7粒目『abaft(船尾に。または何々の後ろに。もしくは後部。主に船舶の用語)』カリブガンズ 1st wave
『abaft』
―船尾に。または何々の後ろに。もしくは後部。主に船舶の用語。一般に後部はaftが使われる。afterはaftに『方』のerがついたもの。ただ、aftよりもabaftの方が言葉としては古い。歴史を感じさせる言葉でもある。―
「南西の強風。強雨の後の快晴。たまに……」
言葉を止めて、エドワード・エブリデイは前方を見上げた。
抜けるような青い空に向かって、5つの黒が弾道を描いている。
綺麗な放物線だ。右から一番目が高く、順々に低くなっていく。
「たまに、砲弾」
怒号が爆発。これは副船長のモルガンが船員に飛ばす指示だし、モルガンはこめかみに図太い青筋を浮かばせているが、青筋は冷静の証である。
ぐらりと船体が傾く。エドワードが立っているのは船尾だから、揺れは余計に激しい。
けれど、揺れはつまり帆の操作に問題がないことを示している。
御婆様号の進路は南西。逆帆だからジグザクに進むしかない。
御婆様を追う海軍も同様の航路を描いている。そうして、船体が御婆様に向かって横に近くなる時に、砲門は開かれ、大砲が打ちあがるのだ。
だから御婆様もジグザグによける。御婆様の装甲は紙細工で、海軍は重装騎士だ。砲台が5門もある。
撃ち合いになれば御婆様は勝てない。が、逃げ足は速い。砲弾だってジグザグに避けることができる。
「エドおおお」
「何だ。うるせえな。順調じゃねえか。あと、船長って呼べ」
「船長。もう1匹現れやがった。島の陰に隠れてやがった……!!!」
船長のエドワードは、モルガンが指した方に視線を投げる。
南南西に1隻。逆帆であるのは同じだが、風と真対抗ではないためにジグザクの回数は少ない。
しかも砲門も少ない。最新式の高速船だ。
「東に変えますか。船長」
操帆長のヘンリーが揺れ動く甲板を器用に駆けてきた。元海軍士官らしく落ち着いた物言いが、さらに冷静沈着になっている。これはかなりあせっている証拠だと、エドワードは判断した。
「落ち着けよ。ヘンリー。東はジョンの糞野郎の縄張りだ。ドンパチするのもいいが、今日はそんな日じゃねえだろ」
エドワードの声は落ち着いていた。
そんな彼にヘンリーは反論をすることができなかった。
状況は考えうる限り最悪である。御婆様を外れた砲弾が立て続けに着水、白く巨大な柱があがっている。後方に砲門を5つも抱えた海軍のガレオン船。のみならず、左後方から最新式の軽装船が現れた。
逃れるなら東だ。が、エドワードと敵対するジョンの一団の縄張りである。
海賊間の流儀は縄張りを荒さないこと。襲撃をするなら夜に乗じるなどして、徹底して卑怯に、無惨に行うこと。もっとも平和なのは船長同士の決闘。緊急避難的な縄張りの侵入は、した方が恥をかく。
それはヘンリーも理解している。それならこのまま2隻から挟撃されるか?
食ってかかりたい、という衝動。が、これはすでに敗北している。
エドワードは成人しているが、顔立ちにまだ幼さを残している。背も並みよりは少しだけ低い。
肩幅はあるように見えるが、それは黒に金の刺繍の船長服が大きいだけだ。
それでも、黄金色の髪の奥の瞳は強い。碧眼に宿るのは苛烈と冷静。そして絶対の自信。
「策でもお持ちなのですか? このままだと大渦に……」
「俺もやべえって思っていた。どうするんだ? エド。このままじゃ俺たちは海軍に潰されるか、大渦に呑み込まれるかのどっちかだぜ? ジョンのちょび髭野郎に馬鹿にされても、生きてこそ、じゃねえか?」
モルガンが割り込んできた。低く威圧感のある声に、エドワードは片眉を上げ、モルガンを見上げて首をかしげた。
「だって、庭だろ? 大渦も海だぜ。海軍よりもそこら辺は知ってる。それに……」
エドワードは海上を指さした。瞬間、呼応するように水柱が吹き上がり、御婆様は大きく傾く。
「ああ。そういうことかよ」
「なるほど。狂気じみていますが、納得はしました」
男たちの察しの良さに、エドワードは満足した。
「ああ。海賊ってのはそういうもんだ。しかしあれだな。俺の記憶では、高速船が隠れてやがった小島はさ。無人だが国境の島だったはずだ。海軍の領海から、かなり出ばってきている。つまり……」
「つまり、海軍は俺たちをぶっ殺すために、国際法を破りやがったってことだよな」
モルガンの言葉にエドワードは笑った。とても楽しそうだ。
「誰かをぶっ殺すために法を破るって、そりゃ、まるで海賊じゃねえか」
「本当だよな。しかも5台の砲門に高速船ときてやがる。慈悲ってものがねえよな」
「まあ、慈悲がなくて強い奴をぶちのめすのも、海賊(俺たち)なんだけどな」
「違いねえ」
モルガンは髪の先から海水を垂らしながら笑った。水柱の海水が宙を舞い、船尾に届いている。
先ほどまではそんなことはなかった。距離が詰められている。状況は最悪。これは変わらない。
が、モルガンの瞳は穏やかになった。
船長のエドワードが彼を見上げて笑っているからだ。
剣の柄を握ったら、叶うものはちょび髭のジョンしかいない、エドワードの手が緩く握られて、モルガンの胸を叩いた。
「モルガン。このまま前進だ。目標は大渦(悪魔のでかい口)。御婆様に無理をかけるからな。修理の用意をしとけ。それと、野郎共は左に寄せておけ。意味は分かるだろう?」
「ああ。了解した」
頷いて船尾を離れようとしたモルガンにエドワードは、
「それと、モルガン」
と声をかけた。
「何だ」
分厚い肩ごしに振り返るモルガンに、エドワードは金色の眉をひそめた。
「俺のことは船長って呼べ」
会話から陽がちょうど10度西に動いたその時点で、御婆様号の前方に大渦(悪魔のでかい口)が白く迫ってきた。
高速船はおよそ1000ヤードの距離をおいて、御婆様号と海上を並走している。
砲弾を節約したいのか、撃ってはこない。あくまで、足止めの役割ということだ。
御婆様を沈めるのはこちらの役目だと言わんばかりに、重装船が後方から迫ってきている。が、ここまでの航行で、距離は一度あいた。
「何でだと思う?」
「砲弾を詰め直したのでしょうね。速度を少しだけ落として、念入りにするんですよ。ちゃんと仕留めたい時は特に、ですね」
望遠鏡を片手に後方の海軍船を眺めながら、エドワードは訊き、ヘンリーが答えた。
高速船の出現時よりも、ヘンリーの口調は大分くだけている。これは冷静である証拠だ。
「なるほど。それって海軍の教科書に載ってんのか?」
「船員が焦った結果起きた暴発事故の例は、本当に嫌ってほど聞かされましたよ。今は知りませんがね。あとは、ネズミの殺し方ですね。すみに追い詰めて、念入りにやるようにと、元教育官は言ってました」
「効率的だよな。正統派の暴力ってのは、まじで怖え」
ヘンリーは目をすがめて、船長を見た。怖え、という言葉と裏腹にとても邪悪な顔で、楽しそうだったからだ。
「まあ、国家ですからね」
「で、そんな国家の先を行くのが、海賊(俺たち)なんだけどな。じゃ、作戦通りよろしく。ここから先、舵輪は俺が握るぜ」
「了解しました」
一礼して駆けだそうとした操帆長に、エドワードは
「ヘンリー」
と声をかける。
「何でしょう?」
「船長室にタロットカード、山になってるだろ」
「はい」
「今日、3回引いてみたんだ」
「はあ」
「3回とも『太陽』だったぜ」
「はぁ」
「つまり、絶好調だぜ。俺たちは太陽みたいに、よ」
「それは良かったです」
ヘンリーは左の口角を上げて、操帆作業に戻るために甲板をかけていった。
エドワードはそれを見届けてから、後ろに向き直り、無数の波と、その向こうに浮かぶ海軍船に目をこらす。望遠鏡は使わない。エドワードの予想通り、そしてヘンリーが仕込まれた教則の通り、大砲を撃ってはこない。大渦に追い詰めて、外れようのない距離で集中砲火をする。
「……」
エドワードは、にっと歯を見せて笑った。別れの時は敵、味方関係なく、笑顔で。それが海賊の作法だ。
そうして、御婆様は大渦(悪魔の大口)に突入しかけた。
直前までの減速を指示されていたヘンリーは帆を1つしか張っていなかった。つまり、3つの帆を下ろした。
そんな御婆様に、重装戦はゆったりと距離をつめてくる。
降伏とか勘違いしてんのかな?
と笑いをかみ殺しながら、エドワードは舵輪を力いっぱい回した。
取舵。瞬間、全ての帆が張られる。
加速。強風が続いていて良かった、とエドワードは思う。今日のタロットカードは太陽。
絶好調なのだ。
強い風を4つの帆に受けて、御婆様は左に向かう。が、船底の渦、海流は右に流れている。
結果、舳先は渦の外側を直進。通過しかける形で、右に引きずられる。
重装船に腹を見せる形だ。
瞬間、渦をはさんだ重装船から音と煙が立った。
満を持しての一斉砲撃。
「わあっはははっ!!!」
エドワードは叫ぶように笑った。
「野郎共!!! 全員で飛べ!!!!」
命令を叫びながら、モルガンはそんなエドワードに郷愁めいたものを感じた。
危機の時ほど、先代の船長と似ている。
モルガンの命令を受けて、船員たちが一斉にジャンプ。
着地。ガレー船は巨大だ。が、船員たちが片方に集まって、一斉に足を叩きつけると……。
一瞬だが、船体は傾く。航路もわずかにずれる。
そして、砲撃は外れた。
次の瞬間、水柱が立った。これまでと比較はならない巨大さだ。
大渦の勢いが関係しているが、海軍が同時に砲撃をしたのが大きい。
波が発生し、御婆様はますます傾く。
転覆を免れさせているのは、大渦の潮流だ。
左に転覆するのを右に曳く形で、大渦は御婆様を支えている。
結果……。
一斉砲撃が起こした波に乗る、というよりも弾き出される形で、御婆様は大渦の海流圏を脱した。しかし……。
「うおおおお!!!!」
「あああああ!!!!」
「あがががが!!!!」
甲板も船内も阿鼻叫喚だ。
急激な航路変更に、嵐の海上よりも荒れ狂う揺れに、船員全員が吹き飛ばされかけている。
ヘンリーは白目をむきかけているし、モルガンも帆網にしがみついている。
ただ1人だけ、エドワードだけが、何事もないかのように、力強く、しかし丁寧に、舵輪を回している。
「やっぱり思い出すよなあ」
船長の後ろ姿に先代の姿が重なって、副船長の目頭は熱くなった。
が、涙を流すよりも嘔吐感がこみ上げてきたので、海に吐いた。
南西の風は相変わらず強く、吐しゃ物のいくつかを横に浮かせ、海鳥が狙ったようについばんでいく。
モルガンはふう、と息をつき、戦いの準備を号令しかけたが、エドワードが
「いや。必要はない」
と止めた。
そんな船長をモルガンはいぶかしげな眼で睨む。
「次の相手は高速船だろ。船長。それに、舵輪はどうした」
「もう俺が回さなくてもいいからな。ちゃんとした奴に任せた。それに、見ろよ」
エドワードは船尾の向こうを指さす。
白波の海上を高速船が進んでいる。その先には大渦があり、重装船が停泊……ではない。
あれは、呑み込まれかけているのだ。航路を必死に東に取ろうとしているのが、遠目にもモルガンには分かる。が、海流とは絶対的な、それこそ運命のようなものだ。
「……あの船は沈むな」
「そうだな。だから救助に向かってるんだろうな。な、そうだよな。ヘンリー」
エドワードの声にモルガンが振り返ると、ヘンリーが立っていた。顔がげっそりとしている。
「そうですね。敵の追跡と味方の海難救助なら、救助が優先されます。まあ、場合によりますが」
「だよな。さすがは国家の犬どもだぜ。全部、ちゃんと正しい」
エドワードは笑う。その笑顔にモルガンは不安になる。本当は、こいつはもっと恐ろしい奴なんじゃないか。
不安を払拭するように、モルガンはあえて危ういことを訊いてみる。
「じゃ。あいつら全滅させるか? 今なら2隻とも藻屑にできるぜ」
「いや。いい。御婆様にも無理をかけたからな。老人はいたわるべきだ。予定通り、南西に向かう」
「……分かった。野郎共。南西に全速前進だ!!!!」
モルガンが声をあげる。
船員たちも声をかえす。
ヘンリーはやれやれと肩をすくめる。
そんな彼らの姿を目に治めてから、エドワードは船長室に戻り、床に散らばったタロットカードの山から1枚を引き抜いた。次の寄港先は貿易都市シェラス。商人たちは海賊とも交易をおこなう。
しかし取引自体は相応の危険も伴う。この街は領主が治めているからだ。
厄介事は避けた方がいい。海賊は、海よりも陸で、慎重になるべきなのだ。
貿易都市シェラスでの運を占う。
この1枚にはそういう意味での緊張感が満ちている。
エドワードはふう、と一息ついてから、カードを表にした。
「……なるほど」
エドワードはまばたきを3回して、そう言った。
タロットは『吊られた男』。
運勢としては最悪である。
「楽しみだな」
エドワードはひとりごちてから、くっくっと不敵に笑った。
それからラム酒を棚から取り出し、一気にあおった。