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6粒目『abacus(そろばん。または円柱の頭頂部に渡される頂板)』英雄ゆずり

『abacus』


 ―そろばん。または円柱の頭頂部に渡される頂板という建築用語。


 語源はギリシャ語。平板、計算板を意味するabaxが変化した。現存する最古の計算用具はギリシャはサラミス島の『サラミスのアバカス』である。―


 訪ねてきたのは重次郎(しげじろう)とは似ても似つかない、頬の丸く張った小学生。

 手にはしっかりとえんじ色の手帳、ペン、と準備万端。そのうえ前髪も前髪が垂れる八の字の眉も赤に近い金色だったものだから、軽松(かるまつ)の腰は抜けかけた。

 老齢になるとささいなことに、心よりも体の方が速く反応する。


有生(ありお)・デル・モレノです。よろしくお願いいたします」

 南の海のような碧の瞳を柔らかくして、有生・デル・モレノ君ははにかみ、ぺこりと頭を下げた。

 やはり重次郎とは全然違うと軽松は思う。しかしハーフだかクォーターだか知らないが、外人の血が入った孫を、死後とはいえ持つのも重次郎らしいと言えばらしい。


「はい。有生君。よろしくね。しかし礼儀正しいんだね。今の子は。電話でもしっかりした感じだったし。教育なのかな」

 重次郎とは大違いだ、と言いかけて軽松は小さく咳を払った。

 故人を悪く言うのは良くない。しかも有生君にとっては祖父にあたる。


「教育については比較対象がないので分かりませんが、軽松さんとお会いするのを、フィールドワークという意味を差し引いても、とても楽しみにしていました。祖父が一番懇意にさせていただいたと……」

 小学生としては丁寧過ぎる物言いに、軽松は気付いた。

 髪が赤に近い金色で、目が青い、というのは結構な障壁なのだろう。

 異物として排除されないために、この子の母親は、つまり重次郎の娘は日本語を丹念に教えたに違いない。

 そういった意味でも、重次郎とは大違いだ。街並みといえる街並みは都会にしかなかった時代だ。

 今よりも緑があふれていて、ニュータウンと言われる場所は全部山林で、炊飯器はなくて飯は窯で炊いていた。何もかにもが違う。ただ、障壁を克服するために、日本語を必要以上に習得するその心意気。

 これは絶対重次郎……の伝説に影響を受けたものだ。時折見せる不敵な表情も、中々小にくらしくて、こっちは血だな。軽松は色んな物事に想いをめぐらせながら、目じりのしわを深くし、黒ぶちの老眼鏡をかけ直して、有生・デル・モレノを家内に招き入れた。椅子も勧めてから台所に向かう。


「ココアでいいかな。それともコーヒー牛乳かな」

「コーヒーをお願いします。牛乳は結構です」

 ココアが好きな年頃だろうに、と思いながらも、軽松は笑みをこらえた。大人の階段はコーヒーを飲めること。


「はい。どうぞ」

「いただきます」

 軽松もマグカップのココアに口をつける。味蕾の衰えが激しく、最近ははっきりと甘いものが好みになってしまった。血糖値を医者に指摘されているが、年だからしかたない、と軽松は割り切る。


「それで。重次郎の逸話について、聞きたいんだよね。有生君は」

 有生・デル・モレノは抱えていたマグカップをテーブルに置いて、しっかりとうなづいた。

「はい。どうして祖父が『そろばん重次郎』と呼ばれていたのか。先生から、家族の歴史を調べるようにと課題を出された時、クラスのみんなは僕にギリシャの家族のことを期待しましたが、僕は日本の祖父の逸話に興味を持ったのです。祖父はそろばんを僕の前で弾いたことはありませんでした。猟師でしたし。商売や家計のやりくりは祖母がしていたと聞いています」

 有生・デル・モレノの言葉に、軽松はまず笑顔を返した。


「それは単純で、でも現代ではちょっとありえなくて、しかもあいつじゃなきゃ無理な話さ」

「どういうことですか?」

「重次郎は熊を撃退したんだ。今と違って、山も狐も狸もリスも犬も熊も身近な時代だからね。道路と言える道路もない。でも国の計画で、アスファルトの舗装路ができた。隣町まで続く。峠を越えてね。僕らからしたら、つるつるの遊び場ができたようなもんさ。それで、僕がね。小学校に行く時に、母親の嫁入り道具だったそろばんを2枚持ち出してさ。そろばんってのは今みたいに小さくなくてね。底も抜けてなくて。スケートボードだっけ? 帰り路を家じゃなくて坂に向かって、滑って遊んでいたら、クマが出たんだ。僕は逃げた。後にも先にもこれ以上はないってくらい、うまい滑り方で坂をそろばんで下った。でも曲り道で転んだ。振り返ると熊の咆哮が聴こえた。重次郎も叫んでいた。あいつは僕と同じように滑って、でも僕よりはやく転んで、それから……」

「それからどうしたんですか?」

「ランドセル、まあランドセルともいえないずだ袋みたいなランドセルを盾にして、クマに突っ込んでいった。爪を盾で防ぎながら、そろばんの角を目に突っ込んでね。大柄だったから届いたのかな。突っ込んできたところを丁度やり返したのかな。良く見えなかったけれど、でも撃退したのは確かだ。僕たちは生き延びたんだからね。そろばんでクマを撃退した重次郎。親にはかなり叱られたみたいだけどね。まあそれは僕も同じだな。でもそろばんでクマと戦ったのはすごいからね。あいつはちょっとした英雄になった」

「そして祖父は『そろばん重次郎』になったのですか」

 少年の問いに老人はうなづき、マグカップのココアをすすった。


 ……実際のところは真逆である。

 重次郎の方が器用に上手く滑り、軽松が先に転んだ。

 襲いくるクマ。立ち向かったのは軽松だった。ランドセルで爪を防ぎ、毛むくじゃらの腕を下にすり抜けて、夢中で振り回したそろばんがクマの目に当たった。


 クマは逃げ、息の荒い軽松の後方で、重次郎が尻もちをつき、小便、のみならず大便ももらしていた。

 問題はこの大便だった。


 クマが現れた。軽松が撃退した。

 それはいい。しかし体の大きい重次郎が何もできず、しかも大便をもらしていたというのは、重次郎の今後にかなり関わる。このことを少年たちは悟り、重次郎は安堵のすえに絶望し、うえっうえっと泣き出した。

 軽松は哀れに思い、そもそも重次郎の誘いに応じてそろばんを持ち出したのは自分なのだから、とクマ撃退の功を重次郎にゆずることにした。

 

 だから重次郎は、うんこを漏らしながらもそろばんで勇敢にクマと戦い撃退した重次郎、略して『そろばん重次郎』になった。

 もちろん本人は不本意だったのだろう、と軽松は推しはかる。

 後年、成人した重次郎は猟師となった。つまりクマに雪辱を果たし続ける人生を選び、軽松は家業を継がずに大学に進学、中堅企業の会社員となった。


 ……赤い金髪の男の子に全てを伝えるか。

 1つくらい、誰も知らない事実を譲ってあげても良い気がする、と軽松は迷う。クマを撃退したあの時の僕たちは、ちょうどこの子と同じくらいだった。

 感慨。遠い時間。けれど、やはり男の子には秘密よりも伝説が似合う。身内の黒歴史を知らされても困るだろうし。ということで、軽松は有生・デル・モレノにもう一度笑みを向け、

「本当に、あの時の重次郎は英雄だったよ。僕からしたら命の恩人だからね。忘れようがない」

 と言って老眼鏡の奥の目を伏せ、だいぶぬるくなったココアをすすった。

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