烈に認識していた。けれども精神科医となって患者を相手にしていく中で、忘れてしまった。
普通の人間の思考と行動を模倣するのが習慣となり、それは例えれば自転車に乗るようなもので、研究や診療に追われているうちに、欠落の事実すらも、忘れてしまった。
人はそれを矯正と呼ぶのかもしれない。
記憶は日常に溶解し、蒸発する。これは正常な脳の機能だ。
『須磨子。私は君に愛着を抱いていない。もちろん恐怖もないし、暴力は良くないことだが、性質としては認めている。私が君に感じているのは人間的な何かではなく、職業的な義務感だ』
『関心が無いってこと?』
首を傾げる須磨子に、老人は笑い皺を深くする。
『その通りだ。つまり、私にとって、君は砂漠のサボテンに生えた棘以下なんだ。棘は警戒心を喚起するが、君には何も芽生えない』
『あたしは火星の石?』
『宇宙には浪漫があるけれど、君はただの血と肉の塊だからね。比べるのも失礼な話だよ。そうだな。あえて言うなら、広葉樹林の木の葉だろうな。終わりが来ると、地面に落ちて腐り、分解されて土になる。そうして幼い木を支え、木は育ち森は維持される』
『輪廻転生?』
『そんなものがあるとするならだけどね。須磨子、君は自然の一部で、私はそうとしか、本質的に感じる事ができない。メイドがどれだけ襲われても、彼女達に同情もできないし、君を責める気にもならない。だから、君は私を襲わないんだ』
『あたしは、あたしに反応する人を襲うってこと?』
『その通りだ』
『でも、何で?』
須磨子の問いに老人は一度黙り、暗い天井を見上げた。
『見上げてごらん。須磨子。この地下牢の天井は、花崗岩だ。穴が無数に空いている。表面にもね』
『うん』
『いくつあるか、分かるかい? 穴は』
『7万と2456個』
老人は確信した。類推は正しい。
『須磨子。君は目が良すぎるんだ。人間はね。意識ではほとんど何も考えてないんだ。考えるとか、情報の処理は無意識がする。意識を徒歩としたら無意識はスーパーカーだね。その、洪水みたいな情報を、君の目は、意識は全部認識してしまう。そのままじゃ脳がパンクしてしまうから、襲うんだな』
『目を潰せばいいってこと?』
須磨子の問いに、その声の迷いの無さに、老人は危うさを感じた。
『コンタクトレンズで、視力を落とせば良いだけだよ。それより須磨子。君は自分を守るということを、学習しないといけないね』