53粒目『abetter:教唆者。扇動』善意のわだち③
『abetter』
―教唆者。扇動者。
abet扇動に、~する人のerがついて、abetterとなる。後方腕組み厄介おじさん、という俗語があったりするんだけど、そういう人たちは、実は煽る相手に気づかせている時点で、後方腕組み的には失敗で、自発的に動くように仕向けるのが、営業職でも、ホストや飲み屋のお姉さんでも、または宗教でも、大切な手腕であり、資質なのだろうなあ、と思ったりします。 ―
ヴォイが演説をする直前まで、私は社屋の最上階の応接室にいて、来客の準備をしていた。
あの記者の時と同じように、ハーブティーの茶葉をつまみ、鼻先に上げて匂いをかぎ、品質の維持を確認。
空調の設定温度を確認し、湿度も調整する。
雇用主は今日もどうせ、挨拶だけをして、そそくさと退散するに決まっている。今回は記者ではなく、外国の企業人だが、やることは変わらない。慇懃を尽くす。
相手企業と利得を折衝する。資料はもう頭に入れてあるし、説明用のプロジェクターも、故障はない。
中国製は安価だがすぐに壊れるので、別の国の製品を使っているが、機械製品はいつ壊れるか、分からない。だから予備品も確保していたし、確認も怠らない。
この会社で、私は決済も含めた全てを取り仕切っているし、そのために必要な、雇用主の信頼を得ている。
部下たちからも信頼されているし、少々の、時には結構な無理を聞いてくれるかどうかは、結局、この信頼にかかっている。謙虚に、誠実に仕事をすることが、この信頼につながる。
私はよく、雇用主から、白人でもないのにクソ真面目だなあ、と笑われていた。彼は、そうして笑ってから、とても穏やかで、寂しい顔をして、俺とお前は肌の色を間違えて生まれてきたんだ、と言い、あおるための酒を探す。私は、そんなことはありませんよ、と微笑む。
実際、彼はとても白人らしい。怠惰で、自堕落で、高みから現地民を見下ろし、そして神という存在を揶揄しながらも実在を確信し、恐れる。
神などいないのに。そんなものは、白人が現地民を洗脳するために使用した道具、足掛かりに過ぎないのに。けれど、逆に現在では足かせとなるこの概念が、この男を正常にとどめている。
雇用主が私を殴打しないのは、私に親愛の情を抱いているわけではなく、神という観念に制止されているに過ぎないし、そういう意味では、私は神に感謝を祈るべきだ。
自堕落で、酒と薬物におぼれ、牛乳が腐ったような腐敗臭を脇からただよわせるこの男に、非暴力という美徳が付与されている事実……だけではない。
もう亡くなってしまったが、両親が生活費を切り詰めて、私を大学の農学部に通わせてくれたこと。
ヌル人に混じって肉体労働をしながらも、無事に大学院まですすむことができたこと。
院では遺伝子工学を学び、助教授に推薦されるための研究論文は、白人の他学生に窃盗されたが、それでも卒業はできたこと。夜明けの首都の飲み屋街の隅で倒れていた白人を介抱し、飲み水を与え、アルコール中毒死から救った縁で、仕事先を見つけたこと。自堕落な雇用主には、それでも妙な情があり、私の両親が流行病にかかった時に、仕事に休みをくれて、入院先と費用を用立ててくれたこと。
結局あの時の恩が、私に、あの男を裏切らせないのだ。大学の同級生だった女性と首都の路上で再会し、連絡先を交換した時も、雇用主は邪魔をしてこなかった。
俺が追いたい尻とは違うな、と失礼なことを言ったが、彼女との結婚には祝福の言葉をくれたし、祝宴の費用も、特別ボーナスだ、と言って支払ってくれた。
確かに彼は白人らしくない。そして私は、ンエ人らしくないのだろう。
一般的なンエ人より、恩に報いることを望む性質が強い。しかも、この恩をあらゆる事象に感じがちだ。大学時代にヌル人に混じって労働をしたのが、多少関係しているのかもしれない。
ンエ人は決してヌル人に感謝はしない。過酷な肉体労働はヌル人の責務だと思っているし、そう教育されてきた。ンエ人の役割は、白人に奉仕しつつ、ヌル人を罰すること。
ヌル人は粗暴で、同族同士で迫害しあい、決して団結しない。仕事も監督者の目を盗んではなまけるし、そもそもが頭の悪い民族だから、文字も読めない。
……というのが、ンエ人の常識だったが、私は、この常識に違和感を覚え続けてきた。
頭が悪い、文字が読めないのは、初等教育そのものがされていないからではないか。
団結をしないのはいなめないが、粗暴でなまけがちなのも、こちらが高圧的に接するからで、しかも労働に誘因を与えないからではないか。
こういった疑問は常に頭の中にあったし、しかしこれは私自身の劣等感に対する、説明でもあった。
私はヌル人に感謝を感じてしまう。肉体労働者にも、清掃業者にも。
つまり、彼らは感謝に値しない劣等民族ではない。ただ、社会構造的に、感謝という循環すらからも隔絶されただけの人々であるだと、私は思いたかった。
だから、あの記者にも、その主張にも激しく同感し、共感し、動揺した。結局は上から目線的な思考に滑稽を覚えることで、自分をしずめたが、どこかで、私は罪悪を抱いていた。記者の言う事は正しく、しかし私は何もできなかったからだ。
ガリレオガリレイは地動説を主張したが、私がもし彼だったら、そんな勇気はない。ただ微笑むだけで、全てをやり過ごそうとするだろう。しかし、その裏で鬱屈は澱のように溜まっていく。
※※※※※
ヴォイの大統領就任は、その意味でも、私を驚かせ、そして歓喜させた。
ヌル人がシュテットランドの、名目上でも頂点に立った。白人たちは他国の融和主義的独裁者を、その腐敗を引き合いに出し、彼もそうなるだろう、と軽蔑をしたが、そんなことは私には関係がなかった。
この会社で働くヌル人の待遇を、大っぴらに改善ができる。ヴォイは、この国の主だった企業各社に、ヌル人への配慮を求めた。これを白人たちは、リップサービスだと、やはり揶揄したが、それがおためごかしでも、私には僥倖だった。
掃除夫たち、給食の運搬業者への支払い賃の増額。ンエ人専用だった、給食工場の休憩所の使用許可。
もちろん工賃も増額させる。社員雇用の壁は厚いが、いつかは実現できるだろう。
長年の部下、特に農場時代から一緒に働いてきてくれたデンフは、それでも私の施策にことごとく反対した。彼は生真面目で、ンエ人に対する情が篤く、そして気性が荒い。
ヌル人を殴打するために生まれてきたような男だったが、遠慮のない物言いを、私は気に入っていた。
不思議な事だが、私は、救いの少ない人間に好感を覚えがちである。
支払い賃、工賃の増額も、休憩所の使用許可も、私はヴォイの登場前から主張してきた。が、デンフはことごとく費用の無駄だと反対し、時に荒れ狂い机を担ぎ上げて窓を割った。
本末転倒を地でいく男である。窓の修理費用は、一時金から捻出し、デンフも謝罪をしたが、意見を曲げることはなかった。
『ボス、俺は窓に当たりますがね、他の奴はあんたをどうにかしてやろうって、思っちまいますよ。いくらあんたが社長のお気に入りで、賢くて、仕事がいくらできたってね。ンエの感情を馬鹿にしちゃいけません。あんたはベルギーの記者じゃない。ンエ人なんだ』
凄むようにこちらを睨みながら、しかし涙をにじませるデンフに、何も言えなかった。
部下の言葉はンエ人の正論だったからである。加えて、私をボスと呼んで慕ってくれるこの男を、無下にはできない。
こんな鬱屈が、葛藤が、ヴォイの登場によって払拭された。
未来に穏やかなものを感じた。デンフはうるさいことを言わなくなった。もちろん、眉に深いたてじわを作って、こちらを睨んでくるのは変わらない。が、無言だ。
この無言を都合の良いように解釈し、私は労働環境の改善に動く。
掃除夫の派遣元を素通りして、現場の意見に耳を傾けるために、業務の暇を見つけては、彼らに混じって社屋の清掃をするようになった。
この過程で、つまり制服を借りたり、機械の操作を教えてもらったりという一連で、何人かの男たちと親しくなった。キャンディや現金を差し出しても、断られなくなったのは、親しみの証だろう。
少なくとも以前は断られた。ヌンヴィエ様がよくても、受け取るあたしらが、罰を受けます。仕事がなくなって、食えなくなるんです、と、表情のない目で言われた時は相当にきつかった。
が、ヴォイの登場でそれは消えた。
もちろん、そんな私に決して心を開かない男もいる。ワロロワだ。
彼は何も受け取らない。口も聞いてくれない。しかし、これは私の悪い癖だが……。
難しい男に好意を抱く傾向がある。業務に空白の時間を作っては、清掃業者の制服に着替えて、ワロロワの後ろを追いかけて、清掃作業に従事する。
本業に戻る時に、笑顔を向け、礼を言うが、もちろん返事はかえってこない。けれど、それで良いと思う。頑固な人間が、私は好きだ。
※※※※※
第一秘書というのが、この会社での私の立場だった。
実質的には支配人の立場でも、秘書は秘書である。
支配人の役職は、他の会社と同じで、白人がになっている。が、彼をもう何年も見ていない。
シュテットランドはそういう社会だ。そんな中でも非常に恵まれたことに、私には秘書室が与えられている。
この秘書室で、ヴォイの演説を目撃した。
22歳で議員になってから4年で大統領になったヴォイは、そこからさらに3年たって、やや疲れて見えた。共同で生活した当時のような、少年の頃の頬の丸みはどこにもなかった。
「あらゆるヌルの同胞よ。あなたの隣の、ンエ人を殺せ。鉈が手にあるのなら鉈で、なければその手で首を絞めるのだ。これはヌル人の未来、生まれくる子供らに贈るべき祝福である。今こそ我々ヌル人は、ンエ人の支配を覆すのだ。これは革命である」
メッセージは強烈なのに、とても簡潔で明快な文章だと思った。
隣の、で対象を定める。あらゆるヌル人の隣に、または近隣に、ンエ人はいるし、武器は鉈か素手だ。
素手でなくても、あらゆる手段を用いて、ヌルはンエを襲うことができる。
その指示をヴォイは出した。しかし、人間には善性がある。顔の見知った者を、隣人を殺すのを、ためらう者もいるだろう。だから、その障壁を、未来という言葉で取り除く。
母獣は子獣を守るために凶暴化する。贈るべき祝福。義務と願望。先祖が舐めてきた辛酸を、次の世代に引き継がせない、という希望。支配を覆す。鬱屈の発散。革命という爆発的な解放。
そういえば、ヴォイは言葉をつむぐのが苦手だったな、と何故か思った。
沢山のことを、沢山の視点から眺めることができるのに、言葉をつむぐことにためらいがある。
明快に話せば良いんだよ。そもそも、同じ民族でも、喧嘩や意見の違いはある。理解をしあうには、言葉というのは不完全だ。だから、一番相手が聴きたいことを話せばいい。ヴォイ、君は頭がいいし、とても優しい子だから、それが絶対にできる。そうしたら、誰も君を攻撃できない。攻撃には意志や理由が必要だからね。
一緒に暮らしていた頃のヴォイは、言葉をうまくつむぐことができなくで、でも発せられた言葉には、妙な説得力があった。そのことを褒めた記憶がある。
何にせよ、彼はあらゆる物事と戦い、克服してきた。テレビの画面に映るヴォイは、29歳の大統領で、たたずまいには威厳があった。目は穏やかで、声色には牧師が子供たちに聖書の話をするような、そんな平和があった。
しかしだからこそ力強いし、訴えかけるものがある。もし私がヌル人だったら、泣くだろう。
感激しながら民族の苦難に思いをはせ、教唆者の言葉の通りに鉈を手に取って、柄を握りしめ、隣人を襲うだろう。
そこには善性、使命感しかない。迫害者への個人的な悪意もない。ただただ先祖と子孫のために、扇動に従うのだ。
ヴォイは、本当に言葉をつむぐのが、うまくなった。
こんなことに感慨を覚えていた私は、動転していたのだと思う。
腕時計と壁掛けの時計をそれぞれ見比べて、時刻を確認。
外国の企業人は、予定通りの時間に到着できるだろうか。
ヴォイの演説で、首都は混乱しているから、無理だろうな。
窓の外、秘書室のある階のはるか下の地上から、クラクションの音が、一斉に聞こえ始めた。
かすかな悲鳴も地上からだろうか。ここまで届くということは、大層な断末魔だ。
ではどうするべきか。
ヌル人の社員たちに、通達を出さねばならない。
ノートパソコンに向かい、
『本日全業務停止線、各自、身の安全に努めること』
と打ち、一斉送信。
「いや。いやいやいや。何をしてるんだ? 違うだろう?」
首を振り、独り言を口走る。業務連絡なんて、こんな、土砂崩れみたいな状況では、誰もみない。しかも停止線って何だ?
何を混乱しているんだ? 何年この仕事をしてきた? 恥ずかしいぞ?
混乱するこの声帯は奇妙な叫びを小さくあげて、足は秘書室のドアに向かって駆け出した。
妻の元に行かなければならない。家族で国外に脱出する。
8時間でベルギーだって行ける。あの記者は来れた。
ドアノブに手をかけようとした時、弾き飛ばされた。
私は秘書室の赤い絨毯に尻もちをついた。
水道業者が、携帯型溶接機を片手に、立ちはだかって、見下ろしてくる目は漆黒で、しかも血走っていた。
溶接機は配管に使うものだ。が、武器として使われれば、かなり恐ろしいことになる。
私は尻もちをついたまま、彼を見上げた。
「ここは給湯室ではないよ。君」
何故そんなことを口走るのだろう。この喉は。ヴォイが広めた狂気が私にも伝染しているのか。
普段と同じ物言いをしてしまう。違うのだ。
水道業者の彼は、ドアを蹴破って表れたのだ。
私は彼の蹴ったドアに弾き飛ばされて、尻もちをつき、腰が抜けて起き上がれないのだ。
するべきは嘆願。泣いたり叫んだりして、許しを請うのだ。
でも、良かった。秘書室を襲撃してきたのは、水道業者だった。つい最近派遣されたのか、面識がない。顔見知りのないヌル人で、良かった。
特に、例えば清掃業者が集団で襲ってきたら、それはもう悲しくてやりきれなかったことだろう。
そういう意味ではとても良かった。でも、溶接機で殺されるのは、恐ろしい。私は暴力沙汰が苦手だし、そもそもンエ人はもとよりヌル人ですら、殴ったことはない。
水道業者の彼は、一度給湯室の方向に首をひねり、眺めるその隙に、私は立ち上がり突進するべきだったが腰がどうにも抜けたままであり、視線をこちらに戻した彼が瞳孔を灰色に広げて叫んだ時、つられて一緒に叫んだ。
溶接機が振り上げられる。
私の両手は反射的に動く。額の上にかざす形で頭部を保護。目は閉じて、顔は横を向く。
でも、こんな反射は正解ではない。横に転がり、避けるべきなのだ。
映画や小説の主人公たちは、そういう行動をとっていた。私はできない。そもそも映画の主人公とは、ヴォイのような人間を言うのだ。または雇用主。救いのない飲んだくれの薬物中毒者だが、全てに恵まれた人間。
いや、ボスと慕ってくれるデンフもか。がんとして私と口をきいてくれなかったワロロワも、そういう意味では映画の主人公かもしれない。確固とした意志を持つ人間。
では彼は? 秘書室の出口に立ちふさがる彼は?
もちろん違う。確固とした意志を持つ人間とは、教唆者の扇動に踊らされたりはしない。
などと、何故こんな非常で非情な状況で、ひたすら考えているのか。
そろそろ溶接機の先端が首を貫く頃合いだ。
妻は無事か。娘を守れるか。こんな状況では無理だ。混乱だ。デンフのものだろう叫びが遠くから発生して、かすかに耳に届く。
駄目だ。私は殺されるべきではない。横に避けるんだ。動け。体。
短い合間だった。
危機は意識を加速させる。自動車事故でも、そんなことがあるらしい。
尻もちの状態から、目をつむったまま、私はころんと横に転がった。
同時に、ごっ、という重くて鈍い音が前方からした。
目を開けると、水道業者の彼が横に崩れていた。
「胎児ごっこか。恥ずかしい奴だな。お前は」
観葉植物の鉢を両手に抱えて、雇用主が私を見下ろしていた。
「あ、ええと……」
「立て。手は貸さねえぞ。自分で立て。くさっても俺は白人だからな。白人はヌエ人なんかに手を貸したりしねえんだよ」
「あ、はい」
私は立ち上がることができた。多分、雇用主の言い間違いに気づいたからだと思う。ンエ人とヌル人。
雇用主も雇用主で、2つの単語を混合させるくらいに、動揺している。
彼と2人で、非常階段に向かい、長い段差をひたすらおり続けた。
途中、ひっきりなしに悲鳴が聞こえてきた。それは男性だったり女性だったりするし、しかも新人の正社員以外は全員の顔とネームプレートが再生されてしまい、その度に雇用主は私に悪態をついた。
「お前、勝手に業務停止出しただろ。社長は俺だぞ。責任取って、社員を守るといった仕事は無視しろ」
私はこの男を誤解していたのかもしれない。
彼は社長室で、ヴォイの演説を目撃し、多分動転したのだろう。
それから、私が出した一斉通信を見て、とても腹を立てた。
怒りは彼に行動を促し、秘書室まで降りてきて、その間に冷静を取り戻した。
今、シュテットランドは殺戮の園と化している。
対象はンエ人だが、白人も安全とは言い切れない。大使館に避難する必要がある。
運転手が、つまり私が必要だ。
ということで、悲鳴のたびに社員の救出に向かおうとする私の背広の首根っこを、彼はつかんで引き戻す。
「無駄なことは考えるな。ヌエ人の方が多いし、そもそもお前らは、殴るのは得意だが、襲われるのは慣れてねえ。わきまえろ。お前が最優先にするべきは、俺の護衛だ」
護衛。そうだろうか。
私が突き出す箒の柄は、何故かこちらに向かってくるヌル人からそれるし、むしろ雇用主が両手で振り回す植物の鉢は、正確にヌル人の側頭部を横殴りに吹き飛ばす。
危機に強いのはこういう男なのかもしれない。
「……なあ」
「はい」
「何で、俺が全部ぶちのめしてんだよ。お前は、英国紳士か? この、メンタル、白人、が」
一階に到達した時、雇用主は肩で息をし、罵倒をしてきた。
手すりにだらしない体はもたれ、彼は顔を上げない。汗が生え際の後退した額に、浮いている。
「申し訳ありません」
「……いくぞ。車の運転は、いつも通り、お前がしろ」
雇用主は運転ができない。そもそも、運転はンエ人の役割だ。
はい、と私が返事をした時、後方で重いものが引きずられるような音がした。
私と雇用主は同時に振り返り階段を見上げた。
一階と二階の踊り場に、デンフの体が転がってきた。こちら側の段差に垂れた腕は血まみれで、手は手の形をしておらず、不自然に曲がった首のために、私は彼が、死体となっていることを知り、唖然とした。
私の腕を、分厚い手がつかんだ。
「急ぐぞ。呆けてんじゃねえ」
押し殺すような声で、雇用主は言った。私は我に返り、彼と共に地下駐車場に急いだ。
黒塗りのベンツ。86年。社用車である。
常に整備が完璧にされている、そのベンツの鼻先に……。
清掃員姿の男が呆けたように、コンクリートの天井を見上げて、立っていた。
制服の腕はだらりと下がり、裾から出た手はナイフを握っている。
蛍光灯を反射する、ベンツのボンネットが、やけに不気味に見えた。
「ワロロワ」
「待ち伏せかよ!!! いい度胸だなこの野郎!!!!」
ワロロワの名前をつぶやく私。
私の横で、咆哮と共に植木鉢を構える雇用主。
「ヌンヴィエさん」
ワロロワは雇用主を無視し、私に顔を向けた。漆黒の瞳には、やけに疲れた光が浮かんでいる。
「ワロロワ。あ、初めてだね」
「何が、ですか? これ、作業用ですけど、ナイフですよ。見えませんか?」
向けられる先端を、私は無視した。
「いや、君が話してくれるのは、初めてだなって。こんな状況だし、複雑だけど」
この言葉に、ワロロワは少しだけ、きょとんとして、それからナイフを床に落とし、乾いた音が響き終わっても、まだ、くっくと、喉で笑っていた。
「ヌンヴィエさん。あんたは本当に呑気ですね。白人みたいだ。俺は白人が嫌いなんです」
「何だとこの野郎!!!」
雇用主が叫んだが、私もワロロワも無視した。
「あげますよ。これ」
「え」
ワロロワがほおって寄こしたのは、清掃業者の作業車の鍵だった。通常、ヌル人しか乗らない。
不衛生だし、臭いと毛嫌いされている。それは、ヌル人と同じように。
「こんな車、乗ってたら襲われます。運転するのはンエ人ですからね」
ワロロワはベンツを振り返り、ナンバープレートを作業靴の先で蹴った。気だるい音が響く。
雇用主が罵倒の声をあげかけるが、フンと鼻を鳴らしただけで、足早に作業車へと向かう。
彼に続こうとして、ふと思い直し、私はワロロワを振り返る。
「ありがとう。ワロロワ」
「別に、ですよ。俺は、ヌンヴィエさん。白人みたいな偽善者のあんたが嫌いなんですよ。忘れないでくださいね」
「分かった。忘れない。機会があれば一緒に食事でもしよう」
「……みんな誤解してるけど、あんたは本当に馬鹿だな」
「おい!!! 鍵開けろよ!!!! 鉢が重いんだよ!!!!」
作業車の横で叫ぶ雇用主。やっぱり雇用主を無視するワロロワ。
そんなワロロワに、私は頭を軽く下げた。
もちろんンエ人はヌル人にそんなことはしないが、この場合は関係がなかった。
受け取った鍵でエンジンはちゃんとかかり、私たちは駐車場を出発した。
「伺ってよいですか」
「何だ」
「植木鉢、いつまで抱えてるんですか」
「俺の安全が保障されるまでだ」
安全な場所なら理解できる。大使館がそれだ。が、安全の保障なんてこの国に存在するのだろうか。あるとしても、それは今まさに消滅しかけているのではないか。
大使館も、ヌル人が殺到すれば、山崩れの土砂に流される樹木みたいに哀れに、破壊されてしまう。
私は、納得しました、とだけ応えた。ハンドルを握る手を強くする。
車は大使館に向かっている。運転に集中する必要がある。車道のそこかしこで、車輌が炎上している。歩道では暴徒たちが通行人を襲い、死体が無造作に転がる。
いくつかは車道にも散らばるため、私はハンドルを切って回避せねばならない。額に脂汗が浮いて、垂れる。目がしみる。極度の緊張。
大使館は、我が家と会社の中間の位置にある。この位置関係を幸運だと思った。
神は存在するかもしれない。ここは地獄だけれども。
以下、個人的なメッセージです。
遥さんへ。
そうですか。お母様のことだったのですね。
悲しむのは自然なことです。言うのがためらわれる心情も、何となくわかります。
遥さんは、強い大人として、ありたいのですね。
その気持ちを尊重したいですし、話したい時はいつでも聴きたいです。話したくない時は、話さなくて大丈夫です。メッセージの長さは気にしていません。
読んでくださる、という確信で、俺は書けるのです。頭がぽやぽやしてますが、今回も何とか書けました。良かった。
それと、不幸が重なったのかな、辛いだろうな、と思っていたのですが、そんなことはなくて、安心しました。お母様のことを悲しむのも、供養だと思います。
大切なことです。
脈絡がありませんね。とりあえず、色々な邪推が(言うのは恥ずかしいし失礼かもしれませんので、詳細は避けます)妄想であって、良かったです。すいません。
今回は文字数が膨らんでしまいましたが、これでもかなり端折っております。
後半のバタバタ感は何でしょうね。ヌンヴィエさんより社長が活躍してる……。
でも、ワロロワのエピソードは書いてて楽しかったです。
ヌンヴィエさん、愛される人ですよね。
さて、今回はさらりとでしたが、次回こそヴォイとヌンヴィエさんの因縁をちゃんと書きたいです。
次回で、善性のわだちの終了予定は変わりませんからね。
がんばります。でもまず、寝ます。おやすみなさい。