66粒目『abjection:みじめな、落ちぶれた状態』ゆっこ⑬
『abjection』
―みじめな、落ちぶれた状態。
みじめなのabjectにionをつけて名詞化したもの。
運命に、幸運に、世間に、大切な誰かに投げ捨てられなければ、惨めじゃないんだという、ポジティブな精神が見受けられる単語。―
朝、起きるとラインが来てた。
水柿さんだ。
おはよう、とか、昨日はラインしかとしてうんちゃらなんちゃら、はなくて、代わりに動画が1本。
輝く砂浜にゆるっとした黒のジャージパンツの水柿さん。こちらを向いてる。
顔立ちに違和感を覚える。何だろう。あたしの知ってる水柿さんはもっとふわっとしてる。
ああ。マスカラつけてないんだ。でもまつ毛、長いな。すっぴんの水柿さんはちょっとあどけない。しかも、肌はうっすらとした小麦色。こっちに来る前かな。
ナチュラルなツヤ感は今と変わらずだけど、全体的に人形っぽくない。メイクしないと庶民感あるんだな。水柿さん。国民的アイドルグループにいそうな見た目。
髪は栗色で、今と変わらず長い。肩の上でまとめて、前に垂らしている。
タンクトップは白で、胸の盛り上がりがくっきりとした陰影を作っている。
あー。水柿さん。着やせするタイプなのね。というか、サイドバストにずっしり感があるなあ。
そうか。だからいつもゆるふわ甘めの姫ファッションなのか。
かかとの堅そうなパンプス。直立不動から肘を曲げて、胸の前でゆるく握った拳を手のひらでくるむように、合わせる。
深く一礼。ずっしりとした胸の前にまとめておろした、栗色の髪が揺れる。
後ろの空がインディゴブルー。海は透き通ってて、ジュースっぽい水色だ。ざ・沖縄。
顔を上げた水柿さんは、隣の三段脚立を向いて、頂上に置かれたコーラのペットボトルに手のひらを添える。
波の音はほとんどしないのに、何というか、こっちまで緊張しそうな、ぴりぴりした迫力がある。
あたしは動画に見入る。水柿さんは何をするのだろう。
ビール瓶の頭を手刀で吹き飛ばす空手家とか、バットをキックで折るムエタイの選手とかは、テレビで見たことがある。
この子も、あれか。キックとかチョップとかでペットボトルをぼこぼこにするのだろうか。
と、かたずを飲むことおよそ10秒。
水柿さんは微動だにしなかった。
ふう、と、安心したようなため息を1つついて、カメラに向き直り、初めと同じように深く一礼。
顔を上げて小さく笑う。今よりちょっとだけボーボーの眉毛のななめ上、こめかみに、汗がいくつも、真珠みたいに浮いている。
水柿さんはそのまま横に歩いて画面からフェードアウト。カメラは脚立のコーラにズームイン。
「うわ」
あたしはドン引きした。
ペットボトルのキャップが、付け根からみじめによじれ、チョコレート色の泡が、そこからもくもくと吹き出てきたからだ。
そこで動画は終わった。
布団の中で一部始終を見届けたあたしは、しばらく鼻先のスマホ、その画面を眺め、それから色々考えて、がばりと身を起こす。
そのまま台所にいって、林檎を探す。長野のおばあちゃんが、先週箱ごと送ってくれた。まだ酸っぱくて渋くて固いそれを、ダンボールから取り上げて握ったまま、もう片方の手で、スマホを向ける。動画の撮影マークを親指でタップ。
できるかな。いや、できる。だって、この筋肉は体質だし、鯖缶だって食べてる。筋肉は落ちぶれてはいないはず。
液晶の林檎をのぞき込むあたしは、口を結ぶ。くっきりとした果実の匂いを鼻の奥まで吸い込む。
思い出すのは校庭。いつも砲丸をつかんでた。しっかりと、確かに。運命の手綱を握るように。だからイメージは鉄球。手のひら全体、指の1本1本に、ゆっくりと力を入れる。
そうして、あたしは林檎を握り潰した。
「うわ すごい あずちゃん握力ぱないね」
「対抗意識燃やしたわ。分かる? あたしだって筋肉には自信あるんだよ。昨日の拳法の話だって疑ってないし、メイク教えてもらって感謝してる。吉橋のことだってどうなるか分かんないけど見守ってる。あんな不思議動画よこされてもびびんないし、変な外人きたら水柿さん守るからね。あたし」
林檎を潰した動画を送ったら、水柿さんからすぐにラインが返って来たので、あたしは長文を打った。送信してから、ちょっと食い気味すぎたかなと思って、
「でも、沖縄の頃の水柿さんも可愛いと思った」
と付け加える。
「ありがと (うさぎのほっこりスタンプ)」
が来たので、あたしは既読をつける。
水柿さんの事は、好きでも嫌いでもない。
けど、好きでも嫌いでもない友達がいたって、良いんじゃないかな、と思いつつ、彼女に送るべきラインの文面を考える。




