69粒目『ablation:除去、切除、削摩』ゆっこ⑭
『ablation』
―除去、切除、削摩。
abの離すにlationの移動が合わさって、ablation。離して移動させる、つまり除去。―
通学路という言葉を知ったのはとても昔だ。
具体的には小学校の6年間のどこかのタイミングで、多分高学年の手前あたりで、それまで同じ目線だった男子たちよりも、女子たちの背はぐんぐん高くなり、しかし低学年の頃から中学生レベルのそびえ方をしていたあたしにとって、彼ら彼女らはやはり小さな人々で、そしてホビットがゴブリンと化した。
つまりはイジメである。カタカナだとそこはかとなくふわっとしたこの言葉は、漢字に変換すると苛めとなり、これは別の読み方で表すと、苛む、となる。
では何故彼ら彼女らはゴブリンと化したのか。
具体的には靴箱から上履きを隠し、女子トイレのゴミ箱に放り込んだのか。
ちなみに、これの犯人は不明。まあ、女子トイレだから女子なのだろうし、学校のトイレというのは男女を分ける聖域だから、どんなに不遜な男子でも、上履きをゴミ箱に突っ込むためだけに、聖域を侵犯することもないだろうけど。
うーん。分かんないなあ。男子だったのかなあ。謎だ。
この謎は、高校生となった今でも、あたしの心に小さなトゲを残している。もしも腕が神がかってるお医者さんがいて、このトゲを取れますよ、ともちかけたら、あたしはお小遣いの何カ月分までを、払おうとするのだろう。いや、そんなこと、ありえないんだけど。
そもそも論として、あたしはあのゴミ箱の底みたいな期間の同級生たちと、何をしたいのかが分からない。
あの頃の女子たちとは音信不通だし。グループラインだって入ってない。
というか、当時の女子たちは、決してあたしと口をきこうとしなかった。
完全な無視。でも盗まれる上履き。水着。体操服に筆箱。
まさにゴブリン。彼女らの特技は机を水浸しにすること。これは机の中も含むので、教科書もノートもべにょべにょになったし、前日の給食で出てきたヨーグルトや納豆がページの隙間にはさまってたりした。
通学路。学校に通う道。
低学年の時は何の意識もしなかったそのルートが、イジメを受けるようになってからは、市場に売られる子牛の哀歌が似合うような、こめかみに鈍い痛みが居座るような、そんなうっとうしい道となってしまった。
今考えたら分かるけど、というか、ふと思い出す度に考え続けた結論だけど、背が高かったのが駄目だったんだな。あたしにとって同級生たちはゴブリンだったけど、彼ら彼女らからしたら、あたしは巨人だった。愛想も良くなかったし。
だから、トイレから戻ってくるたびに、あたしの机は変わり果てていたし、机の汚れをぬぐうたびに、除去のできないものが、心の奥に澱のようにたまっていくのが分かった。澱というと気取った感じだけど、要は入浴後の浴槽に浮く垢。水を抜くとびっしりと底にこびりついてる、あれ。
そもそも、何でこんな仕打ちをされないといけないのか、分かってなかったし、道徳の授業はイジメの理由と対処なんて教えてくれなかったから、理不尽な不快感をどう処理すれば良いのか分からず、澱はますます沈み重なり、除去も切除も無理なレベルになって、結局視線に敵意を込めて、あの子たちを睨むしかなかった。
で、今だから分かるけど、あたしの目力は強い。敵意の視線を向けられてあの子たちは、完璧にあたしを無視する。でも、教室の空気に緊張が走る。
そこで男子たちの出番だ。あたしの後頭部に向けて、消しゴムを投げつける。
振り返ると知らないって顔でゲーム用のカードとかを交換してる。
あたしは、氷河期の末期に人類によって駆逐された大型獣の気持ちが、何となく分かってしまう。
そんな感じで続いたイジメは、ある日突然終わりを迎えた。
何だったかなあ。ああ。そうだ。男の子がいたんだな。その子は強度の近眼で分厚い眼鏡をしていて、着てる服がいつも汚くて、夏でもお風呂に入らないという猛者で、髪が溶けたふけでねばねばしていたという、いかにもなタイプだったから、男子たちの標的にされていたんだな。
お昼休みにトイレに行って、戻るとあたしの机はケチャップまみれになっていて、男の子が窓際の黄色いカーテンにぐるぐるに巻かれていた。手足をバタバタさせていた。
布は黄色くて、男の子のメガネのレンズが2つ、四角く浮き上がっていた。
かなりきつく巻かれていたんだろうな。
あの子を囲んで巻いてる男子たちは、楽しそうで明るくて健康な笑顔をしていた。夏の海の岩場で砂蟹を踏み潰して遊ぶ幼稚園児みたいだった。
カーテンの向こうに空があって、真っ白な太陽がまぶしくて、でも雲がちょっとしかない空は負けじと青くて、ケチャップの赤とカーテンの黄色と空のギラギラした青の三点セットに、あたしは信号機を連想してしまった。止まるか進むか注意するかを指示するあの機械。
機械に従うことを教えるのは、ボランティアのお母さんたちで、もちろんゴブリンたちも従うけど、でもちゃんとこの教室にも3つの色はあり、そして、女子たちはしとやかにケチャップをまき散らし、男子たちは明るく被害者をぐるぐる巻きにしている。カーテンの内側から声が漏れる。苦しいんだろうなあ。
馬鹿らしい、と思った。
あたしを動かしたあの時のあの感情の大元は、正義感では絶対なかった。水柿さんみたいに、羊を大切にするとか、そんな綺麗な心は塵サイズもなかった。
視線をカーテンに据えたまま、目の端に映りこんでいた女の子に裏拳を放った。
お父さんが趣味で集めていた漫画では、目がすわった筋肉ムキムキであごの張った美男子が、モヒカン頭の悪役たち相手にそんな動きをしていて、たまに盗み読みをしていたあたしは、ほぼ正確にその動作をトレースした。
そうして、裏拳は女の子のほっぺたにクリーンヒット。
悪役みたいに顔面は潰れなかったし歯もほっぺたを突き破らなかったけど、眼鏡は飛んだし、間をおいて悲鳴が上がりかけたが、その前にあたしの拳は彼女らの顔面を殴り飛ばしていた。
あたしに立ちはだかり猛烈な抗議をしようと意気込む女の子をちょっと眺めて、ジャブを放つ。
頭部は破裂しなかったけど、小鼻にはあたって、彼女は鼻を両手で押さえてしくしくと泣き出した。
教室には、あたしをのぞいて35人の生徒がいて、そのうち女子は17人で、この全員の顔面をあたしは殴り飛ばした。教室の異様に気づいたのは男子たちで、しかし彼らが日常的にしていたのはあたしの後頭部に消しゴムを投げつけるという、地味に尊厳を削摩するだけの行為であり、そもそも殴り飛ばすだけの関係があるのか分からず、結局生み出したのがラリアットである。
蛙が潰れるような声を出しながら、男子たちは吹っ飛び、机の角や壁や黒板のへりに背を打ち、やはり眼鏡は宙を舞い、異変に動揺してカーテンから離れた彼等も、やはり同様に窓に叩きつけられ、ガラスのいくつかにひびが入った。
一連の凶行の後でも、澱がすっきりすることはなく、女子たちや男子たちがあげるうめき声や泣き声はひたすら不快で、結局彼ら彼女らは漫画の悪役ですらなく、あたしももちろん主人公ではないし、読者でもない。振るったのは暴力だけど、でも……。
「つまんない」
素直な感想だった。
つまらな過ぎて、教室の床、机と机の間に散乱する眼鏡を踏み割って回った。
最後の1つを踏み割った時、視線を感じて振り向くと、カーテンにぐるぐる巻きをされていた男の子が、拘束から解かれて、仰向けの蛙みたいに腰を抜かしていた。
口が魚みたいにパクパクとしている。顔は白い。ビン底眼鏡の奥の瞳には恐怖。そうか。あたしは怖いのか。
ちょっと納得した。
その後、職員室に呼ばれ、それから先生たちの眼前で、あたしは泣いた。
何で泣いたんだろう? 分からないけど、でも、脅威を排除したことで安心したのかな。
それとも、あたしの所持品がどれだけ悲惨な状態になっても見て見ぬふりをしていた先生が、真剣にあたしを取り巻く諸事情に向き合ってくれたからかな。
またはその両方。
次の日から3日間、あたしは学校を休んだ。色んな場所に連れていかれて、お父さんとお母さんが深刻な顔で話し合うのを眺めて、ああ、弁護士事務所とかにも連れて行かれたなあ。
「お子さんは悪くありませんね。学校の怠慢です」
どっしりとしたガラスの応接テーブルに両手の指を組みながら、弁護士さんはそう微笑んで、両親はほっ、というため息を漏らした。でも小豆も悪いんです。もっと別の方法があったはずですし、と言い募るお母さんは否定を求めているように思えた。方法なんてありませんよ、とかそういうコメント。
方法。解決の手段。
他の子には、あるんだろうな。でも、あたしにはなかった。全部が馬鹿らし過ぎた。
週末をはさんで、あたしは2学区離れた小学校に転校した。
通学路はバスと電車を経るものとなり、これは高校に上がってからも、方向が変わっただけで、通学時間に変化はそこまでない。
バスに乗って、20分揺られて終着で降りる。そこから駅の改札をくぐって、小中で1駅だったのが、3駅に増えた。それだけの変化。いや、違うか。もう1つ手順が追加された。
あたしは改札を抜け、ホームの階段を上がって、向こう側に降りる。
そうして、ゆっこを待つ。ゆっこは基本的にぎりぎりだけど、あたしは余裕をもって動くから、この待ち時間は単語帳をめくる時間になる。
「おはよー」
「おはよ。て、あんた……!!!!」
単語帳から顔を上げて、あたしは絶句した。
美少女がいる。くりっとした目の可愛らしさは、そっくりそのまま、昨日の水柿さんプロデュース。
私服と制服くらいしかないその違いに、あたし限りなく呆れる。
「何でメイクなんかしてんの? 校則で禁止でしょ」
「ちょっとくらいは良いかなって」
ほっぺたをほんのり上気させて視線を横に泳がせるゆっこの手を、あたしは無言で取る。
そのままトイレに引きずっていく。
「やだ。あんた。何すんの?」
「洗え。取れ。取り除け。逆効果にもほどがあるわ。吉橋も見たらドン引き確定だわ」
低い声であたしは言い、ゆっこは、えっ、と泣きそうな声を漏らす。
が、あたしは構わない。時間がない。今日のゆっこはいつもより、さらに遅かった。
このままだと遅刻だ。だから、急がないといけない。