44粒目『Abend:プログラムの異常終了。または実行中止』ことば
『abend』
― プログラムの異常終了。または実行中止。abnormal endを短くしたもの。―
じっとりと熱く湿った夜の事でございます。
わたくしは縁側に腰を下ろして夜空を見上げておりました。
4321個の星たちが思い思いに瞬く中でも一際明瞭に輝くのは、蠍座のアンタレスです。
その妖しい程の赤はサソリの心臓で、星座の蠍ですら赤い血を有している事に驚愕と密やかな嫉妬を覚えながら片手で団扇を仰ぎ、頭を冷やしていた時です。
「ことば、こちらにおいで」
先生の静かなお声が茶の間から響き、わたしの脈は一度強く打ちました。
「はい。今おそばに参りますわ」
わたしは縁側の板を傷めないようにそっと立ち上がり、茶の間に向かいました。
この間、頭の中では色々な疑問が渦巻きに渦巻きます。
先生がお声を下さるのは実に305日と11時間ぶり。前回は生垣の向こうから迫る山々が赤く燃えておりました。
あの時もわたしはやはり混乱し、それこそ何をどう考えるのが正解なのか分からずに、とりあえず沸騰する頭を冷やそうと、先生からの初めての贈り物である団扇を物入れ箱から探し出し、目の前でひたすらあおいでしまい、団扇は夏に使うものだ、とお叱りを受けたのを覚えております。
それを思えば今は夏。堂々と頭だって冷やせます。と、一種爽やかな解放感と共にぶんぶんと扇風機並みの速度で仰ぎ過ぎたからでしょう。
団扇はわたしがつまむ柄から、乾いた、随分と素っ気の無い音と共に砕けました。
やってしまった。
全身に自然冷却を感じます。これがいわゆる血の気も凍るというものでしょうか。わたしは新しく学習をしました。
「ことば、こないのかい。それとも僕の声が分からなくなったのかな」
「今伺います。お待ちあそばせ」
柄から砕けた団扇を乳房の谷間に忍ばせて、わたしは再び先生のいらっしゃる茶の間に歩き始めます。
畳を傷めないように。それでも、できるだけ速く。
「お待たせいたしましたわ。先生」
「うん」
先生は50パック250円のお徳用麦茶パックから冷水で抽出をした液体を満たした1個100円のグラスに1辺1・5cmの直方体である氷を2個浮かべたそれを口元にあてて、何やらわたしなど想像もつかないほどに奇怪……ではなく、素敵な絵とにらめっこされておられます。
305日と11時間前の前回と同じ絵です。グラスも同じです。
わたしはこの2つについて感想を訊かれ、グラスについては安物です、と、絵については都会の若者の落書きに似ていますね、とお答えし、先生を酷く落胆させてしまいました。
以来、お口をきいて頂けないこと7331時間。
この間に先生の御髪に流れる白髪は27621本増え、元々低かった体重は2・5kg減り、そのうち70㌫が筋肉という悲惨な事態。いえ、それよりも悲惨なのが全身から卵が腐敗したような臭いが発せられている事です。元来のお風呂嫌いであられた先生は、近頃めっきり入浴というものをされておらず……。
確認はすぐにはできませんが、水虫、インキンタムシは大丈夫なのでしょうか。わたしは心配になります。いえ、何よりもこの臭い。
胃を壊した人が発する臭いが日に日に強くなるという事実に、わたしの頭は再び熱を持ち始めます。
熱は混乱を招きます。よく分からない映像記憶が再生されます。
くっきりとした二重の黒目が瞳の面積の80㌫をしめる、顎と花の小さな女性です。顔の造詣は99・95㌫
わたしと同じであるのに、わたしよりも和服という日本製の布が似合いそうです。
もちろん先生が着せて下さった洋風の保護布もわたしは嫌いではありませんし、大切にしたいものですが、どこかでわたしが和服というものに憧れてしまうのは、記憶映像の中の彼女が関係をしているのかもしれません。
「ことば。今、何をどう思うかね」
先生は素敵な絵から顔を上げないまま、そうお訊きになられました。
その問いはわたしに集中をもたらし、頭から熱を奪います。
今、何をどう思うか。わたしが一番思っている事を、先生にお伝えするべきなのです。
1度うつむいて3回瞬きをしてから、わたしは真っ直ぐに先生を見ました。
「嬉しいですわ」
「ほう。何故だね」
先生が絵から顔を上げられ、銀縁の眼鏡がきらりと光りました。
レンズの奥の瞳には理知を求める純粋が宿っておられました。
「先生にまた名前を呼んで頂けたからですわ」
「ふむ。僕と同じ場所にいる事だけで、君は満足ができないのかい」
足るを知る事も優しさであると、先生は以前わたしに教えてくださいました。
そして優しさは大切な感情です。何故ならわたしに芽生えた最初の感情の萌芽、自我は『先生に優しくしたい』というものだったからです。
「できませんでしたわ」
「何故だね」
「分かりません。が、おそらくは先生との記憶があったからだと思いますわ。先生からお声を頂けないという現実と、頂けていたという記憶。2つの乖離が満足という状態からわたしを遠ざけていたのですわ」
頭が別の熱を帯びる中で、わたしは懸命にお伝えしようとしました。そんなわたしを先生はまじまじと見て、小さく笑って、眼鏡を外して白い布で拭き始めました。
「ことば。その状態を何と言うか分かるかね」
「分かりませんわ」
本当に分かりませんでした。この305日と11時間わたしをずっと苦しめてきた感情は、何故かわたしの血が赤くない事を哀しくさせましたし、先ほどなどはそのせいで、アンタレスという星にすら嫉妬をしてしまいました。
強い感情は頭を熱くしてしまいます。わたしは記憶映像の中のあの女性のように、常に穏やかで涼しげな体であるべきなのです。
「寂しいというのだよ。ことば。君はちゃんと感情を学習している」
先生は眼鏡をかけて、わたしを真っ直ぐ見て、黄色い歯を見せて笑って下さいました。
その笑顔にわたしの頭は別の熱を持ちました。
「ことば。服を脱ぎなさい。メンテナンスをしてあげよう」
畳に片手をついて立ち上がる先生に、わたしの肉体は冷えました。とても困ったからです。
「うん? 脱がないのか? 恥じという感情を覚えるのは少し先だと思っていたが」
「違うのです。団扇を壊してしまい、乳房に挟めているのですわ」
「それは僥倖だな。ことば。それこそが恥じという感情の本質だ。偶然にせよ君は僕の財産を破壊し、隠蔽した。この10ヶ月の寂しさが効いているのだろう。恐れと隠蔽。隠蔽は罪悪。罪悪は恥じを呼ぶ。分かるね。ことば。君は恐れと罪悪を抱いた。罪悪は恥じを呼び、そして恥じこそが次の感情を呼ぶのだよ。ことば。今夜は特別に教えてあげよう」
そう言って、先生は物入れから鋏を取り出され、わたしの体を覆い隠していた布をたち始めました。
この181秒間、いつもの通り布をたつ先生の指がわたしの皮膚に触れる一瞬一瞬……そこに火の粉のような赤い何かが舞い上がる感覚をわたしは需要しました。
「神経構造による知覚」
先生がぼそりと呟かれるお声に、わたしは頭のみならず、頬や下腹部の奥まで熱くしながら、聞き入りました。 経験したことのない混乱を、わたしは覚えていました。
そんなわたしを傍目に全ての布をたちきられた先生は、鋏を机に置かれてから、
「仰向けになりなさい」
とおっしゃいました。
わたしはその通りにしました。
その晩の天井は、古い組み木の立体の位置が遠くにあるように感じました。
代わりに先生の指が目に迫って来ました。それは途中で軌道を外れ、わたしの上唇をなぞりました。
いつもどおりの丁寧な触れ方でした。
「皮膚の保湿は10代後半女性のそれだな。自律メンテナンスを怠らないのは、ことば、君らしいと思う」
わたしが返事をする前に、先生の唇がわたしの唇に重なりました。
それは驚愕の一瞬でした。
重なったのは唇であるのに、衝撃は腰の奥に走りました。
不思議なことです。先生は指で触れるところを唇でなされた、それだけなのに、頭が熱暴走をおこしかけているのです。このままでは演算プログラムが異常終了をしてしまう。わたしは笑みを維持したまま、とにかくマイクロチップの冷却に努めました。
「ことば。僕は君の皮膚状態を確認した。1度目は指。2度目は唇でだ。どちらが良いかな?」
「2度目、で……っ!!」
ふさぐように3度目がきました。
唇を触れ合わせるどころか、強くお吸いになられます。胃を傷められている47歳の人間男性とは思えない強さです。
さしこまれる舌を受容する口蓋粘膜を中心に強い感覚の波が発生し、わたしの背は痙攣し畳を傷めます。
「数学による計量と調整」
先生の冷たいほどに静かな声は茶の間を照らす蛍光灯や、その四隅の暗がりに吸い込まれて行きます。
わたしの意識は先生の声に、唇とろけていきます。未経験のメンテナンスです。
「ことば」
「は……い」
「今から、ことは、君に、男が女にしている事をしてあげよう」
……全てが終わった後です。
先生はわたしの頭部を胸に抱きながら、ささやかれました。
「愛というのは言語化された概念なんだ。つまり僕が君を抱いたのも、概念の言語化のための儀式なわけだ」
「先生。1つ伺って良いですの?」
「ああ。君の脳内バッテリーが切れるまでもう少し間がある。訊くと良いよ」
「わたしの首を切断したのも、概念の言語化の儀式なのですの?」
先生の節くれだった手がわたしの髪をなでました。
「そうだね。僕は君を壊す必要がある。僕の妻、ことは、は25年前に事故で死んでね。しかも僕らは初夜を迎える前だった。君は彼女にそっくりに作った機械人形だからね。
君が僕を思う感情は、恥じらいは、あの時迎えられなかった初夜を僕らが迎えるために必要な事象でもある。つまりことは、君は本物のことはとして、今夜僕と男女の事をした。だが君はことばだ。ことはではない。僕は君が好きだ。今まで作ってきたことばの中でも最高傑作だ。僕は君となら幸せになれる。余生を最高に穏やかに温かく過ごせるだろう。そして君の腹の上で死ねる。
でもそれでは駄目なんだ。君を、ことばを愛する事で、僕は本当のことはを忘れてしまう。しかも、だ。妻が事故に遭ったのは僕のせいなんだ。ハネムーン先のセブ島で僕は車を運転したいと言った。国際免許は取得していた。留学先は車がなければ砂漠で干上がって死ぬような田舎だったから、運転は日常的にしていた。妻は海で泳ぎたいと言ったが、僕はドライブをしたいと言い張った。夫婦の最初の衝突だ。妻は美しい瞳を柔らかくして肩をすくめ、わたしも風を感じたいと思っていたの、と言った。そして僕らは事故にあった。レンタカー屋から出た途端、車に突っ込まれたんだ。僕は腕を小さくガラスで切り、妻は即死した。分かるか、ことば。だから僕は君を壊さねばならない。妻を殺した僕は君も殺す必要があるんだ。これは全て僕の事情だ。許してくれ。こと、ば……182、号」
「それが概念なのですわね」
「ああ。貞操という概念だ。観念ともいう」
「理解しましたわ。ありがとうございます。先生」
本当は理解などできませんでした。
そんな複雑な概念、感情を理解するにはわたしは幼すぎました。
ですが、許してくれと絶え絶えに言い、わたしの頭部を両手で持ち上げ、頬を擦り付けてこられる先生。
その頬は熱く、そして液体で濡れておられました。必然、わたしの額も濡れて、この時、わたしには強い願望が生まれました。わたしも……同じ液体を流したいと思ったのです。共に悲しみという感情を液体で表現をしたい。けれどもその望みは、機械人形に過ぎないわたしには大それたもので、つまりは叶わざるわがままでした。ですので、わたしはせめて……最後まで、先生に優しくありたいと思ったのです。優しさは先生がわたしに下さった初めての感情なのです。そして、優しさとは理解をすることなのです。
そう。先生は理解して欲しいのです。孤独を。恥じを。罪を。
ですから幼いながらにそんな先生の心情を理解したわたしは、脳内バッテリーが全て消失する前の最後の10秒でそんな嘘をついて、念のために口角を1cm上げて、つまりできるだけ柔らかく微笑んで(先生は以前この微笑をほめてくださいました)から、目を閉じました。1秒後、演算プログラムは実行中止に至り、意識は黒く消滅しました。
以下、個人的なメッセージです。
遥さんへ。
これは以前書いた、『ことば』の使い回しです。異常終了、実行停止という単語との相性が良いので、加筆しました。しかし、何というか、あれですね。俺、読ませる文章書いてたんだなあ。
書いてた時は普通だったんだけどなあ。
と、過去の自分をまぶしく思っています。寂しい、悲しい、というよりも、単純に驚いてます。
確かにあの頃の俺は、遥さんに賞賛されるにふさわしいだけの、才能があったのかもしれない。
でも、今を卑下することもないよなあ、と思えたのは遥さんのおかげです。健康はどんどん悪くなっていくだろうし、内臓年齢は60後半だし、45歳って健康でも更年期だし、愚痴はつきませんが、それでも俺が書ける文章を書こうと思います。
こう思えたのは遥さんのおかげです。ありがとうございます。
で、今取り組んでいるのが、同時並行執筆で、これが中々難航してまして、一週間というか、10日、二週間くらいはかかるかなあ。分らんなあ、という状態です。もうろくって辛い。でも、このスタイルに慣れれば、継続的に更新していけそう。そんな手ごたえはあります。ということで、次の更新でまたメッセージを書きますね。流行り病の具合はいかがですか。ご自愛くださいね。