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64粒目『abinitio:最初から』バトルホストの森崎くん②

『abinitio』


―最初から。


由来はラテン語の、最初から。分子の構造や物性を明らかにする手法でもある。この場合、実験値に一切頼らずに、非経験的分子軌道法を使用する。化学的な言葉。―


 失恋の話をするためには、まず、僕が当時の社内で置かれていた立場を確認しておかないといけない。


 あの頃の僕は入社3年目で、営業部長と課長の微妙な力関係を把握していた。

 部長は課長の後輩でしかも同じ大学出身。だから課長が部長を追い越したことになる。

 けど部長はそこら辺も含めて課長の顔を立てるし、課長は、立てんくてもいいぞまったくお前は大学の頃から気を使い過ぎなんだよ、と言いつつ部長のために馬車馬になる。

 お互いに気を使ってるし、ギスギスもしてない。けれど、属してる派閥が違ってた。僕が入社する前に課長を可愛がってた専務が辞任。派閥は瓦解し、課長は配置転換はまぬがれたものの、当時の部長は関連会社に出向という身になり、そして今の部長がすえられた。

 

 何だろう。うちの会社は戦国時代ごっこでもしてるのかな。

 真田の一族が関ヶ原で東西に分かれたみたいに、同じ大学の先輩後輩でも、官軍賊軍の悲喜こもごもを経験する。で、このサラリーマン戦国史が、かなり遠回りをするけれど、当時の僕の失恋につながるのだ。

 

 うちの会社の覇者、社長派の息子、いわゆる御曹司は僕の3年先輩。総務部で備品の手配とか給与計算とかしてたんだけど、そこで専務派の不正を発見、監査に告発した。

 不正は受付嬢の派遣会社の報酬にまつわるもので、不自然に高額だった。

 もちろん受付のお姉さんたちに罪はないし、契約の打ち切りとほぼ同時並行で、引き抜きの根回しが行われた。


 この根回しの前段階、御曹司の品定めが、彼主催の飲み会で行われ、僕も呼ばれた。


「あの。何で呼ばれるんでしょう。俺」

「そりゃあ、営業部、総務、開発の垣根(かきね)を払っときたい……てのは、名目だな。俺よばれねえし。ま、俺は外せない用があるからさ。別にいいけどさ。あれだよ。お前、顔がいいだろ。盛り上げ役じゃね? 総務ってさあ。あいつら営業を強化人間かなんかだと思ってるからさあ。テキーラ一気とかさせられるかもだけどさ。そこは灰皿に注がれても笑顔で飲めよ。サラリーマンは華麗に靴舐めんのが仕事だからな!!!!」

 先輩。あなたは気楽でいいですね。テキーラはともかく、灰皿のネタってあれでしょ。芸能人の不祥事でしょ。ああ。もうやだなあ。本当にやだなあ。

 

 と、なげきながらも、爽やかに片手を上げて営業先に消えていく先輩を見送る。あの人は直行直帰。外せない用事が何なのか、あの時は知らなかったけど、実はホストのバイトだった。

 そして僕は飲み会の覚悟をした。ウコンのサプリを飲む。僕は社内ではフラットな立場で、最初から、つまり入社の時からどちらの派閥にも属してなかったので、そういう意味では気楽だったし、むしろ少しだけ、(はな)やぐものもあったんだ。


 受付嬢のAさんに、僕は恋のようなものを錯覚していた。

 あの人も来る。品定めなんだから。楚々とした立ち振る舞い、受け答えを飲み会の席でも崩さなければ大丈夫。Aさんはちゃんと引き抜かれる。


 ……実際、彼女は引き抜かれた。

 そして、僕は派遣切りをされた、別の女の子から、罵倒を受けた。

「あんたとなんか寝なかったら、残れたのに!!!!」


 ええと。感情的になってしまった。これは僕のトラウマだからな。話だって前後する。

 飲み会はちょっと高級な料亭の座敷で行われた。

 接待でたまに、こういう席につくこともあるけれど、慣れないと緊張するんだろうな。

 実際派遣社員の彼女たちは、Aさんも含めてがっちがちだったし。

 そして、そんな彼女たちが可哀そうになった僕は、Aさんにいいかっこをしたいという下心もあって、とにかく盛り上げ役に回った。

 何人かが頬を紅くしたし、潤んだ視線を寄こしてきた。

 そして、僕は御曹司のついでくるテキーラに、ひたすら平身低頭。

 5本目で記憶を失った。


 気が付くとホテルにいて、安っぽい天井を見上げていた。

 生暖かい空調。臭いのついた絨毯(じゅうたん)

「あ、目が覚めたの。終電なくなっちゃうから帰るね。森崎君は泊ってけばいいよ」

 その女の子は、鏡に向かって、両手を頭の上にあげて、髪をセットしていた。

 鏡越しの会話。ホテルという空間はしめっているのに、なんというか、とても乾いた会話だ。

 でも僕は裸だし、ごみ箱をちらりと覗くと使用済みのゴムがある。まじかあ。

 大学2年で彼女に振られてから、数年ぶりの性交が、記憶飛んでたかあ。

 この感情をどう言えばいいのだろう。この女の子も、Aさんほどじゃないけれど、社内の評判は高い。

 引き抜きの声もかかる。


「一応だけど、皆に言うのとかなしね。あたし彼氏いるし」

「あ、はい」

 髪をアップにまとめ切って、ヴィトンのバッグを肩に下げて立ち上がった彼女は、真っすぐにドアに向かい、グレースーツの肩越しに、そう言い、僕は了承した。

 まあ、つまりやれたってことで、一定以上の好意はそこにあったんだろうな。僕もちゃんとたったみたいだし。彼女の口ぶりからして、会社の人に見つからないように、座を離れて、二次会もさっと参加してほどよく切り上げて、どっかで酔いつぶれてゴミ捨て場に放置された足ふきマットみたいに放置されてただろう僕を介抱してくれたんだな。で、多分僕の顔が好みだから、寝ることにした、と。


 僕は色々を類推し、洗面台に歩いて、彼女の残り香に鼻をつかれながら、蛇口にコップをあててひねり生ぬるい水をごくりと飲む。それから、はあ、と大きなため息をついた。視線は閉ざされた、原色の幼稚なヤシの絵柄の窓に流れる。開けたら隣のビルとか、廃材とかが放置されて寂しい感じの空き地とかしか見えないんだろうな。でもその向こうには通りがあるし、繁華街があるし、飲み会は3次会がお開きになった頃かな。


 Aさんは今、この街のどこにいるのだろう?

 

 ……答え。というか社内の噂。出元は派遣の子たち。

 不思議だけど、男女ネタについて、あの子たちはFBI並みの能力を発揮する。

 Aさんと御曹司はそういう仲になった。次の日、彼女は会社をやめ、御曹司の契約愛人になったそうだ。

 そして、一番の目当てを手に入れた御曹司に、容赦はなかった。

 見た目よりも丁寧さを重視。受付嬢に容姿は重要な資質だけど、中央値よりも最低ラインよりの子たちを選択。好待遇で引き抜いたあたり、人を見る目はあるんだろう。

 で、首を切られたのは、中央値以上の子たちだ。何人かはそれでも残ったけど、でも、僕はようやく、その時になって、飲み会に呼ばれた意味を知った。


 リトマス試験紙。僕に色目を使うようなら、切る。どれだけ宴がたけなわになっても、冷静で、しかも角が立たない柔らかい対応ができるなら、保留。後日そこから選別する。

 もちろん、僕と寝た彼女は首を切られたし、記憶はなくても僕に責任の一端はあるし、罵倒もちゃんとされたし、何故か第三者的な社内、特に男性陣発の風当たりは僕に強くなったし、御曹司は気軽に営業部に顔を出して、着席中の僕に後ろから肩を組むようになった。


 でも、どんなに親しくなっても、Aさんのその後はきけない。僕に勇気はなく、しかもこの失恋は胸の底の底に沈めるのが、サラリーマン戦国史的なこの会社では、一番賢い立ち回りだと、計算して受け入れる僕自身にも、失望する。そんな僕自身の尊厳を回復する機会を、僕はどこかで探していたんだろう。

 読み漁ったのは自己啓発書で、打ち込んだのはTOEICの勉強だった。


 で、結局僕は先輩の誘いに乗り、ホストになった。

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