59粒目『abhorrent:大嫌いな。いやでたまらない。忌むべき』ゆっこ⑩
『abhorrent』
―大嫌いな。いやでたまらない。忌むべき。
abhorrenceの語尾のceを形容詞のtにかえたもの。―
水柿さんの右目に水滴がたまった。
桃色の、ぷりっとした唇の端を、ちょっとだけ上げたまま、彼女は泣きだす寸前の赤ちゃんみたいな顔をした。韓国メイクっぽい、長く穏やかな眉を寄せ、桃のような頬を震わせる。
でも、水柿さんは泣かなかった。代わりに、水滴がとても大きくて透明なかたまりとなり、水柿さんの頬を黒く伝った。黒い涙を見たのはあたしもゆっこも初めてだったから、あたしはちょっとのけぞってドン引きし、ゆっこは、
「大丈夫!!!?」
と凄い勢いで彼女を覗き込んだ。ここら辺に、人格の差が出るんだろうなあ。
「大丈夫大丈夫。あーマスカラ落ちちゃった。ありえないわあ」
水柿さんは無邪気に笑った。涙が作った黒い筋には、濃淡がついていて、ちょっと墨汁っぽさがあって、でも水柿さんの肌はみずみずしさが溢れているから、これもメイクの一環ですとか主張されれば、そうですか、と納得してしまうような……。説得力。そう。説得力があった。
「ちょっと拭くねえ。あ、ついでに見てて。自己流だけど、これが一番手っ取り早い、マスカラの直し方」
言ってから、水柿さんは堂々と、鏡相手にマスカラを拭き、一連の作業を始める。
あたしは彼女の姿を見て、集中する人は綺麗だ、と思う。綺麗というのは、純粋、とか純化の意味で。
この後、おしゃれ強者、姫的メイクで復活した水柿さんは、長い話になっちゃったね、えへへ、と笑った。誰かに片目の羊の話をしたかった。でもできなかった。何かが怖くて。もちろんダミアンはもういない。今頃は退役してアメリカでバーでも開いているかもしれないし、フィラデルフィアで薬物中毒者になっているかもしれない。もう関係のない人だけど、それでも、誰かに話そうとすると、ダミアンに監視されているような錯覚に襲われる。
「あの、水柿さん」
「ん? 何?」
首をゆるく傾げる水柿さんに、ゆっこは真剣な顔をした。
「ダミアンが来ても、あたしが守るよ!!!! アマレスで国体行ったし、がっちり抑え込むから、水柿さんはその間に警察呼んで!!! こいつも筋肉お化けだから、何かの役にはたつし」
あたしをさすゆっこ。筋肉お化けとは何だ。無礼者め。力めば腕にメロン作れる女子高生なんて、世の中には溢れて……いないけど、一定数はいるわ。ぼけ。
と、思いつつも、あたしはうなずいた。
「お化けじゃないけど、筋肉に自信はあるから、ラリアットとかすれば吹っ飛ばせるから大丈夫だよ。水柿さんは吉橋のところに逃げれば、て、あれ? 水柿さんって結構強いよね?」
「うん。克服したくてね。まず護身ができないと、誰も守れないから。琉球空手と中国拳法習ったし。でも、どれだけ鍛えても、ほら。結局対峙してるのは、子供のころのあたしだし、ダミアンは記憶の中のダミアンでしょ。結構、うん。でも、そうだね。皆頼もしい。乾杯!!!」
水柿さんは空っぽのグラスを掲げ、あたしとゆっこはちらりと横目で視線を交わし合い、小さくうなずいてから、乾杯!!!、と、皆でグラスをぶつけあった。
「でも、何であたしたちなの? 水柿さん、コミュ強の、ギャルって感じでもないけど、明るいし友達多いじゃない」
ゆっこがトイレに行ってる間に、あたしは水柿さんにきいた。
「あ、それはあれだよお。ゆっこちゃんも、あずちゃんも、あの学校に残ってるから。うらやましくて、でも、あの学校って無理だったんだよねえ。本当に」
「へ?」
多分、あたしは鳩みたいな顔をしてる。目を丸くして、ぽかんとしてる。
「あ、分からない? 意味」
「うん」
微笑みながらきいてくる水柿さん。うなずくあたし。
「そっかあ」
水柿さんは、喉だけで、小さく笑った。
あ、この人。さっきの長い話もだけど、実はめちゃくちゃ闇抱えてる人かもしれない。
「学校に残りたかった。でも残れなかった。けど、水柿さんが無理ならあたしたちだって絶対無理。何がちが……」
「あたしね。水柿家の本当の子供じゃないの。聞いちゃってね。夜中に。聞き間違いだと確かめたくて、戸籍謄本勝手に取ろうとして、お母さんにばれて泣かれて、正式にカミングアウトされちゃった」
「それって……」
「これ以上は言わない。でも、あずちゃんは分かるでしょ。ゆっこちゃん戻ってくるし。もうそろそろ。で、あの子の前で、この話題、したい? 気絶するんじゃないかな?」
悪魔はいなくても、小悪魔はいる。
今日まで信じてなかったけど、それはくつがえされてしまった。
水柿さんは小悪魔だ。と、断言したいくらいの、小悪魔的な笑顔で……。
水柿さんは、あたしにデコピンをしてきた。
直前で我に返り、あたしはとっさに肩から床に崩れる。
空振りしたデコピンは、しかし鋭く高い音をたて、室内の空気を震わせた。
「おお。凄い。避けた」
「て、何するの? 水柿さん」
「避けれた人いないんだよ。あずちゃん。あたし、元々あなたのこと気に入ってた。けど、ますます惚れたわ」
何故か手を叩いて喜ぶ水柿さんに、あたしはやり返したくなって、床のカーペットに手をついて上体を起こし、水柿さんに手を突き出し、デコピンを放った。
あたしの中指は正確に水柿さんの眉間を弾き、
「あんた!!! 何やってんの? 馬鹿じゃないの気が狂ったの!?」
と、トイレから戻ってきた、ゆっこの罵倒を招いた。
「あはは。違うよお。じゃれてただけ」
水柿さんは明るく笑い、瞬間、あたしは気づいた。デコピン合戦の直前の、カミングアウトの真意に。うん。これは真意だ。間違ってたら、失礼過ぎる。忌むべき発想。吉橋だって、この種の考え方は身の毛がよだつくらい、大っ嫌いだろうし。でも、だからこそ、水柿さんは耐えることができなかった。そもそも、強化選手の話は言い訳で、本当は吉橋といることに耐えられないから、アパートを出るのだ。
1つがつながると、全部が連鎖していく。
― でも、マジかあ。―
水柿さんは、吉橋と血がつながってない。吉橋は態度からして、そのことを知らない。
そして、そんな吉橋に……。
水柿さんは、恋をしているのだ。
以下、個人的なメッセージです。
遥さんへ。
というわけで、ゆっこはここで一区切りです。次のゆっこはまた来週となります。
水柿さんの掘り下げをしたくて、こんな感じの話を書きましたが、羊の元ネタは羊たちの沈黙です。
凡人の身で天才とお褒めの言葉をいただくのは、嬉しいが一周回ってはずかしくなってきたので、ちゃんとネタ開示しますね。俺に才能などないのです。あ、でも昔はあったな。
文章を打つことに脳のリソースを全部使い切っているせいか、文章が入ってきません。
でも、とりあえず書けて良かった。
ダミアン、書いてて楽しかったです。ダミアンにも実在のサイコパスというモデルはいますが、羊の前で笑ってる写真が、本当に夢に出てきそうに邪悪で、そこからエピソードをふくらますのは、とても楽しかったです。
でも、羊をバーベキューにしただけなんですけどね。
サイコスリラー感を感じていただければ、僥倖です。
そして水柿さん。笑。まあ、ありがちですが、こういうキャラクターも、書いてると楽しいので、ゆっこは楽しいです。
次回はファンタジーになります。がんばります。
ではでは。




