46粒目『Aberdeen Angus:アバディーンアンガスというスコットランド原産の食肉牛』ちゃたすま②
『Aberdeen Angus』
― アバディーンアンガスというスコットランド原産の食肉牛。ファミレスでアンガス牛フェアなどをたまにやっているので、味覚的な意味でなじみが深いかもしれない。―
その女はポスターを見上げていた。
栗色の髪をゆるくまとめた紫色のシュシュが、ピンクと白のストライプシャツの肩にたれていた。
冷涼なアバーディーンには珍しく、その日は晴れていて温かく、だから海風が余計に湿った。
風は、板から外れかけた幾枚かのポスターの端と、彼女の腰に巻かれたグレーの帯を揺らし、濃い薔薇の色のフレアスカートを膨らませた。
日本人とひと目でわかる、彼女のその横顔を見た時、米志津茶太郎は、十和田柚津子のことを忘れた。
会社に無理を言って、10日間の休暇を取った茶太郎は、アバーディーンへの旅の間中、ひたすら柚津子のことばかりを考えていた。イギリスに向かう航空機の座席はせまく、膝を曲げねばならなかった。
すました顔の添乗員が運んできた機内食の肉は硬く、ナイフとフォークで細かく切り分けて、咀嚼をすると味だけが濃かった。
水分をほっする喉のために、ビールをひたすら飲み倒すはめになった茶太郎は、しかし酔えなかった。
機内に響く地鳴りのような音と、それにともなう振動に気持ちが悪くなり、トイレで吐く。
ついでに号泣もした茶太郎の胸中は、ひたすら苦かった。
そして、柚津子だけが、脳内に、まぶしく再生され続けた。
それは自動的で、再生を重ねるごとに、美化されていく。
ころころと笑う柚津子。ベッドでの白い姿。気だるい性交。赤く火照る頬。
シャワーを浴び、化粧台の前で、真剣な面持ちでルージュを引く柚津子。
あの男にも、柚津子は同じ姿を見せたのだろうか。
茶太郎の胸は鈍く、時に鋭く痛む。
葉書で送られてきた写真の柚津子。純白のウェディングドレス。
あらゆる柚津子が茶太郎の脳裏に浮かび、満たし、溢れた。悪化する航空機酔いは彼女のせいだった。
7年間の同棲を経て、半年前に柚津子との結婚を決意した茶太郎は、プロポーズを画策していた。
そして、輝かしい計画は、たった一枚の葉書によって、儚く消えた。
結婚の報告。相手は新人演歌歌手。歌手に抱きかかえられる柚津子。消印はアバーディーン。
茶太郎は渡英を決めた。終わりになどしない。できない。7年間の同棲は、絆は、一枚の葉書で終わるものではないのだ。たとえ終わるにしても、ちゃんとした手順を踏まなければ、整理などつかない。そう。柚津子の口から、想いを、理由を聴く必要がある。
演歌歌手のツアーイベントを担当していた柚津子は、もしかしたら仕事上のミスをしたのかもしれない。それは莫大な額の損害を会社に与えるほどに致命的で、演歌歌手に迷惑をかけ、結局尻をぬぐってもらうはめになり、そうして体の関係も結んでしまい、その後ろめたさを、感謝の念を愛情と勘違いをした。いわゆるつり橋効果。危機的な状況で、男女は恋を錯覚する。
茶太郎は、成田のゲートをくぐる前は、これが都合の良い妄想だと薄々理解していた。
それだけの理性があった。しかし、機内の揺れと、ビールの悪酔いと嘔吐の時間で、この妄想は確信に変質した。
航空機はロンドンに着陸し、何度かの乗り換えを経て、茶太郎はアバーディーンの街に到着。
昼と夜が逆転するような感覚。これは時差である。機内ではほとんど眠ることができなかった、すり切れた茶太郎の脳みそに、異国の陽光は直接的に届く。逆光に白く浮かび上がる花崗岩の街。その重厚。風は潮をはらんで生臭く、等間隔で配置された尖塔の上を、海鳥がゆっくりとかすめていく。
昼前のアバーディーンに人通りはまばらで、白人たちはゆっくりと道を歩いていく。以前旅をしたホンジュラスやサイゴンのような乱雑、混沌を茶太郎は感じない。
視界の端が白く、痛むようにちらつくのは、寝不足のためだし、だから、ホテルに入ったら、少し眠ってもいいかもしれない、と茶太郎が思ったその時、音が聞こえた。
目抜き通りと裏路地の微妙な境界にすえられた、掲示板。はられた告知ポスター。
ブラスバンドの演奏、UKロックの公演。演歌のポスターもあった。
マイクを握る着流しの青年。髪は刈り込まれて真っ黒で、瞳の光が柔らかい。
彼女は青年の瞳を見上げていた。
まばたきもせず、表情もなく、じっと笑顔を凝視していた。
そして、ストライプシャツをたくし上げた華奢な右腕だけが、別の生物のように、一心不乱に動いていた。
握ったフォークを突き立てる。青年の顔に。
一瞬、少しだけ離す。そしてまた突き立てる。
掘削機のような硬い音が連続して響く。
まばらな通行人が、ちらりと彼女を見ては、通り過ぎていく。
彼女はかまわない。ひたすらポスターを見上げ、逆手で握ったフォークを突き立てる。
鈍い銀色のフォークは、アバーディーンの太陽を白く反射。花崗岩製の街並みも。
茶太郎は、そんな彼女にあっけに取られてから、気が付いた。
目抜き通りの先で、年配の女が警備員の腕をつかみ、フォークの女性をさして何かを言い募っている。
ほどなく、フォークの彼女は警備室に連行されるだろう。
そして警察に引き渡される。
茶太郎は悲しみを感じた。異国で、演歌のポスターにフォークを突き立てて、逮捕される女性がいるという事実。
事情は分からない茶太郎だが、曖昧な同情をした。
彼は彼女に声をかけることにした。が、何をどう話せばよいのか分からない。
警備員が来ますよ。何でフォークを突き立てているんですか。気持ちはわかります。恨みがあるんですよね。
……どれも違う。無表情にひたすらフォークを突き立てる彼女に、言葉は疑念の影を落とすだけだ。
茶太郎は迷いかける。が、時間がなかった。警備員がきてしまう。大柄の黒人だ。
「アンガス牛とフィッシュアンドチップス、どちらが良いですか?」
茶太郎は、彼女の後ろから声をかけた。
肩越しに彼女はフォークを突き刺す手を止めて、茶太郎を振り返り、
「何? あんた」
と冷たい視線を投げてきた。
が、茶太郎は負けない。
「この街の牛、有名なんですよ。美味しいって。でも、フィッシュアンドチップスもイギリスってかんじですよね。だから、どっちがいいかなって思って」
笑顔がさりげなくなるよう、ひたすら腐心する茶太郎。女性は眉根を寄せるも、右腕をようやくおろし、茶太郎に向き直ってくれた。
そうして、あらためてまじまじと茶太郎を眺める。
「アンガス・ビーフ」
と、静かな、しかしどこかいらだちのこもった声で、女性は答えた。
うまくいった、と茶太郎は安堵しつつも、一方で気落ちも禁じ得ない。
というのも……。
正面から見た女性の肌は皮膚が薄く、鼻もあごも小さなうりざね顔で、整う整わないなら間違いなく整っていたが。
化粧も濃くも薄くもなかったが。
ただ、黒目が異様に、そして致命的に小さかった。伝統芸能の能面。あの切れ長の瞳にそっくりで、茶太郎は恐怖というよりも、獰猛な何かを感じてしまった。自然と後ずさりをしかける。が、それでも彼の手を彼女の肘に絡めていた。
「行きましょう。警備員に面倒をかけないうちに」
そっと、ささやくように言いながら、茶太郎はさらに動揺していた。気づいてしまったからである。彼は、このやり取りの間、柚津子の事を完全に忘れていた。
以下、個人的なメッセージです。
遥さんへ。
まじですか。結構な日数がたったけど、療養解除されませんか。
心配です。ブレインフォグ、辛いですよね。
俺もワクチンで、頭のポンコツが進んでしまいました。
本当にもどかしいですよね。分かりますので、返事も感想もご無理なさらず。
あと、嬉しいお言葉をありがとうございます。俺は幸せな執筆者です。
それと、茶太郎のこの話は何話か続く予定です。できれば今日中に、予定のところまで書きたい。けど、執筆速度が。
と、葛藤中ですが、まずは一話、続きを書けました。とりあえず良かった。
遥さんのメッセージを楽しみにしつつ、あと数話は、できれば十数話は、頑張って書きたいと思います。
秋ですね。ただでさえ季節の変わり目です。ご自愛くださいね。