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5粒目『aback(逆帆。びっくりさせられる、面食らう、の意味の熟語でも使われる)』驚天動国ペルチュクトゥーンス

『aback』

 ―風を帆が前から受ける状態。いわゆる逆帆。びっくりさせられる、面食らう、の意味の熟語でも使われる。be taken aback at など。


 語源は古英語の『後方』。背後を取られる、後ろから叩かれてぎょっとする、のようなニュアンス。aback単体ではほとんど使用されない。―


 サキホ=業天(ごうてん)と名乗ったその女性は、瞳が豹のようだった。

 静かで、獰猛(どうもう)で、屈託の無いという意味で限りなく純粋な、そんな瞳だ。


「つまり君は業天君のお孫さんなんだね」

「私は業天お父様の娘です。母はお父様の13番目の花嫁で、16の時に私を出産しました。お父様は昨年お亡くなりになりましたが、母は現在30歳です。元気に暮らしています。再婚は考えてないようです」

 13番目の妻、のところで僕はコーヒーをむせた。アイスで良かった。ホットなら火傷をするところだった。 それにしても88歳という老体に、むせるという行為は危険である。

 血圧が上がるし、最悪死んでしまう。院生たちの論文に優とか良とか可を認印する仕事が残っている。

 助手の設楽羽(したらば)君にきつく釘をさされたばかりだというのに、何ということだろう。

 いや、この場合はむせて当然か。サキホ=業天という女性、もとい少女はドアをノックもせずに、ドアノブも握らずに、つまりドアという概念的構造物を通過せずに、この研究室に侵入してきた。

 それが2分前の話だ。5分前、僕は研究棟の1階にいて、エレベーター前のホールで5階行きのボタンを押していた。そうだ。僕の研究室は5階にある。最上階だ。


 サキホ=業天の精神構造はどうなっているのか。豹のような瞳は、一切を拒絶するように強く揺るぎがない。なんせ、僕がむせたのにもかまわずに、彼女の母親の説明まですらすらとした位だ。

 しかも日本語で。しかし唇はほとんど動かしていない。英語のように口腔内で発音する言語が、ペルチュクトゥーンス語なのである。


 にわかには信じがたい事実だが、現状そんな事実が波状に押し寄せているが、サキホ=業天が実際に話しているのはペルチュクトゥーンス語なのだ。僕の耳に届く女性の声は機械音声による同時通訳。ただとても滑らかかつ自然で、とても機械の声だとは思えない。相当質の良いソフトウェアを使っている。しかも説明的に浮かび上がるホログラム。これは現代の技術では無理だ。

 3次元処理演算の速度が違いすぎる。量子コンピューターでも使わないと不可能な速度。

 もしかして業天は量子コンピューターの研究を、ペルチュクトゥーンス語でしていたのか。

 C言語よりもペルチュクトゥーンス語の方が開発の相性が良かったのか。

 真実は謎に包まれている。業天は去年亡くなってしまった。

 妻を含めて仲間においていかれるのは慣れているが、業天の死にも寂しさを感じる。

 

 しかしよりによってペルチュクトゥーンス語か。僕は手を出しかけたが挫折した。文法が難解過ぎる。アルファベットを2進数列に変換してしゃべるような言語だった。


 そんなペルチュクトゥーンス語は、ペルチュクトゥーンスというペルシャ湾の南端から100㎞ほど隔絶された海上に浮かぶ孤島で、使用される言語だ。人口は5万人。日本の市町村と同じ位の、サキホ=業天の容姿からも推察される通り顔立ちがアラブ系で端正な褐色の肌の人々が暮らしている。彼らはペルチュクトゥーンス王国に帰属している。

 65年前の研究仲間だった業天がここに帰化して、その縁で国交も日本とだけ開かれたというニュースを以前、といっても40年も前だからあいまいだが、新聞か何かで読んだことがあった。だから僕は世界の98%の人々は名前も知らないだろうこの国のことを、知識の上で受け入れていた。


 何故98%が知らないのか。国連に登録はしているが、国交は日本としか結ばれていないからだ。

 その日本とも交易はほとんどない。そもそもペルチュクトゥーンス島には資源がない。地下油田の範囲から絶妙に外れているし、ソマリアの海賊の跋扈圏からもやはり疎外されている。

 たしか世界を揺るがした1回目と2回目の湾岸戦争でもあの国はかやの外だった。港と言える港もないし、海には映画クラスの凶悪な鮫が泳いでいる。ただ、浜辺は珊瑚が砕けてできたものらしく、とても綺麗だと新聞には書いてあった。が、これも他の国の記事かもしれない。なんせ40年も前に読んだ記事だ。

 記憶だって歯のように根元からぐらつく。


 それにしても……。

 業天はたしか僕とおない年だったはずだ。71歳で15歳の褐色の少女を13番目の妻に持つとはこれいかに。まったくうらやましい。などと思ってしまう僕自身はけしからん。ペルチュクトゥーンス王国の民俗風習は謎に包まれている。つまりあちらの国ではごく自然なことなのかもしれない。それに中東は一夫多妻が一般的なのだ。それにしても13番目の妻か。71歳か。僕は68歳で妻に先立たれていたから、71のころは自炊に慣れていた頃だ。やっぱりけしからんぞ。業天。僕は君が素直にうらやましい。


「あの、大丈夫ですか?」

「ああ。失礼した。遠い目をしていた。昔を思い出してね。話はほとんど聞いてなかったが、要約すると、こうだろう? つまり、君はペルチュクトゥーンス王国を救いたい。王国は危機に瀕している。そして、生前の業天君が君に言づけたんだよね。本当に困った時は日本を頼れ。日本の木南を頼れ、と」

「業天お父様が日本を頼れとおっしゃられたのは事実です。でも後半は違います。お父様は日本の山岸様を頼れとおっしゃられました。本当に頼れる奴は山岸様だけだとも」

 人違いじゃないか。

 僕はあっけに取られ、開いた口がふさがらなかった。

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