47粒目『aberrant:常軌を逸した。異常な』ちゃたすま③
『aberrant』
―常軌を逸した。異常な。
語源は、離れるのab+さ迷うのerr.常識の場所を離れてとんでもない場所をさ迷ってる、というイメージ。常識というレールを外れて迷わなければ、たしかに少なくとも正常と言えば正常という主張の、闇が深い単語。―
女の名前は門松須磨子といった。
「門松さんって、あの門松さんですか?」
「つまらないことを真面目にきく人間って面白みに欠けるわよね」
須磨子はアンガス牛のステーキから顔を上げずに言う。温度のない声色。
白く長い指は銀色のナイフとフォークで肉を切り分けている。ナイフもフォークも店の備品だ。
「狂ったことを素面でやるよりまともですけどね」
皮肉が伝わるか、茶太郎は自信がない。
樫材のアンティークテーブルをはさんだ須磨子は、仕草に迷いがなく、ステーキ肉の赤い断面をこげ茶色のソースにすりつける指の動きは優雅ですらある。
新人歌手のポスターをフォークでめった刺しにしていた狂人と同一人物だとは、茶太郎も信じがたい。
そもそもこの旅そのものが、つまりスコットランドはアバーディーンという街の飲食店で、見知らぬ女と牛肉を食べているというこの事実が、茶太郎には信じられない。
一週間ほど前、茶太郎は日本にいたし、7年間付き合った十和田柚津子との結婚を考えていたし、柚津子の帰国を心待ちにしつつ、指輪を渡す準備もしていた。
レストランも予約して、趣味で集めていた骨とう品の処分も進めていた。
なのに……。
柚津子は予定日に帰国せず、レストランの予約日に、一通の葉書が届いた。プリントされていたのは、ウエディングドレス姿の柚津子。抱きかかえていたのは、柚津子が海外ツアーを担当していた新人演歌歌手。葉書の消印はアバーディーンで、だから茶太郎は渡航を決意、実行した。
葉書一枚で終わる関係ではない。ちゃんと問いたださねばならない。いや、仕事上でトラブルがあって、柚津子は歌手に愛を錯覚したのかもしれない。しれない、ではなく、した、に違いない。
渡航の間に茶太郎の思考は期待は確信に変質し、使命感が生まれた。柚津子の目を覚ましてやらねばならない。7年間の日々が、記憶が彼をせきたてる。
そうして到着したアバーディーンで、茶太郎は須磨子の奇行を目撃した。
彼女は、目抜き通りの掲示板に張られていた、新人歌手のポスターを、真っすぐに見上げていた。
腕だけが別の生き物のように動いて、逆手に握ったフォークが、新人歌手の顔面をめった刺しにしていた。
茶太郎は哀れを感じ、警備員の声がかかる前に、と、須磨子を食事に誘った。
結果、2人は目抜き通りから海の方に3区画外れたレストランで、アンティークの丸いテーブルを囲んでいる。
「狂ったこと、ね。思考停止って楽でいいわよね。動物園の猿みたいで。何も考えない」
須磨子は鼻で笑い、茶太郎は応える代わりに微笑をした。
黒目が異様に小さいために、獰猛な印象のある、目の前のこの女は、挑発をしている。ポスターをフォークでめった刺しにする代わりに、関わる人間に難癖をつけることで、憂さを晴らしている。
門松須磨子が、あの門松なら、つまり繊維大手『門松』の令嬢なら、この高慢な態度もうなづける。品のある食べ方も。門松須磨子。思い出した。『門松』の株主総会資料の役員一覧に名前が出ていた。
「では、教えてください。『門松』のご令嬢が、どうして野生の猿みたいな勢いで、ポスターをめった刺しにしていたんですか? あの新人歌手に恨み、または因縁があるんですか? あなたのような人が、わざわざこんな街にまでくるなんて、ずいぶんレールから外れたことをしていますよね」
茶太郎はゆっくりと質問をした。
できるだけ穏やかな声になるようにつとめた。
が、須磨子はうつむいて肉を細かく切り分けるばかりで、返事がない。
仕方がないので、茶太郎は店内に視線をめぐらす。
乳白色の壁にかかった、額縁の古い絵。緑と白の抽象画。
塗装のひびわれたカウンター。腰にエプロンを巻いた、ひっつめ髪の男性店員。濃い眉と高い鼻。
ポットに淹れるコーヒーの準備をしている。何かを口ずさんでいるが、店内を流れる民謡と同じ歌だろう。哀愁を帯びた曲調。蛍の光がスコットランドの民謡であることを、茶太郎は唐突に思い出す。あの曲に似ている。
店内には茶太郎と須磨子の他には客がおらず、テラスで高齢の夫婦が額を寄せ合うようにして、何かを話し合っている。夫婦の顔面に刻まれたしわが、かもす年季が、不意に茶太郎の目頭を熱くする。
本当は、ああいう夫婦になるはずだった。本当は今頃、柚津子と2人で結婚式のあて名書きをしているはずだった。日本で。スコットランドの港町で、常軌を逸した行動を取っても恥じらいもしない、逆に開き直る狂った女を前に、牛肉を食う。
ありえない現実だ、と思いながら、沈黙を続ける須磨子を前に、茶太郎は牛肉の欠片を口に運んだ。
それは鉄の黒い皿に半分残っていたものの1つで、表面が少し焦げて、赤い断面には白い筋が走っていた。筋から皿に、透明な肉汁がにじんでいた。
茶太郎の奥歯が肉片を噛むと、肉汁は半分が溶けて、半分が繊維として残った。繊維は牧草の香りがして、旨味がスコットランドの冷涼な大地を、海霧を吹き飛ばす風と、風にたなびく雲を連想させた。
ほとりと、茶太郎の頬を涙が伝った。
「え? あんた、何泣いてんのよ?」
「美味いからです。こんな時でも、肉が美味くて、だから悲しいんです」
皿から顔を上げてあわてる須磨子の前で、ワインと共に、無理やり肉をのどに通し、茶太郎は酒臭い息を小さく吐いた。
やってられなかった。
「馬鹿じゃないの。プライドとか、ないの。美味しいからって、美味しいけど、でも、馬鹿じゃない……」
須磨子の声も、後半は涙が混ざっていた。
悪い奴じゃないかもしれない、もちろんポスターをフォークでめった刺しとかは異常だけど、それでも悪い奴じゃないかもしれない、と、茶太郎は須磨子に対して思いながら、足元のトランクケースを開けて、日用品袋からハンカチを取り出し、どうぞ、と須磨子に渡した。
以下、個人的なメッセージです。
遥さんへ。
すぐに続きを書きたいとか、前回の後書きで書いて、何日もかかってしまいました。
頭が本当に悪くなってしまって、文章作成能力が本当に落ちてしまい、まったくこまったものです。
文章を作る時って、パズルを解くような頭の使い方をするんですが、ブレインフォグで霧がかかって、とても疲れて、あとちょっと風邪もひいてダウンして、結局筆もこんなに遅く。
でも、とりあえず書けたことで安心しています。
茶太郎の話はしばらく続きますので、気に入ってもらえると嬉しいです。
臨場感のコメントありがとうございます。空気、光、風、指の感覚、等々が伝わるように書きたいなあ、と思っています。これは俺がどんなになってしまっても、変わりません。
以前はすらすら書けてたものが、うなるようにして創るスタイルになっているので、色々な変化が文章、作品にも起きているのかもしれませんね。
でも、俺は書くのに精いっぱいで、もう、本当にお届けするのが精いっぱいで、自分で書いておきながら、深さとか、よくわかっておりません。
そして、遥さんに読んでいただけることが、嬉しいです。色々な物事、鬱屈や悲嘆といった感情が、純化されていく感じがします。
俺は本当に、喪失を埋めることはできませんし、そういうことができるのは、遥さんのまわりの方々であると知っていますが、でも、気晴らしとなる何かを作れることは、喜んでもらえることには、生きがいのようなものを感じます。誇張ぬきにです。できるだけの頻度で更新したいので、もちろんこんな状態なので難しいですが、でも、頑張ります。
遥さんは、感想は気になさらず。体調の回復に努めてくださいね。とてもたくさん書いていく予定です。感想を書く機会は山ほどになるはずですから。
あと、ですね。落ち着いた色合いは色合いで悪くないのですよ。しっとりとした大人のイメージ、穏やかな安心感、辛い色合いの服には服の役割があります。
でも、明るい服を着て街を歩く遥さんの姿は、想像すると、こちらも何となく気分が上がりますね。
こちらこそ支離滅裂で申し訳ないです。
が、こういうメッセージを書けること。本当にありがたいです。
ではでは。
重ね重ねになりますが、ご自愛くださいね。